イエス・キリストを本当に信じる人はイエス・キリストと同じ経験をする | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ヨハネの福音書17章には、主イエス・キリストが弟子たちに、ご自身の「栄光」を与えたというお言葉があります。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
ヨハネ17:22

弟子に与えられたお言葉は、後に、イエス・キリストを本当に信じる人たちに与えられたお言葉でもありますから、本当に、本当の本当に、イエス・キリストを信じている人ならば、イエス・キリストが与えて下さった「栄光」にあずかります。



これは、どういう栄光か?ヨハネ17章と第一ペテロ1章に手がかりがあります。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
ヨハネ17:1

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

ヨハネ17:4-5

わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
ヨハネ17:10

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
ヨハネ17:24

これは、父があって子であるイエスの、子としての栄光、子であることの栄光。
そして、言葉であられるイエス(ヨハネ福音書1章冒頭)の言葉であることとしての栄光。
天地創造に言葉として関わったイエスとしての栄光。
そうして、彼自身に関する預言=言葉を成就するために、肉となって地に下り、十字架に架けられたことの栄光。
また、十字架にかかった後三日目によみがえったことの栄光。
父が子を愛しておられることの栄光。
その愛のゆえに、絶大なる神の御業を現して、天の父が子をよみがえらせた、そこに全てのサタンを滅ぼし尽くす圧倒的な勝利があることの栄光。


そうした複合的、重層的な栄光。栄光群とも呼べるもの。
それを弟子たちに、ひいては、主イエス・キリストを本当の本当に本気で命をかけて信じることになる本当のキリスト信徒たちに、与えたのです。

従って、本当の本当にイエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストと同じことをしますし、十字架に架けられるような経験をします。それがローマ6章にある「キリストの死にあずかるバプテスマ」です。新約聖書の書簡の各所に書かれている、古い人が死んで、新しい人が、主イエスと共によみがえる。その古い人が死ぬ、磔にされる経験です。

この経験をした者のみが、主イエスの言う「狭い門」を潜って、永遠の命にあずかります。

自分の十字架を背負って私についてこない者は、私にふさわしくありませんと、主イエス・キリストがおっしゃっているのは、そのことです。



第一ペテロ1章で、その「栄光」が、イエス・キリストと同様の苦難がまず前提にあるものであることがわかります。つまり、キリストと同じ苦難を経ることで、キリストと同じ栄光が与えられるのです。その栄光を経験するのです。

彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
第一ペテロ1:11