Courtesy of Ted Eytan
キリスト教会全体の問題点は、ただ一点、主イエス・キリストが残された「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を実践しているか、どうかにかかっている、と言っても過言ではないです。
主イエスが「新しい戒め」とおっしゃっている、その表現には、どこまでも考え抜かれた、深い知恵が表されています。それが「新しい」のです。
現代で言えば、ユダヤ教的な、旧約聖書的な信仰の体系を刷新する「宗教活動のイノベーション」です。そうした、旧来のものを刷新する「新しさ」が、この戒めにはあるのです。
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従って、この「新しい戒め」を守っていない、すべてのキリスト教会には、ユダヤ教的な、旧約聖書的な、時には異教的な、古臭さ、戒律主義、権威主義、そして時には極めて異教的なもの(それはソフィアを崇拝するグノーシスであったり、土着の宗教であったり)。そうしたものが、色濃く残る…と言うより、支配的になる、ということが言えます。
ある教派は教会全体のヒエラルキーを絶対視しており、「教会を崇拝する」姿勢が根本にあります。別な会派は聖書の中のテキストを崇拝し、あたかも福音書に描かれているパリサイ派のような行動をよしとしています。
こうした中では「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」は、守れません。
というより、そうした、主イエス・キリストの素朴な教えによらない、また、パウロが宣教した異邦人に対する福音をほとんど無視している立場にあるキリスト教会群では -- それは言い換えれば三位一体の下にあるキリスト教会群だと言い換えられますが -- この「新しい戒め」を守ることが、所与として、できないのです。
それらのキリスト教会群においては、根本的な古さ(霊的な古さとも言い換えられ、また、聖霊とは相容れないとも言い換えられる)が残っているので、この「新しい戒め」。信仰活動の刷新である「互いに愛し合いなさい」ができないのです。
それらの教会が信じているもの、掲げている神学、公にしている教義は、「互いに愛し合いなさい」と、完全に矛盾するのです。