日曜投稿:神と仲良くなる(1)- 誰もがアブラハムに連なる群れの一員 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Marco Verch Professional Photographer and Speaker 

 

神は、神の形に似せて、人を造られたということが、創世記の冒頭に書いてあります。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。
(創世記1:26)

どのように似ているのか?
・言葉を発する。信仰をもって言葉を発する。それが形になる。
・天の父と御子イエスが愛し合っているように、お互いに愛し合う。
・神の栄光に連なる(神の栄光の一部となる)。

こういうところかと思います。


造られた者でありながら、神に似た者でもあるというところが、人間に与えられた非常にユニークな立場です。

神の形に似た人をお造りになり、その人が地の上に満ちた暁に、神は何を望まれていたのか。それは、天地万物をお造りになさった神が、人によってほめたたえられること。それに尽きると思います。お造りになった方が造られた者たちによってほめたたえられ、賛美のうちに一つになる。そうして喜びが満ちる。私たちは、そういう状況に至る途上にあると考えられます。

主イエス・キリストの言葉には、何カ所も、「父の栄光がほめたたえられるように」ということが書いてあります。繰り返し出てきますから、それだけ御子イエスは、このことを重要視していたということがわかります。
聖書の最終巻である黙示録も、全体を概観してみると、最後的には、王の王、主の主であられる主イエス・キリストを通じて、父なる神の栄光がほめたたえられることが大団円である、という風に読めます。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
(黙示録21:23)

神の栄光とは父なる神の栄光。都のあかりである小羊とは御子である主イエス・キリスト。主イエス・キリストを通じてのみ、父なる神が礼拝されます。

よく言われるように、聖書は主イエス・キリストを証ししています。そうして、その主イエス・キリストは父なる神とともにおられ、父なる神の栄光をほめたたえています。私たちは、御子イエス・キリストを通じてのみ、天の父に赴くことができ、御子イエス・キリストを通じて、天の父の栄光をほめたたえます。

御子イエスは、弟子たちから「どのようにして祈ればよいのですか?」と問われて、天の父に祈る祈り方を教えられました。

また、これからは、「わたしの名によって祈ればよい」という新しい祈り方を教えられました。それは、父に対して祈るときに、子であるイエスの名によって祈ればよい、ということです。天の父が祈りを聞いて下さるのは、愛する御子イエスの名によって祈る人々の祈りを聞いて下さるのです。

(「イエス」という名前のヘブライ語原語Yeshuaには「Yahwehは救い主」という意味があるそうです。そのため「イエス」という名を口にする時に、常に「Yahwehは救い主」と賛美している形になります。これは、旧約の時代には十戒によって禁じられていた「みだりに神の名を口にすること」、つまり、Yahwehという名すら口にすることが禁じられていた状況を、新しい形で解放する、新しいタイプの神の賛美の仕方であり、新しいタイプの祈り方であった、ということになります)

それは、イエス・キリストへの信仰を通じてアブラハムの子孫になっている人々を、天の父が特別に扱われるからです。

アブラハムとの契約のゆえに。ヘブライ文字でYHWHと書き記される、日本の旧約聖書(新改訳)では太文字の「主」と訳されている、ヤーウェともジェホバとも訳される、アブラハムやモーセやダビデやエリヤに現れた神。この神を信じて、愛して、その教えを守る人々を、神は、特別に祝福されます。
イエス・キリスト以前は、ユダヤの民のためだけの神でしたが、イエス・キリストの十字架と復活以降は、イエスを「主」(キュリオス)であると告白し、その復活を信じる人々をも、神の子どもとして下さる、新しい契約を授けられました。なお、イエスを主であると告白することは、聖霊によってのみ可能です。



イエス・キリストの言葉を繰り返し読むと、特に、ヨハネの福音書のイエスが十字架にかけられる前の夜のお言葉を読むと、父をどれほど愛されていたかがよくわかります。

以下は、それをよく物語る節です。次のことが書かれています。
・信じる者の群れは主イエスに留まるべきこと。
・それはイコール、主イエスのみことばに留まることでもある。
・信じる者の群れが、主イエスに留まり、みことばに留まって実を結ぶことにより、天の父が栄光を受けられる。
・天の父は御子イエスを愛している。
・御子イエスは信じる者の群れを愛している。
・御子イエスは、天の父を愛するがゆえに、天の父の戒めを守ると言明。(それがゆえに、十字架に付けられることもお受けになった)
・御子イエスを愛する者は、御子が父の戒めを守っているのと同様に、御子イエスの戒めを守る。
・その戒めとは、信じる者が互いに愛し合うこと。

ヨハネの福音書15章7〜12節
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


誤解を恐れずに単純化して言えば、この数節では、父と子の愛の関係にクリスチャンの群れも組み入れられて一つになること。それが説明されていると思います。
この決定的な事柄の条件として、互いに愛し合うこと、が示されていることは重要です。わたし自身もこのことに最近、目が見開かされました。



神は、私たちを、主イエス・キリストを信じる者の「群れ」として見ておられます。個々の一人ひとりを愛しておられるのはもちろんのことですが、それは、アブラハムの契約に連なる子孫の一人としてです。

というのも、私たちは、いずれは「集められる」からです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

(イザヤ書43:4-7)

神の祝福に関する記述が聖書にある場合、ほぼすべてにおいて、複数形としてのわれわれがその祝福の対象になっています。この教会ブログは読者対象として、教会に所属していないクリスチャン、教会に行くことができないクリスチャンを想定しており、そういう方々のためになるようなメッセージを心がけています。しかし、今は、教会に行っていないとしても、いずれは、多くの信徒とともに「集められる」のです。このことは忘れてはなりません。また、それがゆえに、特定の教会や会派を批判したり、特定の信徒を非難したりした行為は、主イエスの名によって悔い改められるべきです。

ヨハネ第一の手紙には、兄弟を愛することがいかに重要であるか、それが、神を愛していることとイコールである、ということが明確に書かれています。
主イエスもまた、ヨハネの福音書で、まさにそのことをストレートに「新しい戒め」として提示しています。

エペソの冒頭によれば、私たちは、天地の基の置かれる前からすでに選ばれています。この選びも、単独のわたしやあなたや彼、彼女ではなく、複数形としての「私たち」です。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(エペソ人への手紙1:3)

この「私たち」は、福音書で主イエスが何度も口にしていた複数形の「あなたがた」です。つまり、信じる者の群れ、エクレーシア、平たい日本語では教会と訳されている言葉。その実、信じる者の群れという見えない結びつき。愛し合う者の見えないつながり、です。

この「私たち」=「あなたがた」が、主イエスを信じる信仰によって、天の父の「子ども」(複数形)となるのです。
従って、教会に所属していなかったり、教会に行くことができないクリスチャンも、複数形としての「神の子ども」の一人であり、自分の目に見えないところに無数の同じ「神の子ども」がいるということを、常に意識して生きるべきです。また、前回書いたように、そうした人たちのためにも祈るべきです。それが、主イエスの互いに愛し合いなさいという戒めを守ることにもつながっていきます。

そうしてそこからは、特定の教会や特定のクリスチャンを非難する言動は出てこないと思います。わたしもそこの所については、随分と悔い改めました。

(続く)