イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -55ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
第一ヨハネ1:3

この「交わり」とは、英語訳聖書では"fellowship"。ギリシャ語を確認すると"koinónia"

2842 koinōnía (a feminine noun) – properly, what is shared in common as the basis of fellowship (partnership, community).

上を意訳すれば、「交わりの基盤として、互いに共有されるもの」。



主イエス・キリストを信じる人は、その御言葉を守ります(ヨハネの福音書14章)。そうすれば、その人は天の父に愛され、天の父と主イエス・キリストがその人のところに行って一緒に住みます(ヨハネの福音書14章)。

三位一体の偶像から離れ(彼らと分離せよ)、本当の神である天の父と、本当の神の御子であられるイエス・キリストとを、聖書が教えるままに信じ、行動するようになると、本当の聖霊が下ります。それはあたかも使徒の働きのようにです。

そうして迎える「御父と御子イエス・キリストとの交わり」。この交わりは、ヨハネ福音書14章〜17章に書かれているままの、素朴に書かれていることの成就であり、何物にも代えがたい経験です。

本当に信じる人は、本当に聖書の御言葉通り生きる人には、すべて、それが開かれています。
 

Courtesy of Stanley Zimny

 

私が最初に10年間通った教会は、米国のRHEMA Bible Training Collegeという牧師養成学校で訓練を受けた牧師夫妻が牧会する単立の教会でした。この教会では、毎週のように、「聖書の御言葉では、こう書いてある」という風に教えられました。何をするにも、聖書の御言葉。御言葉にこう書いてあるから、こうしなければならない、と、徹底的に、御言葉に従順であるべきだと、教えられました。

また、自分の口から出る言葉も、聖書の御言葉に合致したものでなければならず、仮に、聖書の御言葉に合致していない言葉を自分の口から出すと、マイナスの信仰が働いて、ネガティブなことが起こると、教えられました。

今から振り返れば、10年間このように、御言葉、御言葉と、毎週教えられたことは、現在の私の主イエス・キリストにある信仰の中核を成しており、大変に良かったと思っています。米国で就職をし、職業的な成功を収めた方が、召命を受け、ある時から牧師になるべく方向転換をし、その後、はるばる生まれた国にご夫妻で帰ってこられて、単立教会を牧会された、そのご苦労を思います。まことに感謝なことだと言わなければなりません。



彼らを養成したRHEMA Bible Training Collegeを設立したケネス・ヘーゲン。お名前のスペルがKenneth Haginなので、ケネス・ハギンとカタカナ表記される場合もあるかと思います。この方は、英語のWikipediaで調べてみると、Word of Faith運動、日本語に直せば「信仰の御言葉運動」で重要な役割を果たした方だとのことです。上記の、常に聖書の御言葉、というポリシーです。ここにこう書いてあるから、こうしなければならない。それで、キリスト信徒の全ての人生、全ての行動を、導きます。

とはいえ、後から振り返ってみると、意図的にか、そうでないか、無視している聖書の御言葉がいくつかあるな、と気づきます。

例えば、以前から何度か取り上げてきたローマ人への手紙11章にある「異邦人の完成」。異邦人が完成する時まで、とパウロが書いてあることに基づいて、異邦人である我々は完成されなければならない…的な教えは、しません。

例えば、「私があなたの敵をあなたの足台とするまでは、私の右に座に着いていなさい」という天の父による御子イエスに与えられた指示。これは、マタイ22:44、マルコ12:36、ルカ20:43、使徒2:35、ヘブル1:13の5箇所に出てくる御言葉であり、かなり重要なものであると思われます。ここの部分について、聖書にこれこれこう書いてあるから、キリスト信徒はこうしなければならない…的な教えはしません。


ここの聖句は、天の父がイエス・キリストの敵をイエス・キリストの足台にすることは、天の父が天におられるがゆえに、天の父の御心を受けたキリスト信徒が頑張って、イエス・キリストの敵をイエス・キリストの足台にするように、霊的な戦争によって、戦いまくる。キリスト信徒は、そのように、イエス・キリストの敵を、イエス・キリストの足台にするまで、霊的な戦争を戦いまくらなければならない、と読むのが、どのように考えても順当だと思われるのですが、この聖句については、スルーです。



そのように恣意的に聖書を読んでいる姿勢が、かなり、あります。ある聖句は、読まない。スルーする。教えない。また、ある聖句は、恣意的に読んで、恣意的に解釈し、教義の域にまで高める。

残念ながら、ケネス・ヘーゲンも、ジョン・ネルソン・ダービーが創始したディスペンセーション神学の影響下にあり、艱難前携挙を教えています。英文でケネス・ヘーゲン関連の資料を調べていた時に、彼の教えの集大成とも言える長大な説教の記録が見つかりました。そこで、艱難前携挙について教えているのですが、聖書の御言葉主義である彼が、「これは、聖書に書いていないことだが…」と前置きして、ジョン・ネルソン・ダービーに遡る艱難前携挙の、悪しき霊的な伝染を受け継いで、ある意味、洗脳されて、その論を展開していたのでした。

このようにWord of Faith運動、聖書の御言葉主義運動を引っ張っていたとは言え、その実、聖書の読み方、教え方は、恣意的であり、ある聖句は取り上げ、ある聖句は取り上げないという風にして、既存の会派に対してはアンチ。自分たちの会派においては、ある、恣意的な釈義、恣意的な教義、恣意的な教えを実践して、その影響下にある複数の教会に連なる信徒たちを、ある意味でだまし、ある意味で奴隷にしていたのでした。



ケネス・ヘーゲンも、本当の聖書の御言葉運動をするのなら、聖書のどこにも書いていない三位一体の神の偶像を破壊し、旧約聖書に書いてあるように、偶像を木っ端微塵に壊して、燃やして、灰にして、後が残らないようにして、その上で、イスラエルの聖なる方を、御子イエスの名によって礼拝する、ということをすべきでした。

三位一体の下にある限り、いかに聖書に忠実たらんとしても、そこに必ず、敵の霊が入り込んできて、霊的にはおかしな、それはつまり、主イエス・キリストの名と権威によって悪霊を追い出すこともできなければ、エペソ6章に書かれている霊的な戦争の一つも戦えない、何の霊的な権威もない、壊れたラジオのように同じ説教を繰り返すだけの、ヘンな教会になってしまうと、心底、思う訳なのです。

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は事情により、事前に録音したメッセージをYouTubeでご視聴いただく形になります。

2022年7月3日午前9時30分から、以下のリンクのYouTube動画が視聴できるようになりますので、それをお使い下さい。

 

「私は異邦人だ」という強烈な自覚を持つ人が主イエスの救いにあずかる(2022年7月2日)

 

 

パウロはローマ人への手紙11章において、「異邦人の完成」がある、ということを書いています。これは、預言として書いています。これから、そういう出来事が、創造主であられる天の父の御業として、主イエス・キリストの執り成しによって、異邦人でありながらも、イスラエルの神の御子イエスに結び付けられた人々に起こるのです。

それは、詰まるところ、イスラエル人/ユダヤ人に「ねたみを起こさせる」ためだとパウロは書いています。

それはどういうことか?

神の選びについて、正しく理解することが、その解き明かしの根底となります。

 

(メッセージ中で言及しているドイツの神学者は、ウォルター・バウアーでした。)

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

三位一体の教会の下にいた時には経験できなかったことですが(三位一体は381年コンスタンティノープル公会議に集まったbishop達人間によってこしらえられた人工的な神、その実物言わぬ偶像であるがゆえに。祈っても聞かれない、生きた神として業をすることもない)。

三位一体から離れ、新約聖書の中の記述を素朴に受け止めて、素朴に信じて、書いてあることを守り行うと、本当の聖霊が信徒に下り、初代教会が回復するのを経験するようになります。

そうして、キリスト信徒がまず二人、そうして三人。それから四人、五人と集まって、初代教会の形をそのまま守り行って、教会活動を行なっていると、生ける神と書かれている、本当の神、唯一の神。三位一体の下にいては絶対にわからないし理解できない、唯一のまことの神であられる天の父。この天の父が、御子イエスを信じる信仰のゆえに、生きて働くことを、度々、経験するようになります。



そうして経験する、天の父の御業。主イエス・キリストを信じる信仰により、ご自身の息子、娘となった者に対して働く天の父の御業。

これが、詩篇23に書かれている「いつくしみと恵みとが」「私を追って来る」タイプの祝福であることに、気づくようになります。

 

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

詩篇23:6

そう。神からのいつくしみと恵みとが、自分を追いかけて来るのです。
神の祝福が、自分を追いかけて来るのです。

上から与えられると言うよりも、後ろから追いかけて来る感じ。
それを経験するようになります。
 

Courtesy of Pedro Szekely

 

祝福の典型的な形は、申命記28章に記されています。
現代人的な知性でこれを読めば、「信じられない」となるでしょう。
しかし、素朴な信仰により、神の国に入ることができる幼子のような信仰により、これを信じれば、主イエス・キリストを信じる信仰とも相まって、これが成就するのです。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。

あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。
主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。

主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。

地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。
主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。

主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。

あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。

申命記28:1-14

この祝福が、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら」という前提付きであることが、神の民にとっては、重要です。

「主の御声」の「主」は、このブログで何度も述べているように、旧約聖書ヘブライ語原典では"YHWH"(英語アルファベット表記)。4文字で書き表され、人間が発音するこのとできないテトラグラマトンです。「あなたは主(YHWH)の名をみだりに口にしてはならない」という十戒がありますから、古来、ユダヤ人達はこの部分に「アドナイ」という振り仮名を振って読んでいました。「アドナイ」の意味は「主人」「主(あるじ)」。そこから英語訳聖書で"LORD"と訳され、日本語聖書で「主」と訳される慣行が生まれています。しかし元々は"YHWH"。この方が天地創造の神であり、アブラハムやモーセに現れた神です。そうして福音書では、この方が「天の父」であると、御子イエスによって紹介されています。この関連は、三位一体の教会の中にいるとよく理解できない事柄です(神理解が混乱して、先に進めなくなります)。これらの事柄については以下の投稿で詳しく述べています。

日曜投稿:神の名。なぜ「イエスの名」によって祈るのか?
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12530734598.html

日曜投稿:「万軍の主」は「天の父」であり主イエスの名によって動かれる
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12622984615.html

日曜投稿:なぜ「イエスの名」によって祈るのか?(続)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12627630486.html



「主の御声」および「私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令」は、御子であるナザレのイエスがメシア(王の王)となられてからは、ヨハネ14章〜17章で集中的に教えられている内容、及び、福音書全編で教えられている内容、及び、使徒であるパウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの書簡で展開されている内容に置き換えられます。主イエス・キリスト以降の時代に生きる異邦人たちは、ユダヤ人/イスラエル人も含めて、主イエス・キリストに中心がある新しい福音に生きています。従って、旧約聖書の中の律法に縛られることはありません。主イエス・キリストの戒めを守るなら、旧約聖書のすべての律法を守っているのと同じことになります。むしろ、それ以上です。
(旧約聖書の律法が廃れることはありません。主イエス・キリストのおっしゃる通りです)

その主イエス・キリストが教えている「新しい戒め」は「互いに愛し合いなさい」です。これに付随して「互いに足を洗い合いなさい」と命じておられます。

これが申命記28章の「主の御声」および「私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令」の中の最重要戒であると考えて良いでしょう。その他、人を赦しなさい、人を裁いては行けません、神の国とその義を第一に求めなさい、心を尽くし思いを尽くし精神を尽くしてあなたの神である"YHWH"を愛しなさい、などがあります。しかし、福音書の全文脈を考えるならば、ヨハネ13章で教えられている「互いに愛し合いなさい」が最重要戒であることは明らかです。これが主イエス・キリストの受難が始まった日に、ある意味で遺言のように言い渡されていることに注意しなければなりません。

また、「互いに愛し合いなさい」を弟子たちが実践することにより、それはすなわちキリスト信徒たちが実践することにより、それによってイエス・キリストの弟子であることが、周囲の人々にわかると教えています。

つまり、キリスト信徒が、この世の人と、はっきり分けられるのは、「互いに愛し合いなさい」を実践しているか否か、この一点にかかっていると言っても過言ではないのです。



いずれにしても、この戒めは重要です。なぜなら、上記の、その他の主イエス・キリストの戒めを守っても、経験できなかった申命記28章の祝福のすべてが、イエス・キリストの最重要戒である「互いに愛し合いなさい」を、素朴に守れば、申命記28章のすべての祝福が成就するのを、目の前で見ることになるからです。



聖書に記されている祝福とは、神の民が受けることができる祝福です。
その本質は、旧約聖書の神である主、新約聖書の天の父が、御子であるイエスを信じることの信仰のゆえに、ご自身の民として選び分けられた人たちに対する、天の父からの贈り物です。ご自身の民を愛されるがゆえに、これを、全知全能の、人には測り難い、特別な恩寵によって、信じられないような贈り物を、次から次へと、送って下さるのです。信じる人、主イエス・キリストの最重要戒を守る人には、それをなさいます。なぜなら、ご自身の民は、御言葉を守る民であるからです。