イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -53ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Marcia O'Connor

 

 

自分の神に関する理解が、まだ不完全なものであるうちは、よくわからないのですが、聖書に100%合致する形で、神の理解ができてくると、神であられる天の父は、すべての出来事やすべての出会いやすべての目にする書籍・テキスト、耳にするメッセージ、参加する集会などを通じて、「その人を教える」ということが、わかるようになります。

何度も書くように、ここでは、三位一体の"神"は、人工的な偶像であるとして切り捨てた上で、議論を展開しています。



主イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ、イスラエルの神であられる天の父は、以下の聖句で言われているように、その人を教えます。

預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
ヨハネ6:45

天の父が、その人を教えるやり方は、ある時は、近くにいる人を使ってその人の口をもって語らせ、ある時は書物に出会わせ、ある時はインターネットの検索を経てたどり着いた資料によってわからせ、ある時は事故や怪我や災害などによってわからせ、ある時は父母の行動から、ある時は通っていた教会で経験することから、ある時は聖書から、ある時は自然の事象から、ある時は夢によって、ある時は子供の頃に読んだ物語を思い出させることによって、ある時は自分の中の思考を導き、ある時は偶然の気づき、ある時は偶然の出会い、ある時はTVに流れてくるニュースで、ある時は毎週の日曜礼拝で…。という具合に、すべてのものを用いられます。

なぜなら、主イエス・キリストが言うように、その人の髪の毛一本ですら天の父によって数えられていて(マタイ10:30、ルカ12:7)、その人が寝るにも起きるにも食べるにも何するにも、神であられる天の父が、全知全能の創造主としてその人に関わるからです。

その天の父の働きを知らないのは、その人だけです。そうして、全世界にいる数十億人のほとんどが、そのように、天の父の働きを知らない。なぜなら、天の父は、隠れた所におられる神でもあられるからです(マタイ6:4、6:6、6:18)。

唯一のまことの神を知ることがないのは、それは、天の父の御心でもある…(ヨハネ6:65、ローマ8:28、第一コリント1:24。エペソ4:4、黙示録17:14)。



「教会/主イエス・キリストの新しい戒めを守る人々」について、理解が進んでくると、すべてのものを用いて教える神であられる天の父は、「キリスト信徒同士が、互いに愛し合う関係を通じて、教える」ということに、気づくようになります。また、その「互いに愛し合う関係」の、まさにその中に、イエス・キリストの救いや執り成しがある、ということに気づくようになります。

この気づきも、広い意味で、天の父がその人を教えているからこそ、気づくのです。

この気づきは、書物を読んでわかる気づきではなく、また、このブログを読んでも、よく理解できないでしょう。まさに、「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」をキリスト信徒数名で、あるいは十数名で、実践しあう関係において、経験する中で、わかってくる類の気づきです。

 

経験によってしか、わかることがない「知」です。グノーシスのソフィアに属する「知」ではありません(すなわち神学では絶対にたどり着くことのできない「知」です)。イスラエルの神であり、愛の神であられる天の父と、御子イエスの十字架を前提とした「知」です。

従って、「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」が、奨励されているのです。


ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

ルカ10:21

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

安倍晋三元首相の死に、深い哀悼の意を表します。



三位一体の外に、自ら、旗を掲げて出る、ということをすると、だんだんと本当の神がわかってきます。(隠れて、コソコソ、三位一体を捨てるのではなく、自ら、正々堂々と、旗を掲げて、外に出なければなりません。イスラエルの神は、それを正しく評価されます。出エジプト34:13、申命記7:5、士師記6:25、第二コリント6:17を参照)

本当の神がわかると、福音書で、主イエス・キリストが説かれたお言葉の一つひとつが、染み渡るように、真理として、自分の中に受容できるようになります。そうして、信じることができます。そうして、主イエス・キリストをお手本として、行うことができるようになります。



本当の神とは、天の父です。

これは、三位一体の下にいると、絶対に理解できないことですし、そもそも、天の父が理解されないのは、御心です。

聖書の複数箇所にそのことが書かれています。
天の父は隠れた所におられます(マタイ6:4、6:6、6:18)。
天の父を知ることがない人々がいます(ヨハネ15:21、16:3)。
また、天の父によらなければ、本当のイエス・キリストの下に行くことはできません(ヨハネ6:44-45、6:65、8:42、14:6)。

この天の父のことを、御子であるイエスは、「唯一のまことの神」と呼んでいます(ヨハネ17:3)。また、パウロは「唯一の神」と書いています(ローマ16:27、コリント第一8:4、8:6、テモテ第一1:17)。これはアブラハムの伝統を受け継ぐユダヤ人/イスラエル人の捉え方です。神は唯一です。そのように考えるのがユダヤ人/イスラエル人です。

それを後の時代に、ユダヤ人/イスラエル人の伝統がない、異教の背景がある人達がキリスト教界で大多数を占めるようになって、この「唯一のまことの神」がわからなくなって、教義をまとめる必要ができたことから、議論の末、三位一体というものができた。これによって、「唯一のまことの神」は、なおわからないものとなった。そういう歴史的背景があります。



従って、本当の「福音」を理解するには、三位一体が成立する前の、1世紀当時の御子イエスが神の国を宣教していた当時の神に関する理解。また、1世紀当時のパウロが異邦人に福音を宣べ伝えていた当時の神に関する理解。それを、聖書から、丁寧に発掘して、現代に回復する必要があります。

幸い、現代の神学のトップランナーであるN.T.ライトがその作業を学術的に行っており、研究成果を一般の読者にわかるように記している本が何冊か出ています。それを読めば、パウロが異邦人に宣教していた信仰の中身がよくわかります。

パウロが「唯一の神」と書くとき、ユダヤ人/イスラエル人として理解していた、アブラハムに現れた神のことを想定していました。3〜4世紀に成立する「父と子と聖霊とが三つにして一つの神」などとという、ヘンテコな人為的な"神"のことを考えていたのではありません。



アブラハムに現れた神。モーセに現れてユダヤ人/イスラエル人をエジプトから脱出させた神。創世記でアダムを創造された神。

この唯一のまことの神が、イスラエルの神であるところ、異邦人に対する使徒として召命を受けたパウロの宣教内容をよくよく理解して、主イエス・キリストを受け入れると、異邦人であるわれわれにとって、天の父が「アバ、父」になる。これが本当の福音です。



この神は、天地創造をなさった神であり、全知全能の神ですから、この神様が自分の父親であるということは、人間の理解をはるかに超えます。

イエス・キリストは神のひとり子でした。
私たち異邦人も、イエス・キリストに限りなく近い「神の子ども」(ヨハネ1:12、ローマ8章、9章、ガラテヤ3:26)です。

従って、信仰により、イエス・キリストの名によって、神の子どもとして、イエス・キリストと同じことができるのです。この本当の「福音」が包含している世界は、ものすごいです。



つまり、聖書で書かれていることが、信仰により、イエス・キリストの名によって、その人において、また、その人の周囲において、成就していきます。

これが「神の国」です。



現代人には、信仰がなく、信仰がないために、神の言葉が成就するということが、理解できません。信じられません。

しかし、エペソ1:4と第一ペテロ1:2に書かれている神の選び、神の召しによって、自分が生まれるはるか前から天の父によって選ばれている人たちは、イエス・キリストの福音を聞く「耳」が与えられていますから、この福音に耳を傾け、信じることができます。

信じる人は、イエス・キリストと同じことを行います。マルコ16章末尾に書かれている「信じる人に伴うしるし」も、そういうことです。



御子であるイエスを通じて、また、大祭司であられるイエスを通じて、また、メシア/王の王であられるイエスを通じて、唯一のまことの神であられる天の父のお近くに行くことができる。そうして、交わることができる(第一ヨハネ1章)。

子どもとして、天地創造をなさった全知全能の神であられる天の父と、親しくやりとりできる。そのおそばには常に、御子であられるイエス・キリストがおられる。

そういう関係。

エペソでは私たちが、天の高い所に座らせられたという記述があります。
あれは、そういうことです。天の父も、御子イエスも、私たちのごく近い所におられる。天が地に降りてくる。神の国が地の上に現れる。

そうすると、イエス・キリストがおっしゃったことが、全て現実になるのです。
これが本当の「福音」です。




 

Courtesy of Ted Eytan

 

 

プロテスタント的な考え方の中にいると、クリスチャンは、聖書に基づく生き方をしていく際に、「失敗することは、許されないのではないか?」と考えがちです。
わかりやすい例で言うと、「牧師は、失敗することが許されない」と考える。

これは、どうなのか?

聖書を紐解くと、数々の失敗をした人が出てきます。

バテシェバと姦淫の罪を犯したダビデ。ダビデは殺人の罪も犯しています。ユダ族に属するこのダビデから、イエス・キリストがお生まれになっています。

イスラエルの元となったヤコブは、ずるいやり方によって、エサウから長子の権利を奪い取っています。

カルメル山に火を降らせたものの、悪妻イゼベルの悪意に満ちた言葉に怯えて逃げ去り、預言者返上を願ったエリヤ。

ソロモンにしても、たくさんの箴言を残してはいても、晩年は数千人の異邦人の側女と交渉を持ち、ほぼ確実に、異邦人から来る悪霊の影響を受けています。

モーセも、「私が水を出さなければならないのか!」と怒って、杖を、一度叩けばいいところを、二度、杖で地面を叩きました。この罪によって、彼は、祝福されたカナンの土地に入ることができませんでした。



人間的に見れば、失敗をした、こうした人たち。ダビデの場合など、どうしたらこのような罪が赦されるのだろうか?と、私たち人間からすれば、想像もつかないようなひどい罪を犯しているのに、神である主は、彼を愛されています。それは、詩篇を見れば、よくわかります。

結局のところ、これは、神の選びに、収斂して行きます。

神は、ずる賢いやり方で、エサウから長子の権利を奪ったヤコブを、元々、選ばれていたのです。そうして、ヤコブからイスラエルの十二の部族が生まれ、そこからイスラエル人/ユダヤ人が、神に選ばれた民族して立てられ、そのイスラエル人/ユダヤ人の罪を除くために、ゆくゆくは、御子イエスが地上に遣わされる。そうしたご計画を、元々、お立てになっていたのです。

そうして、イスラエル人/ユダヤ人のメシアである御子イエスを、アブラハムに与えらた「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」というお約束を思い出されて、私たち異邦人の救い主にもして下さいました。これは、神の選びのゆえです。エペソ1:4、第一ペテロ1:2に、神の選びのことが書いてあります。神は、この、ご自身が選んだ民を、イエス・キリストによって、サタンの縛りから解放して下さり、栄光ある新天新地へと、連れ出して下さるのです。壮大な出エジプトが、これから始まるのです。



この、神の選びがあるがゆえに、失敗した人も、主イエス・キリストによって、その失敗がカバーされて、悔改めれば、再び、主イエス・キリストの道を歩んで行くことができるようになるのです。

これは、プロテスタント的な伝統の中では、なかなか、リアリティを持ちにくい考え方です。

プロテスタント一般は、神の選びを、前提としていません。マルチン・ルターは信仰による義を主張しましたが、エペソ1:2、第一ペテロ1:4、その他、神の召しや、旧約聖書全編に現れている神の選びを前提として、信仰の体系を打ち立てることはしませんでした。

カルヴァンについては、保留とさせて下さい。彼の予定説が、小職が聖書を基にして理解している神の選びと、同じものなのかどうか、まだ確認できていません。




人間の失敗ということに戻ると、現実問題、生身で生きている人間は、その人生において、ほぼ確実に、失敗します。人間は、神のように完全ではあり得ませんから、人間の本性として、失敗します。

家族関係で失敗します。配偶者との関係で失敗します。教会組織の人間関係において失敗します。食べるためのお金を得ること、端的には、職業において失敗します。学校や学歴や、その他、広い意味での教育において失敗します。

日々の生活の中で失敗し、1年365日の中で、何度か失敗します。

そうした、失敗をすることが、人間の本来的な姿である「欠け」のある存在、それに伴う物事の起こりです。

この失敗を、イエス・キリストが救って下さるのです。
失敗する人間だからこそ、そこに、イエス・キリストの執り成しがあるのです。

続きます。

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8:28

唯一のまことの神であられる天の父は(ヨハネ17:3)、ご自身の民を聖別し、主イエス・キリストにあって整え、主イエス・キリストに似るように、日々、その人を変えて下さいます(コリント第二3:18)。

生きて働く神が天の父です。また、御子イエスは、メシア(王の王。キリスト信徒各自は王)として、その人のために執り成します。お二方とも、常に、その人に、働かれる神です。

いずれ、自分が意図的に行ったことも、自分が無意識のうちに行ったことも、偶然起こった出来事も、偶然の巡り合いや、聖書のある聖句の突然の理解なども、すべて、全能の神であられる天の父が、ご自身の作品として、自分に働かれているのだなと、気づく時が来ます。それは、ローマ8:38にあるように「神のご計画に従って召された人々」において、そういう時が来るのです。

神の召し、および、神の選びについては、何度も書いてきましたから、ここでは繰り返しません。それは、尊いことです。



「自分が『神の作品』(エペソ2:10)として、天の父によって毎日造られている。毎日変えられている」。あるいは、「自分は、御子であられるイエス・キリストの執り成しによって、創造主であられる天の父に、いつも、キリストに似るように変えられている」。そういう自覚が持てるようになると、ローマ8:28にある「すべてのことを働かせて益として下さる」ということが、どういうことなのか、よくわかるようになります。

天の父は、「その人において起こるすべて」を用いて、その人を、神の人として変えて下さっていますし、そこに、主イエス・キリストの御名による、天の父の栄光が現れるように、現れるようにと、仕向けて下さっているのです。