失敗は、許容される。(1) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Ted Eytan

 

 

プロテスタント的な考え方の中にいると、クリスチャンは、聖書に基づく生き方をしていく際に、「失敗することは、許されないのではないか?」と考えがちです。
わかりやすい例で言うと、「牧師は、失敗することが許されない」と考える。

これは、どうなのか?

聖書を紐解くと、数々の失敗をした人が出てきます。

バテシェバと姦淫の罪を犯したダビデ。ダビデは殺人の罪も犯しています。ユダ族に属するこのダビデから、イエス・キリストがお生まれになっています。

イスラエルの元となったヤコブは、ずるいやり方によって、エサウから長子の権利を奪い取っています。

カルメル山に火を降らせたものの、悪妻イゼベルの悪意に満ちた言葉に怯えて逃げ去り、預言者返上を願ったエリヤ。

ソロモンにしても、たくさんの箴言を残してはいても、晩年は数千人の異邦人の側女と交渉を持ち、ほぼ確実に、異邦人から来る悪霊の影響を受けています。

モーセも、「私が水を出さなければならないのか!」と怒って、杖を、一度叩けばいいところを、二度、杖で地面を叩きました。この罪によって、彼は、祝福されたカナンの土地に入ることができませんでした。



人間的に見れば、失敗をした、こうした人たち。ダビデの場合など、どうしたらこのような罪が赦されるのだろうか?と、私たち人間からすれば、想像もつかないようなひどい罪を犯しているのに、神である主は、彼を愛されています。それは、詩篇を見れば、よくわかります。

結局のところ、これは、神の選びに、収斂して行きます。

神は、ずる賢いやり方で、エサウから長子の権利を奪ったヤコブを、元々、選ばれていたのです。そうして、ヤコブからイスラエルの十二の部族が生まれ、そこからイスラエル人/ユダヤ人が、神に選ばれた民族して立てられ、そのイスラエル人/ユダヤ人の罪を除くために、ゆくゆくは、御子イエスが地上に遣わされる。そうしたご計画を、元々、お立てになっていたのです。

そうして、イスラエル人/ユダヤ人のメシアである御子イエスを、アブラハムに与えらた「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」というお約束を思い出されて、私たち異邦人の救い主にもして下さいました。これは、神の選びのゆえです。エペソ1:4、第一ペテロ1:2に、神の選びのことが書いてあります。神は、この、ご自身が選んだ民を、イエス・キリストによって、サタンの縛りから解放して下さり、栄光ある新天新地へと、連れ出して下さるのです。壮大な出エジプトが、これから始まるのです。



この、神の選びがあるがゆえに、失敗した人も、主イエス・キリストによって、その失敗がカバーされて、悔改めれば、再び、主イエス・キリストの道を歩んで行くことができるようになるのです。

これは、プロテスタント的な伝統の中では、なかなか、リアリティを持ちにくい考え方です。

プロテスタント一般は、神の選びを、前提としていません。マルチン・ルターは信仰による義を主張しましたが、エペソ1:2、第一ペテロ1:4、その他、神の召しや、旧約聖書全編に現れている神の選びを前提として、信仰の体系を打ち立てることはしませんでした。

カルヴァンについては、保留とさせて下さい。彼の予定説が、小職が聖書を基にして理解している神の選びと、同じものなのかどうか、まだ確認できていません。




人間の失敗ということに戻ると、現実問題、生身で生きている人間は、その人生において、ほぼ確実に、失敗します。人間は、神のように完全ではあり得ませんから、人間の本性として、失敗します。

家族関係で失敗します。配偶者との関係で失敗します。教会組織の人間関係において失敗します。食べるためのお金を得ること、端的には、職業において失敗します。学校や学歴や、その他、広い意味での教育において失敗します。

日々の生活の中で失敗し、1年365日の中で、何度か失敗します。

そうした、失敗をすることが、人間の本来的な姿である「欠け」のある存在、それに伴う物事の起こりです。

この失敗を、イエス・キリストが救って下さるのです。
失敗する人間だからこそ、そこに、イエス・キリストの執り成しがあるのです。

続きます。