イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -57ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Stanley Zimny

 

三位一体の教会群において、まことに不思議なのは、「自分達が異邦人である」という自覚が、どのように見ても欠落しているということです。まことに不思議です。新約聖書のパウロ書簡にあれほどまでに明確に宣べ伝えられている、私達日本人を含む、ほとんど全ての国民が置かれている立場、異邦人。

これは、そもそもの発端である325年ニカイア公会議や381年コンスタンティノポリス公会議に集まった司教達に、その認識が欠落していた、ということを物語っているように思われます。

エペソ6章霊の戦いを色々な対象に対して行ってくるとわかってくることですが、教会であれ教団であれ会派であれ、その創始者の霊的な特質を受け継ぎます。霊とはそうしたものです。

現代の三位一体の教会群に何らかの霊的な特質があるとすれば -- それは現にあるわけですが。使徒と働きなどの記されている初代教会の霊的な特質と比較対照すれば --  それは三位一体の教義を創始した人々の霊的な特質を受け継いでいます。彼らの霊的な特質。少し英文資料を調べれば彼らの宗教的な背景はわかってくることですが、つまり、パウロがテモテに対して「注意しなさい」と戒めたグノーシス(第一テモテ6:20)。テモテ第一1:4でそれに誘惑されないようにパウロから注意されているギリシャ語ミュートスmuthos、新改訳第三版では「果てしのない空想話」。
すなわちエマネーション(Emanation、流出論)によって宇宙の成り立ち、神の階層構造を説明する新プラトン主義。

それらグノーシスと新プラトン主義の影響を受けていたことが記録から明らかな司教達(bishops)。そうした人たちがニカイア公会議とコンスタンティノポリス公会議に集まって、鳩首協議しながら三位一体という落とし所に落とし込んで行ったのです。

それは、イスラエルの神を知らない人々の「果てしのない空想話」です。旧約聖書をよく読んでいない人々。イスラエルの神から選ばれた民であるユダヤ人/イスラエル人。そこにある「神の選び」。それについて一考だにしない門外漢達による、自分勝手な議論です。

ゆくゆく神学として体系だったものになっていくとはしても、根本に、イスラエルの神による選びがなく、また、自分達が「選ばれた民ユダヤ人/イスラエル人に対して異邦人」であるという自覚がない、まさにグノーシス(神であるソフィア=知恵を崇拝する異教です)、まさに新プラトン主義(流出論Emanationで神としての父、神としての子、そうして聖霊を説明しようとする神秘主義です)。そうした、本来的な意味での異教徒達による人工的な偶像。すなわち、父と子と聖霊とが三つにして一つという、およそ、パウロから見たら逆立ちして目から火が吹き出しそうな異教的な神理解。

そうしたものの霊的な特質を代々受け継いで千数百年。そこにあるのが現代の三位一体のキリスト教会群です。すなわちカトリック教会、すなわち五百年前から始まったプロテスタント教会。すなわち20世紀初頭アズサストリートリバイバルから始まったペンテコステ教会。それらの偶像を崇拝する教会群。

その霊的な特質が、「自分達は異邦人である」と、自覚させないのです。
イスラエルの神に選ばれた民であるユダヤ人/イスラエル人をスルーして、自分達だけがイエス・キリストの救いにあずかる…といった妄想を蔓延させてきているのです。千六百年間も。

これを、イスラエルの神が、現代において、一掃されようとしているのです。

そうして、イエス・キリストが宣べ伝えた本当の福音。
異邦人に遣わされた使徒であるパウロが宣教師た本当のキリスト教。
初代教会の面々に下ったのと全く同じ聖霊、すなわち、天の父から御子の名によって遣わされる神の霊。その聖霊が、そうした、三位一体のキリスト教会群の外にいる人々に下るのです。

従来の神学的な理解では、旧約聖書と新約聖書の断絶が問題意識を持って見られることがあるようです。その断絶は、325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議に集まった司教達がすでに持っていた聖書理解の欠け。すなわち旧約聖書の読み込み不足(当時、ギリシャ語による旧約聖書翻訳セプトゥアギンタは存在していました。一方で旧約聖書は大部ですから写本が各司教達の手元に存在していなかった可能性がかなりあると考えています)。イスラエルの神を知らない人々。聖霊がいない人々。

 

そうした人々によって、三位一体の教義が確立し、三位一体にあらずば異端という恐怖政治的な支配がキリスト教会を覆ってしまったがために、霊的に未熟な、霊的に意味のない宗教活動が、以来、千六百年に渡って、続けられてきているのです。実に嘆かわしい。実にこの間に捧げられた心ある方々の、無駄な時間に、想いを致します。

 

Courtesy of J_D_L

 

 

創世記には、聖書の神が、天地万物を創造なさった経緯が書いてあります。
本当の神であれば、私たちが見ている、また暮らしている、すべての事物、被造物、また私たち人間をもお造りになった、そういう、人知をはるかに超えた御業をなさいます。

神はイスラエルの全能者です。

それゆえに、──万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ──「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
イザヤ1:24

何もないところから、あなたや私やあの人やこの人をお造りになった方です。

あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。
イザヤ44:24

こうした天地万物をお造りになった全能の神。それが、御子であるイエスが「唯一のまことの神であるあなた」とおっしゃった神です。

従って、イエス・キリストがおられた頃から300年〜350年経って成立した「父と子と聖霊とが三つにして一つの神」という、新プラトン主義のエマネーション(Emanation、流出論)の影響を受けている、人工的な神、人工的な神などどこにもいませんから、物言わぬ偶像。その物言わぬ偶像である三位一体の神でもなんでもないもの。

それと、天地万物をお造りになった全能の神とは、全く違いますし、比較対象にならないものです。生ける神であり、アブラハムに現れてすべての国民をアブラハムのゆえに祝福された神。後に御子イエスを地に遣わして、信じるすべての人をご自身の民とし、救うべく、贖いの道をお造りになった方。天の父。そして、天の父の御心に従順に従った御子イエス。

この御子イエスを信じる信仰のゆえに、天の父が、天地万物をお造りになった全能の神として、その信じた人に働き、全知全能の神としての御業をなさって、その人を毎日作り変えるのです。

その、作り変えられた人の、一つの事例が、小職です。今でも、小職の過去の愚行、悪行、狼藉…。これらは事実であり、まことにもって、お詫びをし続けなければならない、消えることのない、私自身の悪行です。

こうした悪行の連続であった小職。罪人中の罪人である小職。こうした小職をも、主イエス・キリストを信じる信仰によって、天地万物をお造りになった全能の神であられる天の父が、毎日、毎日、作り変えて下さっているのです。ものすごい変化が起こっています。しるし、不思議、神の御業が毎日のように起こります。

それもこれも、三位一体の嘘の神、三位一体という偶像を、破壊し尽くして、まことのイスラエルの神であられる方を、御子であるイエス、大祭司であられるイエスを通じて、礼拝し、父と子の交わりの中に入れられているからです。神の国を相続することの証印として、本当の真正な聖霊をいただいているからです。聖書のすべてが、この教会において、成就しているからです。

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ヨハネの福音書17章には、主イエス・キリストが弟子たちに、ご自身の「栄光」を与えたというお言葉があります。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
ヨハネ17:22

弟子に与えられたお言葉は、後に、イエス・キリストを本当に信じる人たちに与えられたお言葉でもありますから、本当に、本当の本当に、イエス・キリストを信じている人ならば、イエス・キリストが与えて下さった「栄光」にあずかります。



これは、どういう栄光か?ヨハネ17章と第一ペテロ1章に手がかりがあります。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
ヨハネ17:1

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

ヨハネ17:4-5

わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
ヨハネ17:10

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
ヨハネ17:24

これは、父があって子であるイエスの、子としての栄光、子であることの栄光。
そして、言葉であられるイエス(ヨハネ福音書1章冒頭)の言葉であることとしての栄光。
天地創造に言葉として関わったイエスとしての栄光。
そうして、彼自身に関する預言=言葉を成就するために、肉となって地に下り、十字架に架けられたことの栄光。
また、十字架にかかった後三日目によみがえったことの栄光。
父が子を愛しておられることの栄光。
その愛のゆえに、絶大なる神の御業を現して、天の父が子をよみがえらせた、そこに全てのサタンを滅ぼし尽くす圧倒的な勝利があることの栄光。


そうした複合的、重層的な栄光。栄光群とも呼べるもの。
それを弟子たちに、ひいては、主イエス・キリストを本当の本当に本気で命をかけて信じることになる本当のキリスト信徒たちに、与えたのです。

従って、本当の本当にイエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストと同じことをしますし、十字架に架けられるような経験をします。それがローマ6章にある「キリストの死にあずかるバプテスマ」です。新約聖書の書簡の各所に書かれている、古い人が死んで、新しい人が、主イエスと共によみがえる。その古い人が死ぬ、磔にされる経験です。

この経験をした者のみが、主イエスの言う「狭い門」を潜って、永遠の命にあずかります。

自分の十字架を背負って私についてこない者は、私にふさわしくありませんと、主イエス・キリストがおっしゃっているのは、そのことです。



第一ペテロ1章で、その「栄光」が、イエス・キリストと同様の苦難がまず前提にあるものであることがわかります。つまり、キリストと同じ苦難を経ることで、キリストと同じ栄光が与えられるのです。その栄光を経験するのです。

彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
第一ペテロ1:11




 

Courtesy of Elke Mader

 

悪霊の追い出しの様々なケースを見てきて、だんだんとわかってくるのは、深刻な悪霊の問題を持つ人は、12歳か、15歳か、18歳か。その人の実年齢から見れば、10歳〜30歳若い年齢の段階から、成長が止まっているということです。

悪霊は、その人の成長を止めます。

その成長が止まった時に、マスターベーション、ポルノ、占い、スピリチュアリズム(おまじない、パワー獲得、引き寄せなどなど)に傾倒してすでに数年が過ぎており、その数年に渡る、聖書で言えば十戒の姦淫の罪か、偶像崇拝の罪に当たるものをしていて、それがゆえに悪霊が入る。そうして、悪霊が入ったことで、成長が止まる。どうも、どのような図式があるようです。



こうしたケースでは、数歳の頃ないし十数歳の頃の悪癖が原因で、悪霊が入っている訳ですが、それらの方々に共通するのは、「親に怒られた経験がない」ということです。
親が、悪いことをしていても、怒らない。ないし、叱らない。なので、子供は、どんどん悪いことをし続ける。その悪いことは、マスターベーションだったり、呪いだったりする。結果、その悪いことに関係した悪霊が入る。そういう経緯があります。



悪霊の問題がある人には、親が、すでに問題を持っていて、その問題が解決されていないがために、子供に、心理形成面で悪影響を及ぼし、子供の心理形成が健全になされないがために、子供が5歳、6歳の頃から、マスターベーションに耽る…10歳、12歳の頃から占いにハマる…結果、それに関連した悪霊がその子供に入って、人格形成を歪める。つまり、成長が止まる。

色々なケースを総合すると、そうしたことのようです。



このような方の場合、悪霊の追い出しは、イエス・キリストの名と権威によって、ひたすら叱りつける。ひたすら怒鳴って、その人の中にいる悪霊に恐怖を与え、出て来ざるを得ないようにする。ひたすら怒って、その人の中の悪霊が崩壊するように仕向ける。出て行かざるを得ないように、ひたすら怒鳴りまくる、叱りつける…。それを繰り返す。

そういう方策になるようです。

叱りつける、怒鳴りまくることで、その人の悪霊が出て行き、嘘のように、スッキリさっぱりするということは、間々、あることです。

一方で、それだけでは、悪霊がウンともすんとも、出て行かないケースは、あります。

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

三位一体の教会群にいると、絶対に経験できないこととして「神が、そばに、おられる」という感覚、というより、「神に造られた被造物である人間として、創造なさった方が、ごく、近くにいらっしゃる」という自覚、直覚、理解、納得、経験的理解、理解を伴う感覚…。きわめて言い表すのが難しい感覚です。そうした感覚を、本当の本当に、聖書に書かれているままに、主イエス・キリストを信じて、本当に本当の真正な聖霊が下り、そこに、本当に本当のキリスト教会である初代教会とまったく同じ -- 霊的に同じという意味です -- キリスト教会が回復して、そこで、聖書に記されている様々なことが成就し始めると、そうした感覚を、しばしば、味わうことができるようになります。これは大変に不思議な感覚です。

天の父が、おそばにおられる、という感覚。
例えば、朝、目覚めた時に、すでに、そこにいらっしゃいます。
非常に、不思議な存在感で、そこに、おられる。
「わたしはある」という方です(出エジプト3:14)。

この感覚は、一部の進歩的な会派で行なっている、聖霊に導かれるタイプの賛美礼拝(スポンテニアスワーシップ)で感じられる「臨在」とは、似ているようで、似ていないです。

賛美礼拝でしばしば会堂にあふれる「臨在」は、どちらかと言うと、感覚的なものです。今だから、識別できます。あれは、「臨在として感覚できる感覚」であり、ペテロが御子イエスを「生ける神の御子」と信仰告白した時に、彼がユダヤ人として持っていた天の父に関する認識「生ける神」(マタイ16:16)。その「生ける神」が「生きて、そこにおられる」「生きて、ここにおられる」という感覚と、スポンテニアスワーシップで得られる「臨在」の感覚とは、やはり、まったく別物と言ってよい感覚です。



スポンテニアスワーシップに取り組む教会のほぼすべては、偶像である三位一体を否定し、破壊し尽くして、三位一体の外に出ていませんから、依然として、偶像の神の支配下にあります。

パウロが言うように「偶像の神」と言う「神」がいる訳ではなく(第一コリント8:4)、なぜならは「神はお一方」ですから、偶像の神はつまる所、ルシファーと一緒に天から落ちた御使いのどれかが、固有名詞を持って崇拝されるようになった、元御使い。つまり「霊」。神の霊ではない霊。聖霊ではない霊。すなわちサタン。ないしは下位にいる悪霊です。

そうしたサタンないし悪霊から来ているのが「臨在」だと、現在の私は、三位一体の教会群の霊的な図式がよくわかってきたので(歴史もそれなりに調べました。天の父から教えられもしました)、そのように結論づけます。なので、「臨在」ばかり求めるキリスト教会は、「臨在」がまた新たな偶像となって、「臨在崇拝キリスト教会」のようになっていきます。

そのように根本に偶像崇拝があるキリスト教会では(言い換えれば、三位一体のキリスト教会群は)、幾重にも、偶像が折り重なっているという霊的な図式があります。



天の父が、御子イエスと一緒に、その人のところにやってきて「住む」という教えは、ヨハネの福音書にあります。それが、そのように、起こるのです。

聖書の記述を侮ってはいけません。人間の理解の制約によって、言い換えれば、自分が理解できないからといって、聖書の記述を、自分の理解できるように捻じ曲げて、矮小化してはならないです。また、神学であれ聖書解釈の歴史的な積み重ねであれ、何であれ、人間の頭脳から発したもので、神の言葉を…汚してはならないです。

神の言葉は、神から出ている言葉です。「神」がわかりますか?

創世記を読んで、神がすべてをお造りになったことを、信じていますか?

その「神」について、イエス・キリストが証しをし、初代教会がそうした「神の言葉」を宣べ伝えていたのです。

そうした、生ける神の、生きた言葉についてご説明しています。



イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23

この聖句は、文字通り、小学校1年生でも理解できるように、素直に理解すべきです。

1. 誰でも、
2. イエス・キリストを愛する人は、
3. イエス・キリストの言葉を守る。
4. そうすれば、天の父に愛される。
5. そうして、天の父と主イエス・キリストは、
6. その人の所にやってきて、
7. 一緒に住む。

このことが、成就するのです。聖書に書いてある通りに信じて、聖書に書いてある通りに行って、聖書に書いてある通りの、初代教会的な教会活動を行う、すなわち、互いに愛し合い、互いに足を洗い合い、互いに罪を言い表し、互いに祈り合うことによって。

神の国とは、生ける神であられるイスラエルの神、すなわち、主イエス・キリストを信じることによって、その人の父となった天の父が、御子であるイエス・キリストが執り成して下さって、イエス・キリストの名で祈ったこと/行ったこと/信じたこと/預言したことが、神であられる天の父の御業として起こる国のことです。そうした領域であり、地域であり、都道府県であり、日本国です。

そこに、イスラエルの神が、おられるのです。生きて働かれているのです。イスラエルの神は、旧約聖書で何度も言われているように、生ける神です。

その、生ける神が、信じた人のすぐそばにいらっしゃって、一緒に、生きて下さるのです。十字架にかけてられて死んで下さった御子イエスを信じる信仰のゆえに。
死んで三日目によみがえって下さった御子イエスを信じる信仰のゆえに。
すべてに勝る名である御子イエスの名のゆえに。