イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -59ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Elke Mader

 

 

悪霊の問題は多くの人達において、パーソナリティ障害となって現れてくるということも言えそうです。

これは私の奥さんも納得しているので書くのですが。
妻には「境界性パーソナリティ障害」があり、悪霊の問題が、境界性パーソナリティの症状となって現れている格好になっています。

妻の悪霊の追い出しは、まさにロングストーリーであり、悪霊の追い出しにまつわる、ありとあらゆることがありました。現在では、よく笑い、近所の方々とも朗らかに会話をし、実家の父母とも良好な関係が築けていて、主イエス・キリストにある平安や自由を楽しむ、すばらしいクリスチャン生活を送っています。一方で、時々、境界性パーソナリティ障害に固有の、ある意味、別な人格が出てくる状況も出現します。

ある時、私が持っているAmazon Fireのタブレット端末で、電子書籍リーダーKindleの中を覗いていて、無料で読める本の中に、岡田尊司著「パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか」(PHP)がありました。興味を持って読んでみると、そこの「境界性パーソナリティ障害」の章に書かれてある症状が、まったく妻の症状と100%一致していて、非常にびっくりしました。その時は、妻の悪霊の追い出しに携わって半年以上経っていました。繰り返される現象に、手を焼くということはありませんでしたが、その「繰り返されること」そのものに、根底となる悪霊ないしサタンが潜んでいるのだということは、よくわかりました。

その繰り返される現象が、岡田尊司著「パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか」に、そのまま、100%、正確に書かれていたのです。偶然読んだ本に、妻の、ほぼ全ての出現パターンが書いてあったので、本当にびっくりしました。今から振り返れば、この本との出会いも、イエス・キリストが執り成して下さって、天の父の御業として起こったことだと理解しています。新約聖書に記されている、しるし、不思議、に相当する出来事です。



この本には、パーソナリティ障害の10の類型が細かく記されています。悪霊の追い出しに携わって、多数の事例を見てきた者として言うと、ほとんどの悪霊が憑いている人の問題は、パーソナリティ障害の10の類型のいずれかに当てはまりそうです。

悪霊の問題は、精神障害と、パラレルになって現れます。統合失調症として現れることもあります。いわゆる躁鬱として現れることもあります。極度の鬱となって現れることもあります。それと同様に、より、程度の軽い、パーソナリティ障害となって現れることもある、ということのようです。

私は精神科医ではないですから、精神障害を診断する的なことは、一切しません。しかし、そこに現れている、「繰り返される行動パターン」は、はっきりと見ます。

悪霊に憑かれている方の半数程度は、すでに精神科医に通っている、あるいは過去に精神科医に診てもらったことがある人です。そこで診断された病名は、精神医学的に見れば、そうした病名として分類されるものなのですが、同時に、聖書の観点で見れば、無数にバリエーションがある悪霊どもの、どれか、ないしは、複数が、その人の霊と魂(心、ないし、思考)に住み着いている、一言で言えば「悪霊憑き」の問題である、ということも言えるのです。



「パーソナリティ障害」の元々の英語表記は"Personality Disorder"です。これは、別な日本語を当てれば、「人格障害」です。

悪霊は、その人の人格を捻じ曲げ、悪霊固有の色合いに染め上げます。悪霊が憑くと、その悪霊によって思考し、その悪霊によって行動するようになります。結果、その人の人格は、その取り憑いた悪霊の性格を強く反映したものになっていきます。

非常にわかりやすく言いますが、殺人の霊が取り憑くと、その人は殺人者的な思考をし、殺人者的な行動をするようになります。殺人の霊は、例えば、殺人を繰り返し繰り返し行うゲームを毎日やり続け、それが数年続くといったことがあると、その人に住み着くようになります。

淫乱の霊が取り憑くと、その人は、常軌を逸したセックスのことばかり考えるようになります。来る日も来る日も、朝から晩から、そうした異常なセックスのことばかり考え、ネットを漁り、色々のポルノ動画を見て、マスターベーションを繰り返します。また、ネットのSNSで、同じ趣味嗜好を持った人を見つけ、コミュニケーションを行い、ある時、一線を超えて、その人と会い、そうしたセックス行為を行うようになります。そうして、それが中毒のような状況となります。しかし、そうした関係が長く続くことはありません。決して、長く続きません。双方に巨大な心理的ダメージがある展開となり、関係は破綻します。そうして人格がゆっくりと崩壊して行きます。しかし、その淫乱の霊は諦めることがありませんから、また、ゼロから、同じ行動を繰り返して、同じような人を見つけ、その人との異常なせい行為を繰り返すようになります。そうして関係が破綻し、人格がなお一層崩壊します。そうして、その人は、精神科医のお世話になって、精神病院に入院して、入退院を繰り返すようになるか、犯罪を犯して刑務所に入るようになるか、ほぼ、そのどちらかとなります。



そのようにして、悪霊は、人格をその悪霊の色に染め上げ、その人を、そうした悪霊の人格にします。

パーソナリティ障害、詰まるところ、人格障害も、悪霊がその人の人格をそのようにしたのだ、と解釈すると、ほぼ辻褄が合います。

なお、このことは、すべての人のパーソナリティ障害が、すべて悪霊に起因するものだと言ってはいません。パーソナリティ障害の一部は、悪霊から来るものであり、その場合にはそうだと申しています。



パーソナリティ障害のほとんどは、親の育て方に原因があるということが、岡田尊司氏の著書に書いています。そうして、その問題は突き詰めると、「愛着」の問題ということになって行きます。岡田尊司氏は「愛着」の問題についても複数の著書を書いています。私もこれから読んで勉強しなければならないと思っています。

悪霊の問題は、ほぼすべてが、親の問題です。そうして、その親の問題は、さらにその上の世代の親の問題です。旧約聖書には、偶像崇拝の問題が三代、四代下にまでとがが及ぶと書いてありますが、まったく、その図式が、ほぼすべての悪霊の問題を抱える人に、見られます。必ず、仏教の、あるいは神道の、あるいはそれから派生した新興宗教の、あるいは、常軌を逸した異常な信心の人が、上の世代にいて、それが三代四代下にまで、霊的な悪い影響を与え(その人は自覚していません)、そうして、それが子供の世代に出て、幼い頃からマスターベーションを繰り返す子供となって、それが長じてポルノに異常な興味を抱かせることとなったり、占いやありとあらゆるスピリチュアルに興味を持って、小学生の頃から呪いや占いや呪文やパワーや人のコントロールなどを行う人となって行きます。結果、複数の悪霊がその人に住み着くようになります。

 

岡田尊司氏が言う親と子の「愛着」の問題は、親の側の、家系から来る悪霊の影響による、未熟な親、スキンシップができない親、まともなコミュニケーションができない親の問題であり、これが、子供を後々に悪霊を住み着かせる行動パターンに追い込みます(ゲーム、ポルノ、占い等)。そうして20年程度が経過し、その子供は、悪霊に影響された人格を持って、いわば、聖書で言うサタンの奴隷となって生きるようになります。

そうした人を、主イエス・キリストが、その名と権威によって、解放するのです。


 

Courtesy of Elke Mader

 

 

悪霊の追い出しで深刻な悩みを抱えている方々と、突っ込んだ話をしていくと、ほぼ全ての人が、かなりな程度の対人恐怖症を抱えていることがわかってきます。

日常的に会う家族や、ごく限られた職場の人などについては、なんとか、人間関係を保ち、口を聞くことができていますが、それ以外の人々とは、一切、コミュニケーションができませんし、そうした人達と接することに、極度の恐怖感を感じます。

対人恐怖症は、私も、二十歳の時にインドに行って、ドラックをやりまくって、二日酔いならぬ七日酔いのような状態になり、日本に帰ってこれなくなって、結果、滞在先のタイ国バンコクまで叔父二人が迎えに来て、そうして帰国後精神病院に入った。5ヶ月程度入院して、退院した後から、不眠症を癒すために、様々な仏教系のスピリチュアルに取り組んで励んだ。そこで諸々の悪霊が入ってきたようで、二十四歳ぐらいから、極度の対人恐怖症を患い、その後、長く苦しみました。

私自身が、悪霊まみれで対人恐怖症になって、長く苦しんだ経験があることから、その人自身の悪行(聖書から見て悪行だということ。聖書で言う罪。神から外れること)によって悪霊が入り対人恐怖症になった、その人の対人恐怖の大変さということは、よくわかります。

なお、私が対人恐怖症でひどく苦しんでいた時期は、それが悪霊から来るものだということがよくわかりませんでした。また仏教系にしろ(○○瞑想法とか、○○聡明法といった類)、西欧系のヒーリングやアセンションにしろ、インド系の自己啓発にしろ、何にせよスピリチュアルをやると悪霊が入るという知識は一切ありませんでした。

極度の不眠に対処するのに、○○瞑想法や、○○聡明法や、クンダリーニヨーガや、チャクラ開発などを一生懸命やったのですが、それが悪霊諸々が入る原因になろうとは。また、その悪霊諸々によって、人格に縛りがかかり、不自由極まりない20年間を送ることになろうとは。まったく考えもしませんでした。



悪霊で相談に見える方々は、おおむね、20年程度、極めて普通ではない性的な逸脱を繰り返し続けてきていいるか、あるいは20年程度、人間関係を改善したり自己実現をしたりする目的で多種多様なスピリチュアルに取り組んできています。聖書で言えば、十戒の罪のうち、姦淫の罪ないし偶像崇拝の罪を犯し続けてきている格好になり、そうした罪(聖書で言う罪。イスラエルの神から見て罪)ゆえに、様々な悪霊が入るための霊と魂の扉を開けている格好になって、その扉から複数の悪霊が入って行きます。

ほぼすべての方が、20年の長きにわたって、姦淫の罪か、偶像崇拝の罪を、犯し続けている…そのことによって、諸々の悪さをする悪霊が複数、その人に入り込んで、住み着いてしまい、いったん、住み着いてしまうと、もう、その人を舞台に、様々な奴隷の状況を作り出して、さらに悪行を重ねるように仕向けたり、行動に不自由がかかったり、人とまともな関係が持てないようにしたり。あるいは、さらに程度の強いスピリチュアルに傾倒するように仕向けたり。あるいは、さらに罪が重い性行為、例えば、SMにのめり込むように仕向けてみたり。悪霊は、その人の意に反して、そういう行動を取るように仕向けます。

また、悪霊が憑いている人は、悪霊が憑いている第三者を引き寄せます。中にいる霊が、霊同士で、瞬時に理解し合い、同類がいると認めるので、似た悪霊がいる人がそばに寄ってくるのです。Twitterでも、この現象は見られます。アメーバブログでも同じ現象が発生します。



そのような悪霊が複数、その人に住み着いた結果として、その人は、パウロ書簡で「おくびょうの霊」と総称されている悪霊憑きの状態となり、結果、極度の対人恐怖症を患う形になります。

この悪霊が元となっている対人恐怖症は大変なもので、少しの用事があっても、外に出るのが怖い。新しい人を話すのが怖い。インターネットのオンラインビデオ会議でも顔を出すことができない。働くために面接を受けることができない。新しい職場で自分が働くことなど想像もできない。人が怖い。隣に住んでいる人が怖い。誰もかれもが怖い。人と会いたくない。コミュニケーションしたくない。挨拶することも怖い。そういう恐怖症です。これが毎日毎日続いて、かれこれ10年、20年という状況になって行きます。

対人恐怖症があっても、ごく近くにいて知り合った異性と結婚する人はいます。しかし、結婚していても、対人恐怖症は残っているので、配偶者とは特殊なコミュニケーションをします。また、子供が生まれても、子供とは特殊なコミュニケーションをします。そうして家族関係を営むことはできます。しかし、家族以外の人とは、極度の恐怖があるため、関係を持つことができません。

苦しい。本当に苦しい。

精神科医で、診断をもらって、服薬する生活に入り、病名ゆえに、障害者の三級、二級といった認定がなされて、年金で生活ができるようになれば話は別ですが、そうではない場合、働かないと食べられません。そういう方は、筆舌に尽くしがたい恐怖の経験を、毎日するようになります。

まったく悪霊から来る対人恐怖症はひどいものです。何人も、そういう方を見ました。



ここでは、聖書のやり方で行う、悪霊の追い出しがどういうものであるかについては書きません。

そういうひどい悪霊を持った方でも、聖書をしっかりと学んで、イエス・キリストの弟子になることを決意し、信仰告白を行い、水のバプテスマを授けられて、その後、しかるべき手順によって中にいる悪霊を特定して、その悪霊をイエス・キリストの名と権威によって追い出す、ということを何度か繰り返すと、悪霊から解放されます。中にいた悪霊、その人に住み着いていた悪霊が、その人に住み続けることを諦めて、出て行きます。その人を手放します。

そうすると、その人の、あれほどまでにひどかった対人恐怖症は、嘘のようになくなり、その人は、普通に、社会生活を営むことができるようになります。家の外にいる人たちと、挨拶したり、コミュニケーションしたりすることができるようになり、就職のための面接が苦にならなくなり、新しい職場でも、周囲の人達に溶け込んで、普通に働けるようになります。

そうした悪霊の追い出しを、イエス・キリストの名と権威によって行います。


 

Courtesy of Pedro Szekely

 

預言

 

すべての神を知る者たちは、次のように、言われるようになる。

 

「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。

あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。

マラキ3:11-12

 

New International Version
“Then all the nations will call you blessed, for yours will be a delightful land,” says the LORD Almighty.

New King James Version
“And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the LORD of hosts.

私訳
いずれ、すべての国々があなたを祝福された者と言うようになる。なぜなら、あなたのいる土地が喜びにあふれた土地になるからだ。万軍の主はそのように仰せられる。

 

 

その人たちがいる場所が、喜びにあふれた場所に作り変えられる。

天地創造の神、天の父が、そのようになさる。

第一ペテロ1:5もそのことを言っている。

 

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

第一ペテロ1:5

 

Courtesy of Damian Gadal

 

 

私たちの教会では、勧誘はしません。むしろ、信仰が等しい方ではないと判断された場合には、ジョインすることをお断りします。

これは、聖書に照らして、非常に大事なことなので、整理して書いておきたいと思います。



一般的なキリスト教会では、来るものを拒まず、来られる方に聖書の教育を施し、毎週日曜礼拝に通う姿勢が確認できたなら、日を決めて、信仰告白をしてもらい、水のバプテスマを授けます。

これだとダメなんです。

エペソ1:4や第一ヨハネ1:2にはっきりと書かれている「神の選び」を無視して、神がお選びになっていない方に水のバプテスマを授けてしまい、教会員としてしまう間違いを犯すことになりかねません。

この場合の「神」とは、前後関係から「天の父」です。パウロにとってもヨハネにとっても、ペテロにとってもヤコブにとっても、彼らはユダヤ教の教育を子供の頃から受けた人々ですから、「神」と言えば「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、一言で言えば「イスラエルの神」です。そのイスラエルの神を「天の父」と呼ぶ -- それはすなわち、御子であられるナザレのイエスがイスラエルの神を「天の父」であると紹介されたことを踏襲しています。

エペソ1:4や第一ペテロ1:2に書かれている神の選びは、天の父による選びです。

天の父=イスラエルの神は、ご自身がお救いになる人を選ぶ神なのです。
これは、エサウを退け、ヤコブをお選びになったことに、その典型的なパターンがはっきりと表れています。

イシュマエルを退け、イサクをご自身の民として立てる。そういう方です。


ヨハネの福音書に、主イエス・キリストが弟子たちに対して「聖別して下さい」と天の父に祈っているところがありますが(ヨハネ17:17)、「聖別する」とは、神を神とも思わない人達から、ご自身の民を選んで分けて、ご自身の聖なる領域に引き移す -- それはあたかも出エジプトのように -- そういうことです。

ご自身が選ばれた民を愛されるのです。


ご自身が選ばれた民に、イエス・キリストの救いを示し、色々な人生経験をさせながら、その人を、イエス・キリストに似るように育てあてげいく。それが天の父です。
ヨハネ15章にあるように、農夫のように、実を結ぶ枝を整えられる方です。一方で、実を結ばない枝を、切って捨ててしまわれる方でもあります。

神にえこひいきはありません。
公平な方です。

しかし一方で、旧約聖書にも新約聖書にも、全巻を通じて書き記されているように、ご自身の民を選ぶ方なのです。



イエス・キリストの下に連れて来られる人は天の父に連れて来られる、ということがヨハネ福音書で主イエスの口から語られています。
天の父が、引き寄せない限り、主イエス・キリストの下に来ることはできません。

 

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

ヨハネ6:44:45

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
ヨハネ6:65

 

ここは、非常に大事な所で、恣意的にごまかして読んだり、人間的な聖書解釈により、真理を曲げてはなりません。

 

天の父の選び基づく御子イエスの執り成しが、福音の本質です。


人間が、自分の発意によって、聖書をよく読んで、イエス・キリストの救いにあずかろうとしても、仮に、エペソ1:4や第一ペテロ1:2に書かれているように、天の父から天地創造の前に主イエス・キリストに似るように選ばれている人でなければ、イエス・キリストを真の意味で知ることはできないし、本当に信じるということができません。

私はこのことを、昨年半ばから三位一体の教義に疑問を持つようになり(それまでは三位一体が絶対だと信じて疑いませんでした)、天の父に「三位一体のどこが間違いなのか?」について何度か教えられながら、聖書に照らして理解し、こちらの教会の歩みを軌道修正していく中で、ああそうかと。同じ信仰を持つ人しか、この教会ではやっていけないのだと、理解するようになりました。



主イエスと食事をする教会で回復した初代教会は、実に、千数百年ぶりに回復した初代教会であり、それまでの三位一体の下にあるキリスト教会群とは、まったく違う歩みをしています。それは、使徒の働きに書かれたままの教会であり、異邦人に対する福音を任されたパウロが、複数の書簡ではっきりと書いている事柄を全て守り切っている教会です。聖書に書いていることと、妥協することはありません。全てが神の言葉として尊重され、全てを信仰によって、神の言葉として、成就することを見る教会です。

悪霊の追い出しももちろんやります。エペソ6章の霊の戦いも、ほぼ毎日のように行います。

本当の聖霊が下っていますから、信徒には、第一コリント12章の御霊の賜物が現れています。預言もあります。知識の言葉もあります。癒しも起こります。奇蹟も起こります。

これまで、小職が三位一体の教会にいた10数年間には経験したことのなかった、「生ける神」であり、「愛の神」であられる天の父の絶大なる御業を経験します。ほとんど毎日です。それが、御子でありメシア(The Annointed、油注がれた方、王の王)である主イエス・キリストの執り成しによって起こるのです。



同じ信仰を持つ人でないと、一緒にやっていけないのだということが、この1年半の間によくわかってきました。

なにせ、381年のコンスタンティノープル公会議(三位一体の教義が成立。集まった司教数百名の多数決によって決定した)以降、千六百年に渡ってキリスト教会群を三位一体の人工的な神が支配してきた訳ですから、そこに、初代教会の本当の信仰の姿はありようがありません。誰も、本当の、主イエス・キリストを信じる信仰を知らない。本当に主イエス・キリストを信じる信仰があれば、イスラエルの神であられる天の父が毎日のように御業をなさるのだということを知らない。本当の聖霊が働けば、その人がどう変えられるのかがわからない。(聖霊の働きは、携挙を望む人々にあるような熱狂とは、全く異なります。リバイバル主義者が期待している集団的な熱狂とも、一切異なります)。

今、この時代に、回復された初代教会の道を歩むということは、お手本のない道を歩むということでもあります。実に千数百年にわたって、三位一体の下にあるキリスト教会群は「父と子と聖霊とが三つにして一つ」という、物言わぬ神、偶像を神として信奉してきた。だから祈りがかなえられることがない。だから癒しも起こらないし、罪責感は消えない。だから仕事における祝福がない。

三位一体の神を捨て -- と言うより徹底的に破壊しまくり -- 聖書に書かれているままを信じ、聖書に書かれているままを行うと、そこに、使徒の働きに記されているのとまったく同じ初代教会が復活します。

また、そこでは、主イエス・キリストが教えるように「先生」と呼ばれる人はおらず、高い所から説教を垂れる人はいません。互いがフラットな兄弟姉妹の関係で -- それは主イエス・キリストの教えを忠実に守ることです -- 互いに愛し合い、互いに足を洗い合うということを行います。互いに足を洗い合うとは、ヨハネ13章の前後関係から、互いの罪を互いに取り扱う、互いに執り成すということです。

 

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイ18:20

 

そうしたことも含めて、聖書に記されているままのキリスト教会を運営します。



そこに、信仰が等しくない人がやってくると、混乱が起こります。

以前は、悪霊の追い出しについても、相談に来られる方には、週1時間、曜日と時間を決めて、お話をさせていただくということをしていました。

初代教会は千数百年の間、ある意味、封印されていて、本当のキリスト教会の運営方法にはお手本がないということにご注意下さい。聖書のみが頼りであり、天の父と主イエス・キリストの指導のみが道となり、聖霊が助けてくれます。

悪霊の問題をお持ちの方に色々と相談をさせていただくと、悪霊の追い出しがうまくいかない方がいるのだ、ということがわかってきます。これも、すべてのキリスト教会が、新約聖書が教えるままに、ごく普通に悪霊の追い出しに取り組んでいるのならば、一般的な教会がすべて共有する経験則としてわかることです。当たり前の知見になることです。しかし、そうした教会がほとんどないことから、この知見は共有されていません。悪霊の追い出しは、すべての人にできることではなく、悪霊が追い出されない人もいるのです。それは、上述の神の選びに関わっています。


悪霊の追い出しがうまくいかない方は、簡単に言うと、イエス・キリストを信じる信仰が、ありません。それは、聖書に照らして、聖書が語るままの、イエス・キリストを信じる信仰がない、ということです。


受験勉強のように知識として、情報として、イエス・キリストを知っているだけでは足りません。聖書に照らせば、イエス・キリストを信じる人には、相応のしるしが伴います。

また、第一ヨハネに書かれているように、神から出た人は、神から出た人の言葉に耳を傾けます。神から出ていない人とは、話が合いません。信仰に関する話で、一致がないのです。

 

私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます
第一ヨハネ4:6

このことが、だんだんとわかってきました。なにせ、初代教会が回復されたキリスト教会は、海外を含めキリスト教のワールドを色々と見渡してみても、お手本がないのです。これまで進歩的とされてきた各会派も、三位一体を捨て、三位一体の嘘の神を破壊しまくるということがないがために、偶像の下にいることに固有の、不活発や呪いがあります。個人崇拝があったり、偽りの預言が横行しています。

お手本がない中で、だんだんとわかってきたのは、エペソ1:4や第一ヨハネ1:2に書かれている、神に選ばれた方でないと、一緒にやっていけないのだという真実です。聖書に照らして、色々に証明することができます。

新約聖書には、神の召しについて書いてあります。召された者しか、主イエス・キリストを信じることはできません。

よって、召されていない方を、こちらの教会の中に招き入れ、信仰が違うことによる悲劇が起こるのを防ぐために、当教会では、誰かを勧誘するということを行いません。むしろ、信仰が違う方は、お断りします。先日も、ある男性を、お断りしたところです。

悪霊の追い出しについても、もう、どなたの相談にも応じるということはありません。以下の投稿にあるように、本当に、ハラを括って、イエス・キリストの弟子になるのだという覚悟がある方のみ、ご対応をするように、姿勢を改めました。

 

悪霊の追い出しアップデート(2) - 悪霊の追い出しを希望される方へ
 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

使徒2:38-39

イエス・キリストを信じるようになる人は、エペソ1:4に書かれているように、第一ペテロ1:2に書かれているように、天の父から、主イエス・キリストに似るように、天地創造がなされる前から選ばれている人です。

この「予め選ばれていること」を、ペテロは「私たちの神である主がお召しになる人々」という表現で言っています。

「神の選び」について、聖書全巻を見渡して思いを巡らし、熟考熟慮する時、天の父が、御子イエスを通じてお選びになったご自身の民。その民に所属していることが、いかに尊いことであるのかがわかってきます。

主イエス・キリストにある救いは、旧約聖書と新約聖書を踏まえた「神の選び」についての理解なくしてはあずかることができません。