三位一体の下で旧約聖書と新約聖書が断絶している理由 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Stanley Zimny

 

三位一体の教会群において、まことに不思議なのは、「自分達が異邦人である」という自覚が、どのように見ても欠落しているということです。まことに不思議です。新約聖書のパウロ書簡にあれほどまでに明確に宣べ伝えられている、私達日本人を含む、ほとんど全ての国民が置かれている立場、異邦人。

これは、そもそもの発端である325年ニカイア公会議や381年コンスタンティノポリス公会議に集まった司教達に、その認識が欠落していた、ということを物語っているように思われます。

エペソ6章霊の戦いを色々な対象に対して行ってくるとわかってくることですが、教会であれ教団であれ会派であれ、その創始者の霊的な特質を受け継ぎます。霊とはそうしたものです。

現代の三位一体の教会群に何らかの霊的な特質があるとすれば -- それは現にあるわけですが。使徒と働きなどの記されている初代教会の霊的な特質と比較対照すれば --  それは三位一体の教義を創始した人々の霊的な特質を受け継いでいます。彼らの霊的な特質。少し英文資料を調べれば彼らの宗教的な背景はわかってくることですが、つまり、パウロがテモテに対して「注意しなさい」と戒めたグノーシス(第一テモテ6:20)。テモテ第一1:4でそれに誘惑されないようにパウロから注意されているギリシャ語ミュートスmuthos、新改訳第三版では「果てしのない空想話」。
すなわちエマネーション(Emanation、流出論)によって宇宙の成り立ち、神の階層構造を説明する新プラトン主義。

それらグノーシスと新プラトン主義の影響を受けていたことが記録から明らかな司教達(bishops)。そうした人たちがニカイア公会議とコンスタンティノポリス公会議に集まって、鳩首協議しながら三位一体という落とし所に落とし込んで行ったのです。

それは、イスラエルの神を知らない人々の「果てしのない空想話」です。旧約聖書をよく読んでいない人々。イスラエルの神から選ばれた民であるユダヤ人/イスラエル人。そこにある「神の選び」。それについて一考だにしない門外漢達による、自分勝手な議論です。

ゆくゆく神学として体系だったものになっていくとはしても、根本に、イスラエルの神による選びがなく、また、自分達が「選ばれた民ユダヤ人/イスラエル人に対して異邦人」であるという自覚がない、まさにグノーシス(神であるソフィア=知恵を崇拝する異教です)、まさに新プラトン主義(流出論Emanationで神としての父、神としての子、そうして聖霊を説明しようとする神秘主義です)。そうした、本来的な意味での異教徒達による人工的な偶像。すなわち、父と子と聖霊とが三つにして一つという、およそ、パウロから見たら逆立ちして目から火が吹き出しそうな異教的な神理解。

そうしたものの霊的な特質を代々受け継いで千数百年。そこにあるのが現代の三位一体のキリスト教会群です。すなわちカトリック教会、すなわち五百年前から始まったプロテスタント教会。すなわち20世紀初頭アズサストリートリバイバルから始まったペンテコステ教会。それらの偶像を崇拝する教会群。

その霊的な特質が、「自分達は異邦人である」と、自覚させないのです。
イスラエルの神に選ばれた民であるユダヤ人/イスラエル人をスルーして、自分達だけがイエス・キリストの救いにあずかる…といった妄想を蔓延させてきているのです。千六百年間も。

これを、イスラエルの神が、現代において、一掃されようとしているのです。

そうして、イエス・キリストが宣べ伝えた本当の福音。
異邦人に遣わされた使徒であるパウロが宣教師た本当のキリスト教。
初代教会の面々に下ったのと全く同じ聖霊、すなわち、天の父から御子の名によって遣わされる神の霊。その聖霊が、そうした、三位一体のキリスト教会群の外にいる人々に下るのです。

従来の神学的な理解では、旧約聖書と新約聖書の断絶が問題意識を持って見られることがあるようです。その断絶は、325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議に集まった司教達がすでに持っていた聖書理解の欠け。すなわち旧約聖書の読み込み不足(当時、ギリシャ語による旧約聖書翻訳セプトゥアギンタは存在していました。一方で旧約聖書は大部ですから写本が各司教達の手元に存在していなかった可能性がかなりあると考えています)。イスラエルの神を知らない人々。聖霊がいない人々。

 

そうした人々によって、三位一体の教義が確立し、三位一体にあらずば異端という恐怖政治的な支配がキリスト教会を覆ってしまったがために、霊的に未熟な、霊的に意味のない宗教活動が、以来、千六百年に渡って、続けられてきているのです。実に嘆かわしい。実にこの間に捧げられた心ある方々の、無駄な時間に、想いを致します。