イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -54ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

この投稿の続きです。

ヨハネ17章6節の「あなたの御名」とはどのお名前か?(1)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12749234389.html

 

色々なことがわかってきました。まず、モーセの十戒。
日本語訳の聖書で「主の名をみだりに唱えてはならない。」と訳されている部分は、英語訳聖書やヘブライ語原典で使われている言葉を確かめると、平たく翻訳すれば、「"YHWH"の名を冒涜する形で用いてはならない」

出エジプト記20:7
新共同訳
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

口語訳
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

新改訳第三版
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

New International Version
“You shall not misuse the name of the LORD your God, for the LORD will not hold anyone guiltless who misuses his name.

Berean Study Bible
You shall not take the name of the LORD your God in vain, for the LORD will not leave anyone unpunished who takes His name in vain.

King James Bible
Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain; for the LORD will not hold him guiltless that taketh his name in vain.

Young's Literal Translation
'Thou dost not take up the name of Jehovah thy God for a vain thing, for Jehovah acquitteth not him who taketh up His name for a vain thing.

 

出エジプト記20:7のヘブライ語


日本語訳では新共同訳、口語訳、新改訳第三版のいずれも「みだりに唱えてはならない」と訳されており、このことから、私たち日本人は「お名前を、みだりに口にしてはいけないのか…」と捉えてしまいますが、原文は「名前を口から発音すること」だけを戒めているのではありません。原文の意図は、「神の名を」("YHWH"のお名前を)不適切に用いてはならないと、もう少し広い意味であることに気づく必要があります。

つまり、名を発音することだけでなく、信徒の日常的な生活全般において、その名を軽々しく取り扱うようなことがないように、ということを、きつく戒めているのです。

このことから、「神の名」の用いられ方が、口から発音するだけでなく、信徒の行動全般に渡って用いられるものである、という拡大解釈が可能になります。

つまり、「神の名」は、極言すれば、その人が生きている365日24時間すべての時間において、その人が、その信仰により、用いることができるものである、ということです。

「その名によって生きる」。「その名によって、すべての生活を行う」。そういうことができる、というのが、出エジプト記20:7が教えている事柄です。

今日はここまでとします。

 

Courtesy of Elke Mader

 

 

悪霊の問題がある人で、解放がなかなか進まない人には、共通の課題があります。
プライドです。

プライドは、「自分が、人より、優れていると思う」。それに尽きます。
このプライドがある限り、その人は、悪霊から、解放されません。



一つ前の投稿で書いた、

自分のしたくない悪を行う - 悪霊の追い出しアップデート(8)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12751981403.html

の中の、「キリストの死にあずかるバプテスマ」は、プライドのある自分が死ぬ、ということと同義です。

プライドのある自分が死ねば、キリストと共に新しい人がよみがえって、聖書に記されている福音の全てがその人において成就します。
プライドのある自分が死ななければ、キリスト共に新しい人がよみがえるということはなく、従って、聖書に記されている福音は、その人とは無関係なままです。



プライドは…。子供の頃からの考え方のクセ、価値観の持ち方のクセ、自己認識のクセ、他者を見る際の視線のクセ、自分を中心に考える考え方のクセ。

そうして、それらは全て、神に反しています。つまり、神から的外れな状態です。
そこに、サタンがつけ込みます。

プライドは、サタンが、天から落とされた根本原因です。
同じものを、その人が持っていることを、サタンはすぐに察知します。そうして、配下の悪霊と共にやって来て、その人に住み着きます。

プライドのある自分を死なしめることができれば、その人は、サタンや悪霊から解放されます。すなわち、キリストの死にあずかるバプテスマに、あずかることができるようになります。

プライドは、イエス・キリストの御言葉を守ることの、正反対です。


 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

これは、召された人でなければ、わからないことです。理解できないことです。



イエス・キリストの名によって、いただいた権威によって(ルカ10:19)、サタンの支配を打ち砕く。神の国は、そのような、サタンの支配を打ち砕くことと、直結しています。

創世記で、アダムとエバがサタンの言葉に耳を傾けて、それに従って以降(申命記28章参照)、人類はサタンが支配する状況となりました。サタンは、原義が、神に反する者。つまり、人類は、神に反する状態が、所与(言わば先天的な存在の前提)となってしまったのです。

イエス・キリストは、サタンの支配を滅ぼすために来たと書かれています。

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
第一ヨハネ3:8

創世記では、アダムが造られた際に、地の上の支配は、アダムに任されました。
しかし、そのアダムが、サタンに言葉に耳を傾けて、それに従ってしまったがために、地の上の支配は、サタンに移りました。サタンが、地の上の支配を、人間から盗みました。

この仕業を打ち壊すために、御子であられるイエスが地上に送られ、十字架の受難を忍ばれて、死なれました。そうして、三日目によみがえられました。これによって、サタンの支配は、打ち壊されました。しかし、一人一人の人間には、課題が課せられており、それは、第一に、信じる人は、イエス・キリストと同じように、信仰によって、サタンの支配を打ち壊す。第二に、それは、イエス・キリストの名と権威(ルカ10:19)によって行う、ということです。

信じなければ、その人におけるサタンの支配は、打ち壊されません。
イエス・キリストの名と権威を使って、サタンの支配を打ち壊す行動に出ない限り、サタンの支配は、打ち壊されません。

しかし、イエス・キリストの名と権威によって、サタンの支配を打ち壊したならば、そこに、神の国が来ます。



イエス・キリストを信じるということは、サタンを取り扱うということです。その名と、権威によって、サタンを取り扱うのです。支配されていた状況から、支配する状況に移るのです。

このことを理解すれば、神の国がどのようなものであるかが、わかって来ます。
主イエス・キリストが打ち立てられた救いが、どのようなものであるかが、わかって来ます。

 

Courtesy of Elke Mader

 

 

その人の中に悪霊がいるという状況は、ローマ人への手紙7章で、パウロが深刻な問題として書いている「自分が望んでいない悪を行う」問題。まさにこれであると言えます。
自分がしたくないのに、その悪を行ってしまう。
自分が憎んでいるのに、その悪を行ってしまう。
自分が止めようと思っているのに、その悪を繰り返してしまう。
非常に極端に言えば、「自分の中にモンスターが住んでいて、制御不能な状態」。それが、悪霊がいる、という状態です。



ローマ7章15節から19節の記述を借りて、人の中に悪霊が住んでいる状況を説明してみます。

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
ローマ7:15

悪霊が自分の中で動き回っている状況は、まさに「私は、自分のしてることがわからない」です。まさに「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている」。

ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
ローマ7:17

「私のうちに住みついている罪」がそれを犯させる。悪霊の文脈で言えば、「私のうちに住み着いている悪霊」がそれを犯させます。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
ローマ7:19

悪霊が、自分の意に反して動き回るがゆえに、「自分でしたいと思う善を行わずに」、「自分がしたくないと思っている『悪』を行う」。しかも、それを繰り返す。

悪霊がいるとは、そういう状況です。



こうした悪霊がいる状況に対処するために、どのような解法があるか。パウロは、同じローマ人への手紙において、先立つ6章の中で、「キリストの死にあずかるバプテスマ」があると、述べています。

「キリストの死にあずかるバプテスマ」とは、簡単に言うと、古い自分が、キリストと共に死ぬ。肉の自分が、キリストと共に死ぬ。そうして、キリストと共に、新しい人としてよみがえる。キリストと共に、聖霊の人としてよみがえる。これが、キリストの死にあずかるバプテスマです。

古い人が死んだので、もはや、悪霊に支配されることもない。
肉の人が死んだので、もはや、悪霊が働く余地はない。

それが、キリストの死にあずかるバプテスマです。

古い人が死んでいないから、悪霊が、自分の内で動き回る。
肉の人が死んでいないから、悪霊が、自分の望んでいない悪を行わせる。

キリストと共に死ねば、悪霊の動きは止まる。



では、現実問題として、いま、悪霊の問題に悩まされている人は、どうすれば、「キリスト共に死ぬ」ことができるのか?



それは、人間には、できないことです。
その人自身にも、できないことです。

ただひたすらに、神であられる天の父と、天の父の息子であられるイエス・キリスト。イエス・キリストの執り成しによって、天の父が、創造主としての絶大なる御業を行って下さることによって、その人は、キリストと共に死ねます。

それを、ひたすらに求める。

なぜなら、主イエス・キリストは、天の父が自分(主イエス・キリスト)の下に連れて来て下さるのでなければ、自分の下に来ることはできない、ということをおっしゃっています。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
ヨハネ6:37

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」

ヨハネ6:44-45

そのように、天の父が動いて下さることを、ひたすらに、主イエス・キリストの名によって求める。

その方が、エペソ1:4、および第一ペテロ1:2に書かれている、選ばれた人であるのならば、天の父は、動いて下さるでしょう。どのような悪霊からも自由になることができる、キリストの死にあずかるバプテスマを、受けることができるでしょう。


 

大変に失礼いたしました。

日曜日7月3日に公開しました動画/音声で、最後のところが切れていました。編集のミスです。

こちらの動画が42:48のところで切れています。

それ以降の部分、約7分を以下に上げます。
なお、編集し直した完全版を、別途、上げます。

天の父は、「予め知っている人」をお選びになり、その選んだ人々を、主イエス・キリストにあって整える…。というところの説明です。

 

 

 

 

Taken by me