イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -61ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

「異端カルト宗教『主イエスと食事をする教会』偽預言者の今泉大輔をBAN!! さんによる投稿をリブログした上で、改めて、前後関係をご説明させていただきます。

 

Twitterでも同じ方が、同じ内容で「拡散希望」と何度も投稿されていました。

出現した時期と、書いている内容のうち、特にある一つの名詞を繰り返し使っていることから、この方は、私と2022年1月に電話で話したことがある、現在、当教会で私たち兄弟姉妹と一緒に活動をしている娘さんのお父様であられると同定しています。

 

お名前を承知しております。Twitterで「拡散希望」がたくさん現れた時期には、警察にも相談いたしました。(お書きになっている、ある事柄が、電話で繰り返し私に尋ねた内容であり、その事柄を、その名詞によって理解することは通例行われていないことから、イコール、そのお父様しかそのように理解しないことから、その名詞を使う方は、お父様しかおられない。前後的な時期を考えてもそうである、ということで、お父様だと同定いたしました。警察にも同じことをお話ししております。お名前も告げています。)

 

この方が引用されている2010年半ばから後半にかけての(12年前のことです)、私のTwitter、YouTubeの発言、動画などはすべて事実であり、その時の炎上の経緯は、この教会ブログの以下の投稿でも、以前にご報告いたしました。

 

息子のために泣きました。-- 2010年のネット大炎上のこと --

 

ここに書いた経緯は、ごくかいつまんだもので、いずれ詳しく、この時の顛末をこの教会ブログで書く必要があると考えています。

 

なお、2010年に炎上した際には、2chにも私のページができまして、色々なコメントが寄せられました。以下のページが残っています。すべて、私の言動の悪さからもたらされた、私の罪ゆえの、インターネットに永遠に残る記録です。

 

【ピーポーズ】今泉大輔【twitter】

また、Ustreamという動画配信で、私が酒に酔って、Sという人に○すと脅しをかけている様が残っていて、それの要約がネットに上げられています。これもまた、私の言動の悪さから持たされた、私の罪ゆえの、インターネットに永遠に残る記録です。

 

また、炎上した当時のTwitterの私の発言がTogetterに残っています。

 

いずれも私の言動が、ひどいものであり、多くの方々にたくさんのご迷惑をおかけいたしました。謹んで、お詫び申し上げます。

 

その他、私が過去2年の間にLINE電話で、悪霊の問題について相談をさせていただいた方や、当教会の日曜礼拝に参加されていた方の発言の一部が、リブログ元の投稿の中にあります。これらは、ほぼ全てが、私が実際に音声で話をした、ないし、Google Meetのビデオ電話で話をした方々であり(そうではない方もおられます)、そのように書かれていることから、小職も反省するところがあり、学ぶところがありました。それらの方々に不愉快な思いをさせましたことを、謹んで、お詫び申し上げます。

 

 

このリブログ元の投稿の方は、ご自身の娘さんを当教会に奪われた格好になっているため、このように何度も繰り返し、小職と当教会のことを、良くない形で書いておられるのだろうと推察しております。

 

お父様のお気持ちはよくわかります。

 

娘さんが、スピリチュアルなどに長年かかわった結果として、悪霊多数を宿す形になり、当教会のブログをお読みになって、当教会に相談に来られた(昨年10月頃のことです)。そうして、週一回のLINE電話による相談を繰り返す中で、悪霊の問題がだんだんと明らかになり、では、ということで、今年の正月にこの方の出身地の県庁所在地で、水のバプテスマを授けさせていただきました。(この当時、娘さんは、当教会で水のバプテスマを受けたことを、また、聖霊を受けたことを、お父様に全く話していませんでした。それが、後々の行き違いになっています)

 

悪霊の追い出しに取り組む前に、その方は、主イエス・キリストにあって生きていくという信仰告白をし、水のバプテスマを受けなければなりません。この娘さんは、そのようになさいました。当教会でも、そのように対応をさせていただきました。

Uという県庁所在地のビジネスホテルのユニットバスで、私と、妻の亜佐子さんと共に、この姉妹に水のバプテスマを授けさせていただいた直後の、この姉妹の、光り輝くような笑顔を忘れることはできません。また、この時、天の父は、この姉妹に聖霊が下ったことを教えて下さいました。

 

その後、いくつかの展開があり、この姉妹は、現在、元気になられて、一人暮らしができるようになり、かつ、対人恐怖症がひどくてバイトもできなかったところ、対人恐怖症が取れ、イエス・キリストの弟子として歩む道を踏み出しておられ、働き口も見つかって、元気に働き始めようとしておられます。昨年10月に相談に来られた頃とは、全く変わって、元気で明るい年相応の娘さんとして、社会人として、歩まれようとしています。

 

お父様におかれましては、このように、娘さんが、当教会の兄弟姉妹と一緒に、初代教会のスタイルのまま、互いに愛し合い、互いに食事を共にして、生活していく形が、ご自身の元から娘さんを取られた形になるため、忍びないという思いもあられるでしょう。そのことは、よくわかります。娘さんが、当教会に取られたとお思いになる。まして、当教会は、三位一体を捨てている、ほぼ全てのキリスト教会から見れば「異端」である。カルト教会である…。お父様のお気持ちはわかります。

 

しかし、娘さんには娘さんの人生があり、この世から来る(特に過去10数年馴染んできた占い、スピリチュアリズムから来る)悪霊の縛りから、主イエス・キリストにあって自由になって、自分で好きな職を選び、自分で住みたいところに住むことは、受け入れてあげるべきだと信じています。特に、長年の(小さい頃から占いなどスピリチュアルの渦に巻き込まれていました)悪霊とのやりとりから、複数の悪霊によってがんじがらめになっていて、対人恐怖がひどく、外に出ることも難しければ、働くこともできない…。そうした、がんじがらめの状況から、まさに主イエス・キリストの執り成しによる、天の父による愛の奇蹟として、悪霊から解放され、元気な娘さんとして生きていく。そうした選択は、是とされるべきです。

 

また、聖書には、主イエス・キリストを信じれば、その救いは家族全員に及ぶということが、書いてあります。

私の妻の亜佐子さんの場合も、当初、実家のお父さんお母さんとは絶縁状態にありましたが(キリスト教を全く理解しない武士の家系、仏教の家系であらせられました)、その後、祖父母から見て孫にあたる私の息子(妻の連れ子)が、みるみる元気になって、年相応の立派な中学生になる姿を見るに及んで、神様の働きを認めるようになり、今では、お母さんは聖書を読むようになり、お父さんも聖書の朗読CDを聞くようになって、非常ににこやかな、私から見れば、義理の父、義理の母として、良好な関係が育まれています。非常に幸せな毎日を送られています。

 

そのように、一人の息子、娘が本当に、主イエス・キリストを信じて、救われ、悪霊などからも自由になれば、その父や母が、息子娘に起こった変化を見て、大きく変えられるということが、起こるのです。

 

従いまして、私は、この、「異端カルト宗教「主イエスと食事をする教会」偽預言者の今泉大輔をBAN‼️」という名前で、投稿を拡散させようとしているお父様も、いずれは、イエス・キリストの圧倒的な救いに接して、その十字架の下で泣き濡れる日が来ることを、大いに期待しております。そうして、お父様として、娘さんとして、双方が、本当の神である天の父と、そのひとり子であるイエス・キリストの救いにあずかって、お二人で、共に神を賛美する。そうして、本当の幸せがそこにやってくる。そうした日が来ることを、固く信じて疑いません。

 

ハレルヤ!

 

 

Courtesy of J_D_L

 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

第一ペテロ1:2

 

主イエス・キリストを信じるようになる人は、自分が生まれる前から…というより、それよりもはるかに前から、天の父によって、主イエス・キリストに似るように/従うように、選ばれています。

 

この「神の選び」。これに思いを巡らすことが大切です。神の選びに関する事柄は、アブラハムやヤコブに始まって、旧約聖書、新約聖書の色々なところに散りばめられています。創造主であられる天の父は、選ぶ神です。イスラエル人/ユダヤ人を選び、異邦人であるわれわれをも、主イエス・キリストにあってお選びになります。

 

 

Courtesy of Julie Falk

 

 

こちらの教会では、旧約聖書を参照しつつ新約聖書が教えている通りのことを信じ、新約聖書が教えている通りに信じて行動し、使徒の働きのペンテコステの所に記されているのと全く同じ本当の聖霊を、天の父から御子イエスの名によって下らせていただいて、使徒の働きやパウロ書簡などに記されている初代教会と全く同じキリスト教会を回復させて、その教会を天の父と主イエス・キリストとが愛して下さる、と言うことに本気で取り組んでいます。

実に天の父の愛は、日ごとに新しく、主イエス・キリストの救いは日に日に新たです。毎日、しるしや不思議が起こります。

また、兄弟姉妹同士がフラットな関係で、愛し合っています。イエス・キリストが「あなた方は先生と呼ばれてはなりません」と教えた通りに、偉い人、高い所から教えを垂れる人はおらず、兄弟姉妹はフラットな関係で、先輩が後輩に教える的な聖書の学び、信仰の学び、イエス・キリストの弟子になることの学びを学んでいます。



聖書を曇りのない目でよく読むと、主イエス・キリストの救いは、予め、神である天の父に選ばれた人たちのものであることが理解できます。キリスト教会一般は「すべての人が救われる」的な考え方をして、色々な人に洗礼を授け、教会員としていますが、それは、旧約聖書、新約聖書を通じて基底を貫いている「神の選び」を無視する考え方ですし、新約聖書の所々に書いてある「主イエス・キリストにある召し」をないがしろにする姿勢です。

三位一体が間違いである、三位一体の教義が報じている「父と子と聖霊とが三つにして一つの神」は3〜4世紀の司教達がコンスタンティノポリス公会議等で議論百出の上多数決で定めた人工的な神であり、モーセに与えられた十戒できつく戒められた偶像に他ならず、従って、それを掲げるキリスト教会群には、イスラエルの神であられる天の父はおらず、御子イエス・キリストはもの言わぬ偶像であり、聖霊も下っていない、ということについては、このサイトで何度も繰り返し述べてきていますから、この投稿ではくどくど書きません。

どのキリスト教会に属しているかを問わず、それはまた、全くキリスト教会に所属していない人にも言えることですが、エペソ1:4で記されている、神によって選ばれている人が、この世の中のどこかにいます。

 

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

エペソ1:3-6

そういう人が、異邦人でありながら、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、終わりの時代に東からも西からも集められるということが、旧約聖書、新約聖書を通して読むと、わかります。神は、すなわち、天の父は、イスラエルの神であられ、イスラエル人/ユダヤ人を救うために、まず、異邦人を主イエス・キリストにあって完成させ、信仰によるイスラエルとした上で、イスラエル人/ユダヤ人を御子イエスの下に引き寄せる、というのが、異邦人のために召された使徒パウロの信仰です。おそらく、というより、間違いなく、これを啓示として神から直接教えられたのでしょう。(ローマ11章を参照)

つまり、異邦人にも、エペソ1:4に書かれている世界の基が置かれる前から主イエス・キリストにあって選ばれた人、また、第一ペテロ1:2に書かれている、天の父の予知に従って選ばれた人がいる訳です。その異邦人は、可能性として、カトリック教会の中にもいるでしょうし、またプロテスタント教会の中にも、可能性としては、います。(しかしプロテスタント教会で洗礼を受けると、プロテスタント固有の聖書引用主義が霊と魂と体に染み付いてしまい、これから逃れるのが大変です。真正な聖霊が下りにくい人になってしまいます)

 

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:2

カトリック教会の中に、世界の基が置かれる前から、主イエス・キリストにあって選ばれた人がいるのだと思います。

いずれにしても、所属している教会や会派の別を問わず、天の父から、自分が生まれるはるか前に選ばれた人がいます。そうした人が、異邦人でありながら、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、アブラハムの子孫となり、天の父の息子、娘となって、終わりの日に、真正な聖霊が下って、一つに集められます。

 

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

ヨエル2:28-31

 

恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

イザヤ43:5-7

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
マタイ8:11

真正な聖霊が下ると、何が真理かをわからせてくれます。
また、キリスト教会内にある誤解や、人間が作った教えに気づかせます。
また、信仰が同じ兄弟姉妹を見分けます。

そうして、パウロが「一つ」と書いているように、それらの人々は一つに集められて、終わりの日に現されるように預言されている、本当の救いを受け継ぎます。(ペテロの手紙参照)
また、主イエス・キリストがおっしゃっているように、イスラエル人/ユダヤ人と、異邦人とが、同じイエス・キリストを主として仰ぐ一つに群れとなります。

 

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

エペソ4:3-6

 

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
第一ペテロ1:5

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
ヨハネ10:16

これは、天地創造をなさった神が、聖書を通じて預言されていることであり、御子であるイエス・キリストを信じる信仰を持つように定められた、ご自身の息子たち娘たちを集める、神の御業として、そうなさるのです。人間の聖書解釈があるかどうかとは全く関係なく、神の御業として、そういうことが起こります。聖書に書いてある通りのことが起こります。

 

 

私たち日本人は「八百万の神」という表現に違和感のないこの日本に生まれ、また、「諸仏」という言葉に表れている多数の仏教系の本尊などが町々のお寺にあふれている中で育ってきています。神道を信仰していなくても、仏教を信仰していなくても、少なくとも千数百年(仏教伝来以来千数百年)、そうした諸神や諸仏が日本人の心を占めてきた民族的な伝統を引き継いで、生きてきています。

ふだん意識することはないとしても、例えば、最新作のNetflixで公開されたアニメのストーリーに、そうした「諸神」や「諸仏」を崇拝する異教的な宗教の心が反映されているのを読み取ることは容易ですし、不祥事を起こした有名人を執拗に叩くメディアやSNSに表れている日本人の心性の中に、「諸神」や「諸仏」のマイナスの影響を見ることができます。

日本人が「神」と言う時、悲しいですが、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を思い浮かべることは、まず、しません。この神は、新約聖書の福音書の中では、御子であるイエスによって「天の父だ」と紹介されています。

日本人にとって、新約聖書の各所に書かれている「イエス・キリスト」を情報としてな学び、知識として知ることはたやすいです(それでも本当に「信じる」ことは難しいです)。

しかし、日本人にとって、聖書で記されている「天の父」という神を知り、かつ、愛するということは、極めて難しいです。「神」と言う時、思い浮かべるものが、非常にモヤモヤとしています。

この天の父を愛する愛について、ヨハネの手紙第一では次のように触れています。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
第一ヨハネ2:15

この「御父を愛する愛」。ヨハネが特別に強調しているように読み取ることができる「御父を愛する愛」。日本人は、この「御父を愛する愛」をどのように理解すればいいのか?聖書のどこにお手本を求めれば良いのか?

日本人にとって極めて重要な「御父を愛する愛」について、聖書を根拠として、説明して行きます。

 

 

Taken by me

Courtesy of J_D_L

 

私たちの教会は「異端」と言われることを恐れません。

過去数カ月、ここの投稿で書いてきたように、三位一体は、人がこしらえた偶像であり、この偶像(三位一体の神=父と子と聖霊とは三つにして一つの神)は、旧約聖書で何度か記されている神である主が忌み嫌われること、すなわち新約聖書で主イエス・キリストによって「天の父である」と証しされた唯一のまことの神(ヨハネ17:3)に忌み嫌われることです。つまり、三位一体のキリスト教会にいて宗教的な行動を行うことは、天の父に忌み嫌われることなのです。

少し英語ができれば、325年ニカイア公会議と381年コンスタンティノープル公会議とに集まったbishop(司教)達がどのような宗教的バックグラウンドを持った人達であるかが、関連資料を調べることによってよくわかります。また、三位一体を教義として規定しているニカイア・コンスタンティノポリス信条をよく読めば、これを作り上げた人たちが「天の父」を全く知らない人達であり(記述がほとんどない)、また聖霊を知らない人達であったことも容易に推察されます(記述がほとんどない)。


当時確定しつつあった福音書など「文字で書かれたイエス・キリスト」のことを、知識・情報として知ってはいるが、天の父のことも、聖霊のことも、よくわからない人達がニカイア・コンスタンティノポリス信条を書き、それによって三位一体の教義が定まり、それがほぼ全てのキリスト教会を支配するようになった。なぜなら、「三位一体を否定する者は『異端』である」という方針が、それ以降のキリスト教会群を支配していったからです。

しかし、パウロ書簡をよく読み込んで、パウロが信じていた信仰を回復し、また、使徒の働き、ヨハネの手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙から、初代教会の祈り方(罪を言い表す祈りなど)を回復し、初代教会と同じように兄弟姉妹がフラットな関係で愛し合うことを実践してみると、驚くべきことがわかってきます。

その、わかってきた驚くべきことを、ここの教会のブログでは投稿として書き、音声メッセージとしてシェアしています。

○神の言葉は生きていて、生ける神であられる天の父の御業は愛に満ちている

聖書で記されていることは、天の父が生ける神であり、主イエスが生ける神の御子であられて私たちのために執り成して下さるがゆえに、聖書で書かれているがままに成就するのです。

福音書で主イエス・キリストがおっしゃったことは、単に「聖句」としてそこに書いてあるだけではなく、リアルに、私たちの毎日の生活の中で、現実になるのです。そこに神であられる天の父が働かれるのです。イエス様がおっしゃったことは、全て本当で、全てその通りになるのです。

神の言葉を侮ってはいけません。
神の言葉は、神の真実を伝えており、生きています。
従って、本当の信仰を持つ人々に、神の働きを伝えます。そうして、信仰があれば、主イエス・キリストの名によってなにかをなした時に、その神の言葉の通りのことが起こるのです。これが、イエス・キリストが福音書で伝えている「信仰」です。

そうした神の言葉の通りのことが、信仰者において起こるのは、そこに「生ける神であられる『天の父』」が、天地万物を創造した方として、働いておられるからです。実に、モーセの時代にイスラエルの民をエジプトから引き出した方が、21世紀の現在に、本当の信仰を持つ異邦人に、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、自分たちの神として、また、イスラエルの神として、働いて下さるのです。それは、神は愛であると書かれている通り、愛の御業として展開します。

御子イエスが執り成し、天の父が動かれると、必ず、その後には「愛が満ちている」という印象を持ちます。その当人にだけでなく、周囲にいて同じ信仰を持つ人たち全員に、その印象が染み渡ります。そうして自然と、執り成して下さった主イエス・キリストに対する感謝が沸き起こり、栄光を現して下さった天の父に対する賛美が沸き起こります。

 

○私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 

詩篇23篇に「いつくしみと恵みとが私を追いかけてくる」という表現がありますが、あれは、本当です。本当に、毎日の生活の中で、「いつくしみと恵みとが私を追いかけてくる」という経験をします。いつくしみも、恵みも、あふれるのです。本当の神が、生きた神として、その人に、主イエス・キリストを信じる信仰によって、働かれるのです。

その神は、三位一体の偶像とは全く異なる、神学を一切拒絶する、イスラエルの神です。隠れた所に天の父がおられると、御子イエスがおっしゃった神です。イスラエルの神は生きておられる!ハレルヤ!

 

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

詩篇23