みことばメモ コリント第二4:18 私たちは見えるものにではなく | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
コリント人への手紙 第二 4章18節

パウロが言っている「見えないもの」とは、聖書の文脈で言う「霊的なもの」ということ。

日本語で「霊的」という言葉を使う時、日本語の古くからの文脈の「霊」と混ぜこぜになってしまうので、注意が必要。霊能者、と言ったり、霊感、と言ったり、霊的スポット、と言ったり…。これらは、聖書の文脈で言う「霊的」とは、まったく異なる。

聖書で言う「霊的であること」は、まず、霊としてのみことばと不即不離であるということ。みことば100パーセントであるということ。
聖書のみことばから離れた「霊的」ということは、聖書の文脈ではあり得ない。なので、日本で普通に言う「霊的」ということは、ほとんどの場合、「悪霊的」と言った方が良い。聖書で言う霊とは異なるという意味で。そのような区別が必要。

キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。(コリント第二6:15a)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、(コリント第二6:17)

パウロの書いていることに戻ると、霊的なものは、目に見えない、とパウロは認識している。彼が「主は御霊です」(コリント第二3:17)と書くときも、主はふだんは目に見えない、という意味を含んでいる。けれども、イエス様ご自身が、「わたし自身を彼に現します」(ヨハネ14:24)とおっしゃっているので、見える形で、あるいは、見えない形で、信徒に現れることはあります。

霊的なものは目に見えないけれども、目に見えるものに大きな影響を与えている、ということも、パウロの書いたものをよく読んでいくと、わかる。霊的なものは、信仰により、信徒の信じて口にする言葉により、目に見えるものとなって現れてくる。そこに神の力が働く。あるいは、霊的な状態は、目に見えるようになる少し前の状態だとも言える。

また、聖書で言う「天」と、目に見えない霊的な状態とは、かなり密接に関係している。
キリストの死にあずかるバプテスマによって古い人が死んだならば(ローマ6章)、私たちは、キリストともに「天の所」に座らせていただくことになっている(エペソ2:6)。この「天の所」とは、調べてみると、エペソ1:3にある「天にあるすべての霊的祝福」がある場所と同じ場所。Heavenly places. それはすなわち霊的な場所ということになる。

ちなみに、イエス様が以下の聖句でおっしゃったたくさんある「住まい」「場所」は、このHeavenly placesのことではないかと思われる。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
ヨハネの福音書 14章2節

キリストの死にあずかるバブマテスマを経て、キリストともに天の所に座らせてもらっている信徒は、すなわち、霊によって生きているということ。すなわち、パウロの言う、御霊によって生きる、ということ。目に見えないものに目を留めるとは、御霊のことを第一にするということ。つまり、聖書のみことばを第一にするということ。それはまた、イエスのことばを守ること。イエスを愛すること。それによって、天の父と御子との間にある愛の関係に入ることができる。