気づき:「あなたがた」として祈る | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Rodney Campbell

 

祈りがかなえられるようになるために、ということを、ここ半年ほど課題として持っていて、それに取り組んできています。

みことばを毎日、口ずさんで、自分自身をみことばによって洗うということを40日以上続けてきて、自分がこれまで気づかなかった、様々な、神の言葉から外れていること=罪に気づき、悔い改めをしてきました。一番最後に気付かされた、もっとも大きな的外れ=罪は、イエス様が、もっとも大切な戒めとしてわれわれに与えて下さった「互いに愛し合いなさい」を、ほとんど無視して生きてきたということです。これが自覚できた時には愕然としました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)

イエス様は、別な箇所で、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように」(マタイ28:20)とおっしゃっていますから、私たちが守るべきイエス様の命令には例外はなく、人を赦すこと、人を裁かないこと、心を尽くして主を愛すること、隣人を愛することなどを守らなければなりません。その中に、「互いに愛し合う」が、当然ですが、含まれるわけです。ここを見落としていた、という、素朴な事実に愕然とし、あわてて悔い改めを始めました。また、過去の言動をチェックして、この戒めに反するものについては、必要な処置をしたりしました。

これが一番最後の悔い改めかな、というところです。これがわかったのが2週間前ぐらいでしょうか。ここを悔い改めて、主に向き合うと、風通しがよいと言いますか、さっぱりしている感じを受けます。感謝です。ハレルヤ!



先ほど、祈っていて、「あなたがた」として祈ってみたら、ということに気づかされました。この「あなたがた」とは、ヨハネの福音書14:20にある「あなたがた」です。

その日には、私が父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
(ヨハネ14:20)

この前後で、イエス様は、何でも求めなさい、そうすれば与えられますよ、ということを何度かおっしゃっています。細かく見れば、1)何でも天の父に求めれば、それが主イエスの名によって与えられる、ということと、2)何でも主イエスの名によって求めれば、イエス様がそれをして下さるということ、この2種類のことをおっしゃっています。以下のみことばにある通りです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
(ヨハネ16:23)

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
(ヨハネ14:13)

ここのところについては、以前にも引用しましたが、愛子ホーマン博士の以下の動画が大変に参考になります。

Dr. あいこ「要求・命令する祈りと頼む祈り」

何を天の父に求めるべきか。何を御子イエスに求めるべきか。そこの区別をよく理解するのに、上の動画は役立ちます。

基本的には、天の父に対して求める祈りをします。

二つの聖句に含まれている「わたしの名」については、最近判明したことでまだ書かなければならないことがありますが、まずは、パウロ書簡にあるように、「主イエスの名によって」祈ることとしましょう。

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
(コロサイ3:17)



この投稿の本題である「あなたがた」について、述べていきます。

まず、キリストは教会に与えられているということがあります。ここで言う教会は、ギリシア語新約聖書原典で使われている「エクレーシア」という言葉が本来持っている意味、「信じる人の集まり」ということです。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
(エペソ1:22)

このエクレーシアには、各地にある個別の教会(単立の教会も、教団や会派を成している教会も)も含まれますし、2〜3人で集う信徒の集まりもありますし、世界規模ですべての信徒を一つの括りとしてみる、世界大の教会という捉え方も含まれてきます。

父なる神から見れば、地上にいる、主イエス・キリストを信じている信徒は、どこそこ教会に所属しているかどうかはあまり関係なく、どの信徒も、ひとしなみに、主イエス・キリストを信じてみことばに忠実に生きている信徒です。こうした信徒がふたり以上集まると、それがエクレーシアです。固有名詞付きの教会に所属している信徒のエクレーシアもあれば、天の父から見れば、信じる者の集まりとして機能している固有名詞のない教会のエクレーシアもある、と信じています。

この教会ブログは、教会に行けない人のための教会ということを早くからうたっています。現在、今泉が大きな軌道修正を図っているところですが、教会に行けない人に向けて、目に見えない教会の機能を提供する何かであり続けることは、やっていきたいと考えています。

イエス様のお言葉に戻ると、「あなたがた」とあるのは、信じる者の集まり、エクレーシアです。個別の教会の信徒の集まりのこともあれば、離れていても心の結びつきによって、信徒の集まりとして機能している集団ということもあるでしょう。このブログの立場では、後者です。

イエス・キリストは、信徒の集まりに与えられています。
なので、一人で祈ることには、十分な意味があるとしても、信徒の集まりとして祈ることには、もっと意味があるのではないかと思われます。

また、「わたしの名」、言い換えれば、主イエスの名も、教会=信徒の集まりに与えられている、という捉え方もできます。以下のマタイ18章のみことばも、そのことを言っているように思えます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:20)

以下の「その日」に、諸々のことを理解する「あなたがた」も、そうした、複数の信徒の集まりであると考えられます。ギリシャ語でエクレーシア。日本語で教会と言うと、どうしても建物がある教会をイメージしてしまいますが、その中身は、信じる人の集まりです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
(ヨハネ16:23)

そこで、祈りがかなえられない課題ということに戻ると、祈るときに、自分と同じ課題を抱えている兄弟姉妹のためにも祈る、ということをやってみてはどうか、というのが、今日の気づきです。

例えば、「これと同じ課題を抱えている兄弟姉妹のためにも、主イエスの名によって祈ります」という祈り方。あるいは「私がこのように祈っている事柄を、多くの兄弟姉妹も悩んで祈っていることと思います。それらの兄弟姉妹の祈りと合わせて、主イエスの名によって、天の父に感謝して、お祈りします。どうか、この祈りをかなえてください」という祈り方。
そのようにして、祈るときに、常に同じ課題を抱えている兄弟姉妹のことも考え合せた祈りの内容として、主イエスの名によって祈るのです。そうすれば、以下のみことばにも合致した祈りとなり、かなえていただけるようになるのではないかと思うのです。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
(マタイ18:19)

現在のように、インターネットで多数の聖書の信仰に関する情報が共有されており、現実にネットで教会として機能しているところも多数存在している時代、天の父から見れば信徒の集まりとして見える、物理的には一つの場所に集まらないけれども、心の上では信じる者の集まりとして機能しているエクレーシアがあってもよいと考えます。初代教会の時代は、物理的な教会が地理的には遠く離れた場所に点在していました。エルサレム、アンテオケ、エペソ、コリント、ガラテヤ、コロサイ…。これらは通例、書簡によって結びついていました。それを考えれば、インターネットの上で、結びついている信徒の群というのが、あってもよいわけです。天から見れば、同じように見えるのではないかと。

 

ということで、ハレルヤ!