このサイトに来られる方は、何らかの形で、イエス・キリストによる救いを知っている方なのだと思います。その救いがどういうものなのか、知りたい、ということで、読みに来られているのだと思います。
この教会が他と違うところは、メッセージをお渡ししているわたくし今泉自身が、色々のことを現在進行形で体験しながら、発展途上であることを打ち明けながら、経験してわかったことをお伝えしているということです。
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生きにくい人のことを思います。現在の世の中で、色々な苦しみを抱えている人のことを思います。ご存知のように、自殺を選ぶ人が少なくありません。自殺に至らないまでも、絶望でいっぱいになっている人がたくさんいると思います。
そこから、占いに行ったり、スピリチュアルに行ったり、ということになることもあると思います。でも、それがウソであると後から気づく…。では、イエス・キリストの救いとはどういうものなのか?ということで、このようなブログを確かめに来られる。そういうことだと思います。
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経験して、言えることは、生きにくいことは、神を知らないことから来ます。
自殺に至る苦しみも、神を知らないことから来ます。
絶望も、神を知らないことから来ます。
神を知れば、自分も変わり、毎日も変化し、自分を取り巻く状況も変わっていきます。神は、まごうことなき、天地万物の造り主であられます。神を知る人の祈りに、応えないわけがありません。神は人に神の言葉を与えて道を整えられます。神と神の言葉とは、その人を取り囲む問題や苦しみを、その原因を、すべて刷新することができる全能の力を持っています。無から天地の自然や人間を造り出した方ですから。
学校では教えられませんが、聖書では、私たち一人ひとりも、神によって造られたと書いてあります。胎児の時から、神は私たちを育んで見ておられます。これは真理です。神が天地万物を造った方なら、私たち一人ひとりを造らないわけがありましょうか?以下の詩篇の数節にある通りです。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
詩篇 139篇13~16節
神のことを私たちの多くが知らないのは、世の中の成り立ちが、神のことを知らせないようにする諸々の働きによって、そうした意図によって、出来上がっているからで、それについては、長い説明が必要です。しかし、短く言えば、聖書の最初の巻である創世記の冒頭に登場する、蛇の形をした、神の敵であるサタンが、最初の人間アダムとエバを騙し、この地の上をサタンの思惑によって染め上げてしまいました。そのことにより、神のことが、よく理解されない世の中になった。聖書の神が最初に現れたユダヤ人社会においても、それ以外のいわゆる異邦人の社会においても。
いずれにしても、現実の生きにくさは、神を知らないことから来ており、その神のことを知らない世の中の成り立ちは、神の敵である存在の思惑から来ている。それが聖書的な世界観です。
神のことを知らない、ということは、聖書の教えによれば、神の言葉に聞き従わない、ということでもあります。旧約聖書には、神の言葉に聞き従うケースと、神の言葉に聞き従わないケースとが、際立ったコントラストをなして多数登場します。神を知っている人たちは、神の言葉に聞き従い、その結果として、神の守りの中に入ります。
神を知らない人たちは、神の言葉に聞き従わず、それによって、”神の敵”の言うことを聞いている格好になって、神が守ることのできない領域に入っていく。そこには多くの苦しみがある。そういう図式があります。
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そういう状況で、神のことをわかりやすく知らせるために、約2000年前にこの世の中に登場したのが、イエスという名前を与えられたお方です。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
マタイの福音書 1章21節
イエスという名前は、彼が属していたユダヤ人社会のヘブライ語では「イエシュア」という音になり、「ヤーウェは救い主」という意味があるそうです。「ヤーウェ」はヘブライ語における聖書の神の固有名詞。(日本語の新改訳・旧約聖書では太文字で「主」と記されています)
「イエス」という名を言っただけで、「ヤーウェは救い主!」という賛美をした形になる、特別な名前だと言えます。
このイエスが、四つの福音書に書かれている経緯により、十字架にかけられる。今で言う死刑の判決を受け、その十字架刑を淡々と受け入れて、十字架の上で死なれました。旧約聖書のイザヤ書や詩篇で預言されていた通りでした。
彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
ヨハネの福音書 19章17~19節
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
ヨハネの福音書 19章30節
当時のエルサレムやユダヤ諸地方はローマ帝国の支配下にあり、十字架刑は最も重い刑罰でした。両手両足を図太い釘で打ち抜いて十字架に固定し、それで体の重みを支えさせ、高いところに掲げて多くの人たちに晒します。史実を再現した映画「パッション」のイエスの十字架のシーンがYouTubeにありますから、一度ご覧になると良いでしょう。大変にむごたらしい刑罰であることがわかります。
聖書の教えでは、この、むごたらしい刑罰を受けたイエスが、神のひとり息子です。新約聖書においては、神は、息子としてのイエスと、その父という、2つの側面を見せるようになります。このことは、神を知る過程で、だんだんと理解されていくことです。また、もうひとつの存在である聖霊についても、自然と理解されていきます。
ポイントは、神である父がこの上なく愛された息子イエスが、大変に残酷な十字架の死刑を受けたと言うことです。ここに、私たちの救いの源泉があります。神が、残虐な死刑を、引き受けられたのでます。
世の中にはたくさんの宗教があり、神々と呼ばれるものはたくさんありますが、人間のために死んだ神はありません。
また、神が唯一のものならば、その神は、この世の諸々から救い出すための究極の救いの道を、愛する人間のために与えて下さるはずです。それがイエスです。
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創世記に記されている天地創造の時、すでに御子イエスは、天の父とともにいて、神の言葉としての働きをしておられます。人間が創造された時にも、神はご自身のことを「われわれ」とおっしゃっていたので(創世記1:26)、そこに御子がいたことがわかります。
この御子が、なぜ、地上に降りてきて、人として生まれなければならなかったのか?
それは、ひとえに、神の愛によります。神である天の父が、この地の上の人間の生きにくさをよくご覧になっていて、それはつまり神の敵であるサタンに多様な形で苦しめられている様をよく見ていらっしゃって、愛により、あわれみによって、何とかしなければと、思われたからです。
この御子イエスが、なぜ、十字架にかけられなければならなかったのか?
それは、御子イエスが、われわれ人間が苦しみの中で死ななくても良いように、天の父のお気持ちを納得されて、父を愛する愛のゆえに、また、人を愛する愛のゆえに、死ぬようなものの全てを引き受ける覚悟をなさって、それを引き受けたからです。
天の父も私たちを愛していますし、御子イエスもその天の父に忠実であり、私たちを愛しています。このお二方の愛によって、救いの道が開かれています。
神である天の父は、この世の苦しみをすべて見ています。神ですから、わからないことはありません。一人ひとりの私たちを、母の胎内にいる時から、見ておられる方です。
多種多様な形で、神の敵である存在サタンの影響を受けて、この世で苦しんでいる私たちの一人ひとりの様を、天の父はよく見ておられます。リアルタイムで知っておられます。神は愛です。愛により、そこに救いの手を差し出すために、ひとりだけの息子を、この地に送られて、十字架で死なせたのです。それは、新約聖書に書かれているように、イエスを救い主として信じる人が救われためです。
救いは御子イエスを通じてのみ、なされます。これは不思議なことです。
私の理解では、人間としてこの世にお生まれになって、最後はむごたらしい刑罰を引き受けられた、その御子イエスを愛する愛のゆえに、まさに御子イエスを信じる者を、特別に扱われて救われる。そういうことだと思います。御子イエスを信じることによって、天の父はその人を特別に扱われます。
御子は特別な存在であり、その名「イエス」も、特別な名前です。このイエスを信じる人々を、神である天の父は特別に扱い、神を知る人々として、ユダヤ人の信仰の父アブラハムの血に連なる者と同等に扱われます。聖書全体に記された救いと祝福と恵みの中に入れられます。
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イエスは、十字架にかかって死なれただけでなく、四つの福音書に書かれているように、死んでから3日目によみがえりました。
この、死人がよみがえったという部分。ここに全知全能の神の力があります。ギリシャ語原典ではデュナミスと言い、死をなきものにして、そこに新たな命を吹き込んで新たに創造される神の力です。
なお、この死は、創世記の記述では、神の敵であるサタンがこの地にもたらしたものです。父なる神は、御子イエスの犠牲とよみがえりによって、このサタンがもたらした最も憎むべき死をなきものにし、サタンのすべての束縛から人間を解放したのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
コロサイ人への手紙 2章12節
この「イエスを死からよみがえらせた神の力」。この「神の力」があるので、誰でも、どんな状況にあっても、救い上げられるのです。神の力ですから。神に不可能なことはひとつもありません。
イエスを信じるという時、イエスが神の子でありながらも十字架にかけられて死なれたということと、死んで3日目に、神の力によってよみがえられたということ。この2つの要素を信じます。一言で言えば「神を信じる」ということなのですが、聖書の教えでは、イエスのこれらの2つの要素がカギです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ人への手紙 10章9~10節
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この世の生きにくさは、神を知らないことから来ていると、冒頭で書きました。
神は一人ひとりの人を愛しておられる。
しかし、そこに創世記から登場している神の敵であるサタンの諸々のやり方により、覆いがかけられており、多くの人が目に見えない形で縛られている。神を知らない状況にある。
そこに、父なる神の愛する御子イエスが地上に遣わされ、一人ひとりの身代わりとなって、十字架にかけられた。そうして、サタンのもたらしたものをすべて覆すために、父なる神は御子イエスを死からよみがえらせた。
このイエスを信じる者を、父なる神は特別に扱われて、どのような状況からも救い出される。
短く言えば、このように神を知ることによって、生きにくさが解消されます。自殺をしなくても済みます。自分を取り囲むすべての問題が解消されていきます。
この世に働いているサタンの思惑を見つけることが容易になり、それに対処する術もわかります。
以下のイエスによる天の父への祈りは、イエスが十字架につけられる直前に捧げられたものです。これから来る自分の死を覚悟し、天の父のわれわれへの愛を十分に理解して、捧げられたものです。
ここに、御子イエスの天の父に対する愛と、われわれ人間に対する愛とが現れています。
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネの福音書 17章1~3節
また、この祈りでは、神を知ること、すなわち「彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」についても触れられています。神を知ることが、決定的に大事なことであると、イエスの命をかけた祈りの中で明かされます。神を知ることに命があるのです。神を知ることで、その人は生きるのです。
神を知ることは、永遠の命にもつながっていきます。聖書に書かれているすべての喜びと感謝と賛美とがあふれた状態が、御子イエスを通じて与えられます。
信じるには、何度も何度も、御子イエスに関する聖書のことばを音に出して読むと良いでしょう。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ人への手紙 10章17節