Word of Faith運動、ケネス・ヘーゲンのこと | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Stanley Zimny

 

私が最初に10年間通った教会は、米国のRHEMA Bible Training Collegeという牧師養成学校で訓練を受けた牧師夫妻が牧会する単立の教会でした。この教会では、毎週のように、「聖書の御言葉では、こう書いてある」という風に教えられました。何をするにも、聖書の御言葉。御言葉にこう書いてあるから、こうしなければならない、と、徹底的に、御言葉に従順であるべきだと、教えられました。

また、自分の口から出る言葉も、聖書の御言葉に合致したものでなければならず、仮に、聖書の御言葉に合致していない言葉を自分の口から出すと、マイナスの信仰が働いて、ネガティブなことが起こると、教えられました。

今から振り返れば、10年間このように、御言葉、御言葉と、毎週教えられたことは、現在の私の主イエス・キリストにある信仰の中核を成しており、大変に良かったと思っています。米国で就職をし、職業的な成功を収めた方が、召命を受け、ある時から牧師になるべく方向転換をし、その後、はるばる生まれた国にご夫妻で帰ってこられて、単立教会を牧会された、そのご苦労を思います。まことに感謝なことだと言わなければなりません。



彼らを養成したRHEMA Bible Training Collegeを設立したケネス・ヘーゲン。お名前のスペルがKenneth Haginなので、ケネス・ハギンとカタカナ表記される場合もあるかと思います。この方は、英語のWikipediaで調べてみると、Word of Faith運動、日本語に直せば「信仰の御言葉運動」で重要な役割を果たした方だとのことです。上記の、常に聖書の御言葉、というポリシーです。ここにこう書いてあるから、こうしなければならない。それで、キリスト信徒の全ての人生、全ての行動を、導きます。

とはいえ、後から振り返ってみると、意図的にか、そうでないか、無視している聖書の御言葉がいくつかあるな、と気づきます。

例えば、以前から何度か取り上げてきたローマ人への手紙11章にある「異邦人の完成」。異邦人が完成する時まで、とパウロが書いてあることに基づいて、異邦人である我々は完成されなければならない…的な教えは、しません。

例えば、「私があなたの敵をあなたの足台とするまでは、私の右に座に着いていなさい」という天の父による御子イエスに与えられた指示。これは、マタイ22:44、マルコ12:36、ルカ20:43、使徒2:35、ヘブル1:13の5箇所に出てくる御言葉であり、かなり重要なものであると思われます。ここの部分について、聖書にこれこれこう書いてあるから、キリスト信徒はこうしなければならない…的な教えはしません。


ここの聖句は、天の父がイエス・キリストの敵をイエス・キリストの足台にすることは、天の父が天におられるがゆえに、天の父の御心を受けたキリスト信徒が頑張って、イエス・キリストの敵をイエス・キリストの足台にするように、霊的な戦争によって、戦いまくる。キリスト信徒は、そのように、イエス・キリストの敵を、イエス・キリストの足台にするまで、霊的な戦争を戦いまくらなければならない、と読むのが、どのように考えても順当だと思われるのですが、この聖句については、スルーです。



そのように恣意的に聖書を読んでいる姿勢が、かなり、あります。ある聖句は、読まない。スルーする。教えない。また、ある聖句は、恣意的に読んで、恣意的に解釈し、教義の域にまで高める。

残念ながら、ケネス・ヘーゲンも、ジョン・ネルソン・ダービーが創始したディスペンセーション神学の影響下にあり、艱難前携挙を教えています。英文でケネス・ヘーゲン関連の資料を調べていた時に、彼の教えの集大成とも言える長大な説教の記録が見つかりました。そこで、艱難前携挙について教えているのですが、聖書の御言葉主義である彼が、「これは、聖書に書いていないことだが…」と前置きして、ジョン・ネルソン・ダービーに遡る艱難前携挙の、悪しき霊的な伝染を受け継いで、ある意味、洗脳されて、その論を展開していたのでした。

このようにWord of Faith運動、聖書の御言葉主義運動を引っ張っていたとは言え、その実、聖書の読み方、教え方は、恣意的であり、ある聖句は取り上げ、ある聖句は取り上げないという風にして、既存の会派に対してはアンチ。自分たちの会派においては、ある、恣意的な釈義、恣意的な教義、恣意的な教えを実践して、その影響下にある複数の教会に連なる信徒たちを、ある意味でだまし、ある意味で奴隷にしていたのでした。



ケネス・ヘーゲンも、本当の聖書の御言葉運動をするのなら、聖書のどこにも書いていない三位一体の神の偶像を破壊し、旧約聖書に書いてあるように、偶像を木っ端微塵に壊して、燃やして、灰にして、後が残らないようにして、その上で、イスラエルの聖なる方を、御子イエスの名によって礼拝する、ということをすべきでした。

三位一体の下にある限り、いかに聖書に忠実たらんとしても、そこに必ず、敵の霊が入り込んできて、霊的にはおかしな、それはつまり、主イエス・キリストの名と権威によって悪霊を追い出すこともできなければ、エペソ6章に書かれている霊的な戦争の一つも戦えない、何の霊的な権威もない、壊れたラジオのように同じ説教を繰り返すだけの、ヘンな教会になってしまうと、心底、思う訳なのです。