祈りや礼拝の技法は、初代教会が設立された時(ペテロやパウロが活躍していた時代)以来、聖書に基づき、聖霊に導かれ、当時の使徒が主イエスから、あるいは、天の父から教えを受けて、展開してきたものと思われます。
主イエスの信仰の母体となっているユダヤ教においては、モーセが主から受けて、厳密な規定の元に幕屋を設けて、その中に、聖所と至聖所があり、そこに祭司ないし大祭司が入って、神と向き合うという形の礼拝の様式がありました。大祭司が至聖所に入るのは、年に1回でした。犠牲の血を携えて至聖所に入り、イスラエルの民のための贖罪(罪が赦されること)を祈り、主のみこころを語っていただきました。
主イエス・キリストが現れて、十字架にかけられ、三日目によみがえって、新しい契約の時代に入ってからは、この聖所と至聖所を持つ幕屋の礼拝様式は、古い契約に属する古いものとなりました(ヘブル8:13)。
新しい契約では、神の教えの内容はそれぞれの人の心に書かれます。
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(ヘブル8:10)
これは、聖霊がそれぞれの人の中に宿り、聖霊が主イエス・キリストにある戒めをそれぞれの人に直に教えるということを物語っています。聖霊は、主イエスが十字架に付けられるにあたって天の父に祈り願ったものであり、主イエスがこの地の上にいない状況になっても(天に上げられた後になっても)、主イエスの代わりに、信じる人々に働いて下さる神の霊です。そもそもが霊であられる天の父と、御子イエス・キリストとの関係に招き入れて下さる、神から来た霊です。
この聖霊が働いて下さることによって、霊である聖書のみことばが霊としての意味を生き生きと開示してくれるようになり、主イエスの思いがわかるようになり、天の父のみこころがわかるようになります。それが上の聖句で言われている「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということです。
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この聖霊が生き生きと働く信徒が「神の神殿」であると、パウロは書いています。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
(第一コリント3:16-17)
ここの文脈では、一人ひとりの信徒は、聖霊をいただいているため、肉によって歩む存在ではないという大前提が確認された後で、信徒は、イエス・キリストという土台の上に建て上げられた建物だという比喩が説明されます。
建物だとは、神の霊が宿る器だという意味です。この肉体が、主イエス・キリストを信じる信仰によって、根本的に変えられて、聖霊が宿るようになり、その聖霊が生き生きと働く器、そのような場所になるということです。その状況を「建物」の比喩で言っています。
そうして、主イエスの名によって天の父から送られた神の霊が宿っているのですから、その建物は「神の神殿」であるという論理です。聖霊の位置付けについては、ヨハネの福音書14章、15章、16章において、主イエスご自身が色々な表現で語っていますから、確認するとよいでしょう。この世の文書を理解する構えで臨んでも理解しにくい書き方がしてありますが、それは、天の父と御子イエスと聖霊という三つの神のあり方が元々神に属する事柄であり、これが人間に属する事柄ではないために、人間的なアプローチではなかなか理解しにくいという背景があるからです。パウロは、御霊のことは御霊によって理解するという意味のことを書いていますが、そのようなものなのでしょう。
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そのようにして、主イエスを信じる人は、聖霊が生き生きと働く神の神殿です。
その神の神殿が、旧約時代の幕屋とも重なってくるのです。
Wikipediaのこのページに、幕屋の模型の写真がありますので、ちょっと見て下さい。これが、モーセが神から細かく規定を受けて作った幕屋(聖所と至聖所)です。
また、こちらには、幕屋を含む大庭(Outer court)の全体像があります。
ソロモンが最初の神殿を築くまでは、イスラエルの民は、この幕屋とともに移動し、宿営地にこの幕屋を設営し、ここで祭司や大祭司が礼拝を捧げていました。
この幕屋が、主イエス・キリスト以降は、聖霊が宿る神殿である私たち自身でもある、という図式があります。
この図式については、ヘブル書の8章、9章、10章に書いてあります。
そうしてパウロが記しているのは、私たちが、主イエスの血を受けて清められて聖なる者となり、大祭司であられる主イエス・キリストともに「まことの聖所」に入ることができるということです。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
(ヘブル10:19)
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このヘブル書に記されている幕屋での礼拝を、新しい契約の時代の礼拝の技法として再現した人が近年いらっしゃったようです。英語で"Tabernacle prayer"として検索すると、同じ礼拝技法に関したページや動画が複数出てきます。
Praying through the Tabernacle
Learn How to Pray Tabernacle Prayer with Dr. David Yonggi Cho
確認できたわけではありませんが、これらを総合すると、おそらくは韓国のヨイド純福音教会創設者のチョー・ヨンギ牧師が、聖書の幕屋、聖所、至聖所、祭司、大祭司、主イエスに関するみことばに基づき、神からの啓示により、受けた祈りの技法なのではないかと思います。それが同牧師から様々な国の教会や教職者や信徒に伝わり、現在は世界のあちこちで行われているということではないかと思います。
私自身は、この祈りの技法について、以前所属していた教会の日曜礼拝に初めて参加した時に主任牧師から教わり、家に戻ってから教えの通りに行ってみたところ、大庭から聖所へ、聖所から至聖所へ入って、至聖所では天の父が現れて下さって、その圧倒的な存在に驚いたということがありました。それ以来、ある時期には頻繁にこの祈りの技法を行って、天の父と交わり、お言葉をいただき、ある時期にはほとんどできずに、別な祈り方によって聖霊や主イエスと交わり、ということをしてきました。
この祈りは、1時間ぐらいかかりますから、静かな部屋が必要です。昨年は2月から始まって、シンガポールやボストンを移動し、途中しばらく東京にいて、それからまたブダペストやロンドンに滞在していたので、この幕屋の祈りがほとんどできませんでした。多くの場合は、ドミトリーと呼ばれるベッドが8〜12程度ある大部屋に宿泊していたからです。実は今年の1月末に東京に戻ってきてからも、居場所という意味では私の旅行は終わっておらず、浅草のシェアハウスのドミトリーで寝起きしてきました。なのでこの祈りができませんでした。
先週から個室に移り、好きな時間にいつでも落ち着いた祈りができるようになりましたので(ハレルヤ!主に感謝します!)、本日、久々にこの祈りの技法に取り組んだところです。
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私たちには三つの神があり、それぞれの神にはそれぞれの御働きがあります。
主イエスのお言葉をよく読むと、御子であるイエスを通じて、天の父への礼拝が求められているということがよく理解できます。
以下では、イエス様を通じて、天の父のところに行けるということが教えられています。
イエス様ご自身は、十字架でご自身を犠牲として捧げられたほむべきお方であり、王の王、主の主であられます。その方が天の父を念頭に置いておられます。
御子イエスは、天の父を尊んでおられます。
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネ14:5-6)
御子である主イエス・キリストを通じてのみ、天の父に近づくことができます。
以下では、主イエスが、天の父を「まことの神」と表現しています。
御子から見れば、御父がまことの神なのです。その、御子の目線をよく理解しないといけません。
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:1-3)
私は実は、礼拝すべきは、御子である主イエスなのか、天の父なのか、よくわからない時期がずっと続いていました。所属したことがある3つの教会においても、そこのところはあいまいなまま、礼拝がなされていました。明確になる場合には、主イエス・キリストのみ礼拝していれば良い、という風に解釈できる姿勢がありました。
礼拝対象としての主イエスは、もちろん、ほむべきお方であり、王の王、主の主であられます。
主イエス・キリストをおいて他に道はなく、真理もなく、永遠のいのちもありません。
けれども、この主イエスは、天の父を「まことの神」と呼んでおられます。
なお、このことは、いわゆる三位一体の三つの神が一つとして存在していることに疑いを挟むのではなく、それぞれの神の御働きが違うので、その違いを理解した上で、礼拝すべきだということを申している訳です。
主イエスは、天の父が、まことの礼拝者を求めておられるともおっしゃっています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ4:23-24)
御子が御父の礼拝について語っておられるのです。御子から見れば、礼拝がなされるべき神は、天の父です。
また、ヘブル書では、主イエスが大祭司であると書いています。大祭司は、旧約時代の礼拝がなされる聖なる場所、幕屋の中の至聖所に年に1度入って、主と直接交わって贖罪の祈りなどを捧げた聖職者です。礼拝をする役割の人です。礼拝する神は大祭司の先にいます。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。
以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、
人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。
(ヘブル7:24-8:2)
従って、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父に近づいて礼拝するという理解ができます。この時、礼拝する私たちは、聖霊に満たされて、主イエスの血によって完全に聖なる者とされて、王である祭司として天の父の御前に進み出ます。
それを、現実的に取り組むことができる祈りの技法として組み立てたものが、幕屋の祈りな訳です。
推論として、他の祈りの技法によって、大祭司であられる主イエスを通じて、天の父の御前に近づくことはできると考えられます。例えば、聖霊に満たされて深い臨在に浸され、その中で、主イエスが現れ、続いて、天の父が現れるという礼拝のあり方は、あると思います。しかし、そのような祈りの技法がどこに行けば教えてもらえるのか…。(なお、こちらの投稿で記したように、みことばを守るということを通じて、御子イエスと親密な関係を結び、その延長で、みことばで約束されているように、御父にも来ていただいて親密に交わる、ということはできます。これは礼拝というよりは、いつも一緒にいるタイプの親密な関係づくりです。)
パウロがヘブル書8章〜10章で、旧約時代の幕屋や聖所、至聖所(パウロが書くまことの聖所)を引き合いに出し、主イエスを大祭司であると何度も書いて伝えようとしたのは、おそらくは、彼自身が旧約時代の幕屋における至聖所、主イエス・キリストの復活以降は霊的な存在としてあるまことの聖所に入って天の父と交わるということを、日頃から行っていたからではないかと思われます。この箇所におけるパウロの書き方は、すべてを理解した上で、実践によってそれを血肉に変えている人でなければ得られないような説得力に満ちています。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
(ヘブル10:19-20)
彼はイエスに会うまではパリサイ派の熱心な弟子でありましたから、ユダヤ教の細部に非常に詳しく、幕屋に関する詳しい規定や聖所、至聖所での礼拝に関する規定をすべて知り抜いていたはずです。その彼が、そうした厳密な知識に基づいて、新たらしい時代の契約の下における、天のまことの聖所における礼拝について述べているのです。これは尊重すべきでしょう。
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至聖所でまみえる天の父は、雲に包まれた光のような存在感を持つ神であり、それはちょうど、マタイ17章において、イエス様の御姿が変容した際に現れなさった天の父のようです。
いつも同じような経験が続くという訳ではなく、圧倒的な存在にひれ伏すような気持ちになる時もあれば、ひたすら暖かい愛に包まれて時間だけが流れていく時もあります。お言葉をいただく時もあれば、無言で天の父の臨在の中に浸されているだけの時もあります。
このような形で、大祭司であられる尊い御子、主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝する中でわかってくるのは、天の父は交わりを求めている神であるということです。
主イエス・キリストを礼拝することによっても、天の父は主イエスとともにおられますから、天の父を礼拝することにつながります。それはそれですばらしいことです。ハレルヤ!
御子の栄光があり、御父の栄光があります。ハレルヤ!
御父もまた、礼拝を求めておられます。それは上掲のヨハネ福音書に書かれている通りです。
ちょうど、イエス様が弟子から祈り方を教えて下さいと言われて、主の祈りをお教えになった、その前半部分においては、天の父のことが祈られています。そのように、天の父への礼拝が教えられています。御子イエスを通じて、天の父に思いを向けることも、大切なことだと思います。