イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -58ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Terry Goodyer

 

本日の礼拝は以下で行います。いつものようにGoogle Meetで行います。

礼拝メッセージのテーマは
イザヤ11章の「主を知る知識」が地に満ちる
です。

礼拝
6月 26日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
https://meet.google.com/jvr-atbw-mpi

交わり
6月 26日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
https://meet.google.com/kqp-gigt-qmc

旧約聖書で「主」と訳されている箇所のほとんどは、ヘブライ語原典では"YHWH"とテトラグラマトンが記されている箇所です。文語訳聖書では「エホバ」と訳されていました。前後関係を調べてみると、戦後、エホバの証人が勢いを増していて(彼らはある時期まで文語訳聖書を使っていました)、口語訳を訳す人達が「エホバ」のままでは具合が悪かろう、ということで、"YHWH"の箇所を「主」と訳すようになりました。なお、英語訳聖書でも"YHWH"の箇所は、"LORD"(主)となっていますから、事情は違うにせよ、"YHWH"の箇所が「主」と訳されていることに変わりはありません。

しかし、これが「主イエス・キリスト」(Lord Jesus Christ)の「主」と同じ言葉であることから、旧約の「主」と新約の「主」の混同が起こっています。

イザヤ11章にある「主を知る知識」とは、"YHWH"を知る知識のことであり、言い換えれば、新約聖書で御子イエスによって「天の父」と紹介された神を知る知識のことです。

現在、ほぼすべての教会において、天の父は、知られていません。教えられていません。誰も、天の父の愛を経験していません。

そうした、現在、天の父が知られていないということ。
それが、イザヤ11章の預言ではひっくり返って、むしろ「天の父を知る知識が、この大地に満ちる」。それをイザヤは預言しています。その関連事項について、説明します。
 

 

2021年12月4日の夜から12月5日の朝にかけて、天の父が、「なぜ、三位一体のキリスト教会群に、聖霊がいないのか?」について、はっきりと教えて下さいました。
その直後に、この日曜礼拝のメッセージをしています。

この時はちょうど、ユダヤ暦ではハヌカーの祭りの時期に当たっていました。2021年のハヌカーの祭りは11月28日日曜日の夕方から始まり、2021年12月6日の月曜日夕方に終わります。その間に挟まる日曜日がこのメッセージの日曜礼拝を行った12月5日です。

この時、近くにいるキリスト信徒の姉妹が、音楽として来る預言的な示しによって、ヘンデルが作曲したオラトリオ「ユダス・マカベウス」の中の有名な楽曲「見よ、勇者は帰る」(表彰式の時に流れる曲です)を繰り返し、口にしていました。

イスラエルの生ける神は、そのように不思議なことをなさる方です。それが、使徒の働きにある「しるし」や「不思議」です。

インターネットの検索によって、「見よ、勇者は帰る」がヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」の中の曲であることがわかり、そうして「ユダス・マカベウス」のあらすじを読み、それが外典「マカバイ記」に記されている「マカバイ戦争」のことだとわかって(以下Wikipedia記述参照)、マカバイがエルサレムの神殿について行ったことの全体像を理解した時、私の全身に言葉にできないような「イスラエルの神が、このことの全体に働かれているのだ」という感覚を持ちました。

Wikipedia: マカバイ戦争

マカバイ戦争
マタティアは当初、息子たちと小規模なゲリラ戦を行って異教の神殿を破壊していたが、間もなく死去した。彼の死後に跡を継いだ息子のユダ(ユダ・マカバイ、ユダス・マッカベイオス)は父の勢力を継承してセレウコス朝からの独立を目指す戦争を開始した。ユダと兄弟たちはセレウコス朝の将軍ゴルギアスをエマオの戦いで破り、続いてベト・ズルでリュシアスも撃破し、紀元前165年末にはエルサレムを包囲してセレウコス朝軍を要塞に封じ込め、エルサレム市内に入場した。そして紀元前165年12月25日、エルサレム神殿からヘレニズム的な司祭を追放し、異教の祭壇を撤去することで神殿を清め、再びヤハウェ神に奉納を行った。この出来事を今も記念するのがハヌカーと呼ばれるユダヤ教の祭である。

聖霊は、神ではない。
神は、天の父とイエス・キリストのみ。
よって、三位一体のキリスト教会群には「嘘」がある。
聖霊は、真理の御霊である。「嘘」があるところには下らない。

そのことを天の父がはっきりと教えて下さったタイミングが、エルサレムの神殿から異教徒が駆逐されて、異教の要素がまったく取り除かれ、再び、イスラエルの神が正しく礼拝されるようになった。それの戦いであるマカバイ戦争。そのマカバイ戦争をオラトリオにした「ユダス・マカベウス」。ユダス・マカベウスの中の「表彰式の曲」(「見よ、勇者は帰る」)。そうした一連の理解があって、その後で、日曜メッセージとして語らせていただいたのが、この録音の内容です。

 

 

 

Taken by me

Courtesy of Marco Verch

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

マタイ25:35-40

 

イエス・キリストを信じるようになる人たち、すなわち、エペソ1:4と第一ペテロ1:2に書かれているように、不思議な形で選ばれている人たちは、最終的に、イエス・キリストの体をなします。パウロが「一つ「になることについて、エペソの4章で書いています。イエス様も、ゆくゆく私たちが「一つの群れ」になることを、ヨハネ10章で預言しています。イエス・キリストを信じるようになる人たちは、「一つ」なのです。

 

この、天地創造がなされる前から、主イエス・キリストにあって「一つ」であるように定められた人たち。その人たちが、この、現在の世の中に散らばっています。ほとんどは、キリスト教会に属していません。

 

そういう人たちが、自分のそばに来たら(そのことは、神が教えて下さいます)、親切にしなさい、ゆくゆく「一つになる」のだから、ということを、主イエス・キリストは教えておられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

預言

 

みんな、このままでは地獄に行くことをよく自覚している。聖書に照らして。

 

2019年の半ばから、天の父より、「天に上げられる人は、少ない」ということを、言われてきました。

 

このことが、何を意味しているのか?

このことが、なぜなのか?

このことが、従来のキリスト教会に、何を意味しているのか?

あわれな「艱難前携挙」の人達は、やはり、地獄に行ってしまうのか?

 

などなど。

などなど。

 

すべては、聖書に、書かれているままに、生起します。

そうして、主の栄光が現れます。御子イエスの名によって、天の父がほめたたえられます。

 

地獄に行く人は、霊的に、自覚しています。

イスラエルに連なる人は、霊的に、自覚しています。

 

ハレルヤ!

その日を待ち臨みます。

 

 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

マタイ10:34-35

 

イエス様は、時々、理解しがたいことを口にされます。

しかし、そうした聖句も、人生のいろんな時に、「ああ、そういうことか」と、気づかせてくれます。

聖霊が、わからせてくれます。

 

本当に、主イエス・キリストを信じて、本気で証しをする人は、世の人々から石を投げられます。主イエスも、パウロも、迫害を受けると、はっきり言い切っています。

 

主イエス・キリストを信じるということは、「剣」を受けるということです。

 

数年前、レバノンで、隣国シリアの地下教会を支援しているキリスト教の活動家と会って、少し、話をしました。

「迫害を受けていないようなら、その人は、クリスチャンじゃない」と、はっきりと言い切っていました。

そういうことです。