Derek Bruff
新約聖書には、主イエスを愛する者は、主イエスの言葉を守り、それによって天の父からも愛され、天の父と御子イエスとが一緒に来て、その人とともに住むようになると書いてあります。つまり、主イエスの言葉を守れば、父と子が来てくださって、一緒の時間を過ごすことができるようになります。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネの福音書14:23)
この「守る」とは、原義を調べてみると、「みことばを見張る」ないし「みことばをガードする」といった意味合いです。多くの英訳聖書では"keep"という訳語が使われています。
これは、イエス様が、みことばが種であり、それが地の上に蒔かれて身を結ぶようになるというたとえの中でおっしゃった、「敵が来てみことばが実を結ばないように邪魔をする」、そうした敵の活動から、みことばを守るという意味だと解釈できます。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
(マタイの福音書13:18-19)
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
(マタイの福音書13:24-26)
もちろん、この「守る」には「約束を守る」という表現の「イエス様のみことばに忠実に従う」というニュアンスもあるのですが(英訳聖書で"obey"という動詞を使っている訳もあります)、それと同時に「みことばが実を結ぶように見張る」「みことばが実を結ばないように邪魔をしにくる敵からみことばをガードする」という意味もある、ということは頭に入れておいて良いと思います。
それが、主イエスを愛するということにもなっていくわけです。
というのも、この世に働いているこの世の君サタンの思惑をよく理解してみれば、主イエスを愛する者は、サタンによるみことばが実を結ばないようにする行動のありとあらゆるものに対して、主イエスの代わりに、この地の上で何か意味あることをすべきだからです。
同じような意味で、みことばを守る(見張る、ガードする)ということを、旧約の主=Yahwehも行なっています。
すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。
エレミヤ書 1:12
神は、人間に対しては、言葉として現れます。その人間に告げられた言葉を、神である主は、実現するように見張っているのです。
これは、聖書全巻に記されている神の言葉も、同じように、神である主が見張っていると考えてよいでしょう。
そうして、それは、上で記してきた、イエス様が私たちに求めておられる、「みことばを守る」という行為=みことばが成就するように見張る、ないし、ガードする、ということにもつながっていきます。
つまり、神である主が行なっていることと同じことが、私たち信じる者の群れにも求められている。そうして、それを行えば、天の父が愛して下さり、御子イエスと天の父が、私たちのところに来て下さって、一緒に住んで下さる。そういうことなのです。
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御子イエスを愛することは、みことばを愛することでもある。このことは、私の場合ですが、頭ではわかりすぎるぐらい分かっていながらも、その実、霊的な理解が欠落していた、あるいは、信仰によって理解がされてはいませんでした。
ようやく理解の素地ができたのは、基本的なみことばのセットを毎朝口ずさむことを続けて、40日程度が経ち、古い思考の大元を洗い流し、新しい思考により、みことばをそのままストレートに受け入れることができるようになってからです。
そのようにしてみことばを受け止める足場ができると、私の場合は、過去にできていなかった数々の根本的な悔い改めに導かれました。「キリストの死にあずかるバプテスマ」を経験することにもなりました。
その後は、聖書に書いてある通り、新しい人間としてキリストともによみがえって、その後に、「神の子ども」であることを実感できるようになりました。そうして、祈りの中で、御子イエスを通じて、天の父とも対話ができるようになりました。
みことばがわかるようになると、みことばの言っている霊的な意味がリアルにストレートに理解できるようになります。これは、理知的な理解や理性的な理解とはまた違った理解の方法です。常にフレッシュな側面が、一つひとつのみことばにあります。みことばは霊でもあるとイエス様がおっしゃいましたが、その霊である側面が、生き生きと働いています。
霊であるみことばが自分の内にあり、信仰がそのすぐそばにあって、信じられる実体があります。
そうしたみことばを、口に出していくと、そこに、霊としての主がいらっしゃり、聖霊がいらっしゃり、そうして、聖霊は子として下さる御霊でもあられるので、子どもの立場となって、天の父とやり取りができる。そういう流れがあります。
すべては、聖書に書かれている通りに、イエス様を愛するがゆえに、みことばを守る。イコール、みことばを見張る立場、みことばをガードする立場に立つ。それが結局、神と同じことをしていることになる。それを好感なさって、天の父が、近くに来て下さる。そうして、話ができるようになる。そういう連関があります。
霊としてのみことばと生き生きとした関係を構築するには、他にもやり方があるのだと思います。祈り求めていけば、やり方は、与えられるでしょう。
私も、みことばを毎日唱えることで、古い思考を洗い流していく、というやり方が与えられたのは、今年の初め頃から祈り始めてから3ヶ月ほど経ってからでした。この祈りは無駄になっていなかったと思います。神が聞かれたのでしょう。
みことばと新しい関係ができてからは、神が私の様々な事柄に関係して下さることを実感できることが、実に、増えました。ハレルヤ。感謝なことです。
経済の状況、仕事の状況においても、日々、進捗があり、希望が生まれてきています。
これまでは、わからないことは、聖霊に聞いていました。
現在は、御子イエスに聞くことが多々あります。
例えば、祈り方について、イエス様に尋ねた時には、「子どもとして祈ってみれば良い」ということを教えられました。主イエスを信じる信仰によって、私たちは神の子どもとなっています。子どもの一人として、天の父にストレートに求めるのです。
天の父が自分の本当の父親としてそばに存在しているということほど、心強いことはありません。それもこれも、みな、御子イエスが十字架について私たちの身代わりに命を差し出して下さったおかげです。
主イエスは、主イエスが分からなければ父がわからないということをおっしゃっています。それは、みことばがわかるようになると、父がわかるようになるということでもあります。みことばは霊であり、命です。そうして、御子イエスでもあります。
みことばとして身近にあるイエス・キリストを通じて、われわれは、天の父のもとに行けるのです。天の父の子どもとなることができるのです。