イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -56ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

預言

わたしは大いなることをする。



「わたしは大いなることをする。」という預言を、2017年頃から、何度かいただいています。
天地万物を創造なさった全能の神であられる天の父が「大いなること」をなさるのですから、それは、想像を絶するものになるはずです。

「大いなることをする」ということについては、旧約聖書でも、何度か、書かれています。


主よ。あなたは、このしもべのために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、この大いなることをすべて知らせてくださいました。
歴代誌第一17:19

神は大いなることを行って測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。
ヨブ記9:10

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
詩篇126:2

わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
エゼキエル38:23

わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る。主が大いなることをしたからだ。」
地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。

ヨエル2:20-21

 

 

このように、唯一の神であり、まことの神であられるからは、古来より、「大いなること」をなさってきています。それは、ご自身の栄光を現すためであり、ご自身の民であるイスラエルを引き寄せるためです。そこにおいて、王の王であられるイエスが執り成します。

 

 

Courtesy of Ted Eytan

 

キリスト教会全体の問題点は、ただ一点、主イエス・キリストが残された「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を実践しているか、どうかにかかっている、と言っても過言ではないです。

主イエスが「新しい戒め」とおっしゃっている、その表現には、どこまでも考え抜かれた、深い知恵が表されています。それが「新しい」のです。
現代で言えば、ユダヤ教的な、旧約聖書的な信仰の体系を刷新する「宗教活動のイノベーション」です。そうした、旧来のものを刷新する「新しさ」が、この戒めにはあるのです。



従って、この「新しい戒め」を守っていない、すべてのキリスト教会には、ユダヤ教的な、旧約聖書的な、時には異教的な、古臭さ、戒律主義、権威主義、そして時には極めて異教的なもの(それはソフィアを崇拝するグノーシスであったり、土着の宗教であったり)。そうしたものが、色濃く残る…と言うより、支配的になる、ということが言えます。

ある教派は教会全体のヒエラルキーを絶対視しており、「教会を崇拝する」姿勢が根本にあります。別な会派は聖書の中のテキストを崇拝し、あたかも福音書に描かれているパリサイ派のような行動をよしとしています。

こうした中では「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」は、守れません。

というより、そうした、主イエス・キリストの素朴な教えによらない、また、パウロが宣教した異邦人に対する福音をほとんど無視している立場にあるキリスト教会群では -- それは言い換えれば三位一体の下にあるキリスト教会群だと言い換えられますが -- この「新しい戒め」を守ることが、所与として、できないのです。

それらのキリスト教会群においては、根本的な古さ(霊的な古さとも言い換えられ、また、聖霊とは相容れないとも言い換えられる)が残っているので、この「新しい戒め」。信仰活動の刷新である「互いに愛し合いなさい」ができないのです。

それらの教会が信じているもの、掲げている神学、公にしている教義は、「互いに愛し合いなさい」と、完全に矛盾するのです。


 

Courtesy of Ted Eytan

 

主イエス・キリストがヨハネの福音書13章で弟子たちに伝えた新しい戒め「互いに愛し合いなさい」。これは主イエスが「新しい戒め」であると強調していますから、旧ユダヤ教にある律法だけを守り抜くタイプの宗教活動とは「全く違うものですよ」と、主イエスは教えておられる、と解釈すべきです。

つまり旧ユダヤ教的なものとは全く違う、新しい世界が「互いに愛し合いなさい」を守るキリスト信徒間にはあるよ、ということを教えておられます。

使徒の働きやパウロ書簡に断片的に記されている初代教会の姿を、それら断片を組み合わせて一つの教会の全体像として思い描くと、確かに彼らは、主イエス・キリストから直接的に伝授された「互いに愛し合いなさい」を実践していました。



「互いに愛し合いなさい」は、同じヨハネ13章にある「互いに足を洗い合いなさい」と同時並行で存在している戒めです。

主イエスは、ペテロに対して、私があなたの足を洗わなければ、私はあなたとは何の関係もない、とおっしゃっています。主イエスは、ペテロに対して、どのように足を洗ったか?

後日、ペテロは、主イエス・キリストを知らないと、三度、公然と否定します。最後には、呪いさえした、と書いてありますから、相当にひどい言葉を口から出したのでしょう。この時、ペテロは、自分が殺されることを恐れて、イエスを知らないと、三度否定したのです。

主イエス・キリストは、人前で、ご自身を知らないという者を、私も天の父の前で、その人を知らないと言う、ということをおっしゃっています(マタイ10:33、ルカ12:9)。ペテロは、最終的に、天の父の前でなされる裁きにおいて、「ペテロ、あなたは公の場で『私を知らない』と言ったから、この裁きの場において、『私もあなたを知らない』と言おう」と、裁かれる…。つまり、羊と山羊が分けられる裁きにおいて、山羊に分類されて、そのまま永遠の燃える火の炉(地獄)に行くような、罪を犯していたのです。

このペテロを、後に、愛の方であられるイエスは、目の前で、「私を愛しますか?」と三度尋ね、「イエスを知らない」と言うのがマイナスの信仰告白だとすれば、プラスの信仰告白を三度させて、公の場でイエスを知らないと言った罪を、赦して下さったのです。その罪を取り扱ったのです。すなわち、足を洗ってくれたのです。



このようにして、イエスがペテロの足を洗わなければ、イエスとペテロは全く関係のない存在になる。メシアがメシアとして働くことができなくなる。足を洗うことには、それほどまでに深い意味があります。



互いに足を洗い合いなさいとは、「あたなたちは、同じ信仰を持つ兄弟姉妹として、互いに、互いの罪を取り扱いなさい」という戒めです。

これが、同じヨハネ13章で、「互いに愛し合いなさい」という、新し戒めと同時並行で教えられているのです。



この戒めが初代教会ではどのように守られていたか?カギは、ヨハネの手紙第一と、ヤコブの手紙にあります。ヨハネは長老中の長老であり、使徒の働きの記述を手掛かりにすると、ヤコブは初代教会の本部であるエルサレム教会の最も重要な長老です。
(当時、長老と言われていた立場は、後に司教と呼ばれるようになる立場と、同一だという記述をどこかで読んだ記憶があります)

どちらも、当時のキリスト教会全体に対して、極めて大きな影響力を持つ書簡です。
その書簡において、ヨハネ第一では「罪を言い表しなさい」と教えられており、ヤコブでは「互いに罪を言い表し、互いに祈りなさい」と教えられています。

これが、初代教会で行われていた「互いに足を洗い合う」です。そうして、そのベースには「互いに愛し合いなさい」があります。



およそ、自分の最も恥ずかしい罪。絶対に人に言いたくない罪。誰にも秘密にしておいて、親にも言うことがなかった罪。子供の頃から続いている罪。嘘をついて引き戻せなくなってそれからつきつづけている嘘。などなど。

そうした罪を「互いに罪を言い表しなさい」、そうして「互いに祈り合う」。何を祈るか?当然ながら、その罪が赦されるように、主イエス・キリストの名によって、執り成して祈るのです。そうした祈祷会の形が、初代教会で行われていた。

これが、初代教会をかき消してしまった、381年コンスタンティノープル以降の三位一体を掲げるキリスト教会群では、行われなくなった祈祷会の形です。



 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

エペソ1:7-10

「時がついに満ちて、実現します」。その時が来ようとしています。
イスラエルの神であられる天の父の御心によって、すべてのものが、イエス・キリストにあって集められ、「一つにされる」時が来ようとしています。

麦と毒麦がふるいにかけられ、実を結ぶ者と実を結ばない者が分けられ、羊と山羊とが分けられ、イスラエルに属する者とイスラエルに属さない者とが分けられます。

父を知る者と、父を知らない者とが分けられます。

イスラエルの神は、民を分ける方です。
分けた上で、残りの者を「一つ」にされます。

 

Courtesy of Marcia O'Connor

 

三位一体の偶像から出て、新約聖書の使徒の働きや、パウロ、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの書簡に断片的に書き表されているものをつないで、信じて、実践して、初代教会が回復すると、そこにおられる神。つまり、主イエス・キリストが唯一のまことの神と呼んだ方。パウロが唯一の神と何度か書いた方。その神は、言い換えれば、天の父は、イスラエルの神であられるということを、度々、実感することになります。これは、三位一体の教会の中にいた時代には、まったく、想像もできなかった感覚です。

聖書の神は、イスラエルの神です。

この真理は、聖書をよく読んでいる方には、知識として、あるいは情報として、「聖書の神は、イスラエルの神」と言われて、頭では理解できるでしょう。しかし、毎日リアルに感じ取ることができる感覚として、実感するのは無理だと思います。私が、過去には、そうでしたから。



アブラハムに現れた神は、後代、イスラエルの神と呼ばれることになります。モーセを用いて、エジプトの奴隷状況から、イスラエルの民/ユダヤ人を脱出させました。ヤコブの息子たち12人から派生した12部族。つまり、ヤコブはイスラエルと呼ばれますから、イスラエルの民。そのイスラエルの民の神であられるイスラエルの神。

このイスラエルの神が、ずっと、今でも、イスラエルの民/ユダヤ人の神であり続けています。

ですから、ナザレのイエスに召されたペテロも、このイスラエルの神を唯一の神として崇拝する人であり、後にイエス・キリストに遭遇することになるタルソスのパウロも、このイスラエルの神を唯一の神として認める前半生を送り暮らしてきています。

従って、ペテロが主イエスから、「私は誰だと思いますか?」と問われて、「あなたは生ける神の御子キリスト(メシア)です」と答えた時、ペテロの頭の中にあった「神」とは、イスラエルの神でした。

この時、まだ、325年ニカイア公会議は開催しておらず、381年コンスタンチノープル公会議も開催されておらず、従って、父と子と聖霊とが三つにして一つという、人工的な神概念である三位一体が存在していなかったことに、ご注意下さい。

1世紀当時のペテロは、数千年の歴史を持つイスラエル人/ユダヤ人の、アブラハム以来の伝統を受け継ぐ神に関する理解をもって、イスラエルの神を思い浮かべながら、主イエスに対して、「あなたは生ける神の御子キリスト(メシア)です」と答えたのです。

このイスラエルの神が、天の父なのです。
そこに、三位一体の神が挟まる余地は、どこにも、ありません。



また、異邦人に対する使徒として召され、異邦人に対して福音を宣べ伝えたパウロ。

このパウロも、歴史的な背景、宗教的な背景を、他の文献を読まずとも、聖書からだけでも理解していくならば、彼もまた、イスラエルの神を「神」と呼ぶ、イスラエル人/ユダヤ人であることは、容易に理解できます。

彼が「唯一の神」と書く時、それは、ただお一方、イスラエルの神を思い浮かべているのです。その神こそが、唯一の神であり、それは他の何物でもないです。

従って、381年コンスタンティノープル公会議で採択された三位一体の教義、三位一体の"神"が、言い換えれば、父と子と聖霊とが三つにして一つ、という神に関する理解を、パウロの目の前に示されたとしたら、その相手をパウロは殴り倒していたでしょう。「イスラエルの神を、偶像によって、侮辱するな!」と。

神を侮ってはいけません。この「神」は、イスラエルの神のことです。



パウロの書簡を丁寧に読んで、異邦人に対して宣教された異邦人への福音を正しく理解するなら、まず、その人には、「自分は異邦人である」。「自分は異邦人であって、アブラハムの血筋を受け継ぐイスラエル人/ユダヤ人ではない」。という自覚が、明確に、生まれるでしょう。なぜなら、パウロが、そのような立場の人に向けて、書簡を書いているからです。(ヘブル書のように、イスラエル人/ユダヤ人に向けて書いている書簡もあります)



このイスラエルの神に、「神は愛です」と書かれているそのままに、イエス・キリストを心の底から信じた人は、愛されるのです。

異邦人である日本人。仏教や神道が国の隅々まで覆っていたこの日本に生まれた日本人であるあなたも私も、御子イエスを愛する信仰のゆえに、イスラエルの神が愛して下さるのです。

イスラエルの神は、空も風も海も生き物も草木も。すべてをお造りになった方です。
また、人間をも、あなたも私もあの方もこの方も。母の胎内にいる前から造られた方です。この、すべてをお造りになった、全能の愛の方が、異邦人である私たちを愛して下さるのです。

この「愛」が、信仰のゆえに、リアルなものとして感じられるようになった時。それは、ハンパでは、ありません。

いかに優れた愛か。いかに人間の理解を超えた愛か。いかに透徹した愛か。いかに染み渡り、いかにすべてのものに満ち満ちている愛か。被造物をどれだけ愛されているか。生き物にある「いのち」をいかに愛しておられるか。人間を、一人一人を、いかに愛しておられるか。いかに、御子イエスの十字架と復活によって、それら一人一人を救おうと思っておられるか。

それが、わかるのです。

イスラエルの神は、生きて働かれる神です。

三位一体の物言わぬ偶像とは、まったく、まったく、まったく。まったく、まったく、まったく異なる、本当の神。主イエスが唯一のまことの神とおっしゃった方です。

その方に、愛されているということを知った時。その人の人生は、一変します。

主イエス・キリストが十字架によって、救って下さったからこそ、イスラエルの神が、言い換えれば、天の父が、その人を愛して下さいます。