自宅で過ごす時間が増えて、テレビを見る時間も増えたという人が多いかと思います。今はテレビの制作現場の方も、ロケなどが出来なくなってしまったため、素人でも作れそうな番組を垂れ流すことが増えています。でもテレビにはやっぱり特別な存在であってほしいです。リモート番組、はっきり言ってつまらないです。カメラの前でだらだらだべっているだけ。そんな番組見たくありません。別々の場所にいる出演者をオンラインでつなぐとやはり間が悪くて、時間空間を共有することから生まれるダイナミクスが感じられません。斬新な企画、派手な演出、それこそがテレビの醍醐味です。

 

 

テレビには放送枠という時間の制約があります。枠に収めるためには撮れ高を確保しなければいけないし、画の隙間を埋めるためにテロップを入れたり、音効を加えたりして、編集をしていきます。出来上がった番組がつまらなかろうが、手抜きであろうが、放送時間が来たら電波に乗せなければいけません。そのような締め切りに追われてギリギリの状態で作っていることも多々あるでしょう。

 

 

普通のテレビ番組なら1週間以上かけていろいろな準備をして撮影したものを、30分とかの放送枠に編集して放送されます。それがYouTubeだと、撮影時間と放送時間はそれほど差がないでしょう。例えば5分で撮影して、出来上がった動画の尺もそのまま5分ということも珍しくないと思います。

 

 

納得のいく画が撮れなければ容赦なくカットしていく、お蔵入りになる映像が多い番組ほど面白い番組だと思います。台本通り、脚本通り進めば、時間のロスは少なくなります。一方で、予想外のアクシデントやハプニングが起これば撮影時間は長くなりますが、そのような予想外の展開ほど、得てして面白いものだと思います。俗にいう、笑いの神が降りてくるというものです。そしてそれをどのように編集するか。そこに編集のセンスが問われるわけです。

 

 

有名な芸能人であってもYouTubeになると、素人と同じような内容や企画になってしまうのはなぜでしょうか。そもそもテレビは、舞台や映画のようなスケールの大きいものを手軽に家でも見られるようにすることから発展してきたというイメージがあります。一方のYouTubeは、ホームビデオの流れを引きずっているものという感じがします。例えば我が子をビデオで撮るようなものであり、当然のことながらそれらはプライベートやパーソナルなもの。一方のテレビは基本的にパブリックなもの。それゆえの規制もあるので、逆に、テレビでこんなことやって大丈夫なの?と思えるような際どいものがあるとワクワクしてきます。

 

 

大掛かりな仕掛けがありそうだったりするけど、何ともいかがわしさを消し去ることが出来ないもの。子どもの時にノストラダムスの大予言に“洗脳”された自分にとっては、「引田天功の大脱出」のようなテレビのいかがわしさが原風景のように残っています。大量の火薬が爆発して炎がもうもうと立ち上る中で、いつの間にか引田天功が脱出を成功させていて、あっけにとられたまま番組が終わっていくという、爽快感よりもなんとも言えないモヤモヤ感が残った番組。大好きでした。

 

 

引田天功以外にも、ユリゲラー、川口浩、ミスターマリック、冝保愛子、細木和子、オリバー君、UFO、ネッシー、ツチノコ・・・このような多くのトリックスターをテレビは生み出してきました。例えるなら『おどるポンポコリン』に出てくる「インチキおじさん」のような存在。コンプライアンスのうるさい今の時代には、このようなうさん臭さ、いかがわしさは受け付けられないのかも知れませんが、昔のテレビは結構何でもありの世界でした。バラエティ番組での火薬の爆破シーンとかも普通にあって、稲川淳二、ダチョウ倶楽部、出川哲朗などは命がけのリアクション芸を披露していましたが、今はそこまで体を張った芸人は見かけません。それは演じ手の問題ではなく、主に作り手の問題であって、危険な番組を作れない以上、命がけの芸人も生まれないわけです。

 

 

そんな中で、かつてのテレビ東京の名物番組「TVチャンピオン」の特番が放送されました。手先が器用選手権などでは、10時間以上もかかる競技を行い、それがわずか数10分ほどに編集されています。ほとんどの撮影シーンは捨てられてしまうわけです。ダイジェストならではのテンポの良さ、密度の濃さ。どうでもいいような日常のシーンをダラダラと流すのとはわけが違います。再放送でもいいので、このような番組をまた見たいものです。

 

 

昔の大映ドラマと言えば、説明口調のセリフが多くて、くさいのが特徴。そんなこと言う奴いないでしょ、というようなセリフが連発されます。そこまで極端でないにしても、基本的にドラマの脚本はセリフが主体なので、言葉が縦横に入り乱れることになります。手紙に書かれた文章、頭の中で考えていることなど通常は声にならない言葉も、ドラマになるとセリフとして音声化されます。

 

 

日常の生活では、何も話さずにいる時間の方が圧倒的に長いでしょう。あるいは会話にならない会話であったり、何言っているか聞き取れなかったり、聞こえたとしても何が言いたいのか分からないような支離滅裂な発言も多々あります。私のムスコの発言も、その多くは何を言っているのかはすぐには分かりません。そんな時は聞き直すか、さもなければ聞き流すことになるでしょう。

 

 

SNSの発言の多くも、本来はそのようなものではないでしょうか。単なる思いつきや独りよがりの独断。熟考した結果ではなく、反射的に頭にひらめいたもの、どうでもいいようなコメントが、いかにも立派な意見であるかのように取り上げられることがあるのには違和感を覚えます。たまたまそのようなコメントをする人がいただけなのに、あたかも世の中の意見を代表しているかのように扱われることはおかしいと思います。

 

 

特にテレビの生中継の時に、SNSのコメントが画面下などに流されるのが鬱陶しいです。ニコニコ動画ならばそれがウリなのでいいでしょうが、天下のNHKですらそんなことをしているのは、見ていて恥ずかしいです。視聴者とのリアルタイムのコミュニケーションというのは、ある意味重要です。でも、最近のテレビはSNSに頼りすぎな気もします。(ネットの世界の方もテレビをネタにすることが多いですが・・・)

 

 

ツイッターのコメントの多くは、思いついたことを軽い気持ちで書いただけのもの。ハガキ職人といわれるような人が手間暇かけて手書きで書いたものとは、密度や温度が異なります。選ぶ方の本気度もハガキとツイッターとでは異なるでしょう。

 

 

いまやテレビやラジオでハガキ、手紙でしか投稿を受け付けていないのは、私が知っている範囲では「今夜も生でさだまさし」と「山下達郎 Sunday Songbook」の二つぐらいです。そのサンソンも、リモート録音になったため、メールでの投稿を受け付けるようになりました。当然ながら投稿数が一挙に増えて、それらを読むだけで2日がかりだそうです。

 

 

手軽なことはいいのでしょうが、軽はずみな発言は慎まなければいけません。言わなければ伝わらないことは多いですが、だからといって言いたいことをよく考えもせずに口にするのは、大人として恥ずかしいことです。頭の中の考えをこのようにブログで公開することも、よく考えると怖いことだったりします。口は災いのもと。言わぬが仏。自戒の念を込めて、そのように思います。

 

 

10万円の給付金についてムスコと話をしました。マスクですらまだ届かない状態なので、いつお金を受け取ることが出来るのか、当てにはしていません。

 

 

それでも全国民一人ずつ10万円。生まれたばかりの赤ちゃんも対象なので、14歳のムスコにもお金が届きます。給付金は国の借金になって、将来税金として課される可能性も大きいわけですから、親だからといって子どものお金を勝手に使うわけにはいきません。

 

 

そもそも、なぜお金が給付されるかについて、私なりの考えをムスコに説明しました。一つめは、今回のコロナ対策で収入が激減した人を救済するため。感染防止のためにお店を開けられない人、会社に行けない人、多くの人が収入を減らして困っています。これについてはムスコも理解していました。でも、子どもはそもそもお金を稼いでいるわけではないので、この目的だけだと、子どもにもお金が支給されるのはおかしいことになります。

 

 

それではということで、次の理由として経済の活性化の話をしました。金は天下の回りものというように、お金の動きが鈍くなると経済が鈍化します。ものを作って売る。お金を稼ぐということは、お金を払う人もいるということ。そうやってお金が移動することで経済が発展していく。こんな感じに、中学生にも分かるよう簡単に説明をしました。(難しい説明は出来ないので・・・)

 

 

危機的な状況になるとなるべくお金を使わないよう、貯蓄を減らさないようにと思いがちですが、これでは経済は縮小していきます。ただでさえデフレが続き、モノに溢れた現代。最低限の生活で良ければ、それほどお金を使わなくてもやっていけます。一方で今回のコロナ危機で富の集中が進んで、お金持ちはさらにお金持ちになっていきます。

 

 

今回の10万円というのは、ある意味、一人一人平等にお金を使う権利を与えられたようなもの。なので、お金を使って経済の活性化に貢献すべきです。とは言え、子どもに10万円を自由に使わせるわけにもいかないので、とりあえず5万円ぐらいで何か買いたいものがないか、とムスコに聞いてみました。

 

 

出てきた答えは「パソコン」でした。確かにオンライン授業などでパソコンは必要です。今は私のものを貸していますが、ムスコ専用のものがあってもいいかも知れません。子どもがインターネットで何をするか分からないので不安な部分もありますが、既にプレステやiPodを使ってネットにアクセスしています。今さら心配してもしょうがありません。

 

 

こんなことでもなければ、ムスコにパソコンを買ってあげようなどとは思いませんでした。お金を使うことで経済の活性化に貢献する。必要なものを買うのは当然ですが、たまには無駄遣いもしてみる。浪費家には、いい大義名分が出来ましたね。

 

 

最後に、10万円もの大金をばらまくことは政府の人気取り、選挙対策の目的もあるということは、子どもの夢をつぶすようにも感じられたので、言うのは控えました。大人の事情があることは自然と分かっていくでしょう。

 

 

「私の責任」ということを言いたがる偉い人がいますが、「責任を取る」とはどのようなことなのでしょうか。やり直しのできること、取り返すことができるものならば、ミスも許されるでしょう。では仮に取り返しのつかないような失敗をしてしまった場合、どのような責任の取り方をすれば許されるのでしょうか。

 

 

「決して負けられない戦い」といったような表現もよく聞きますが、じゃあ、負けた場合はどうなるのでしょうか。たいていの場合は、負けても死ぬわけではないです。サッカーや野球の監督は責任を取って辞任することも少なくはありませんが、次の試合、あるいは次の大会で頑張って雪辱する機会が与えられることも多々あります。仮に引退などして「次」がないのなら、「別」のことで頑張ればいいだけの話ではないでしょうか。

 

 

「私の責任」と言っておきながら全く責任を取る気配を見せない人もいます。ごめんで済めば警察はいらない、という通り、謝罪をするだけでは責任を取ったことにはならないでしょう。お金で済むケースもありますが、人命が絡んでくるとお金でも解決できないこともあります。

 

 

現実の世界では対照実験を行うことが出来ません。やってよかったのか、やらない方がよかったのかは簡単に判断できません。大失敗してもおかしくなかったことが小失敗で済んだのなら、それは成功だとも言えます。

 

 

大変な状態になってしまっても、事態が収拾するまで成し遂げることが私の責任だとか、なんだかんだ理屈を言って居座るような往生際の悪い人もいます。責任ある仕事をする、責任のあるポジションにいる。そのようなことにエクスタシーを感じるのでしょうか。

 

 

何か問題があると「責任者を呼べ!」と言ってくる、クレーマーのような人もいます。そのような人は恐らく権威主義が強いのでしょう。「あなたみたいな下っ端の人間に話してもしょうがない」とか「私の相手をするのは責任ある人が相応しいのだ」、と言っているような感じがします。

 

 

何かを決める時には「責任」ではなく「権限」という言葉の方が相応しい気がします。私の権限で決定する。決定権は私にある。権限というと偉そうに聞こえるので、遠慮して責任と言っているのかも知れません。それでも責任という言葉を使いたいのなら、どのような方法で責任を取るのかをはっきり教えて欲しいです。そして失敗したときには責任転嫁をすることなく、潔く責任を取って欲しいです。

 

 

先日の「イッテQ」は、過去の名場面の再編集特別版ということで安室奈美恵の引退企画を放送してくれました。改めて見ましたが、やっぱりいいですね。内容は分かっていても、思わずジーンとしてしまいました。さらにHuluでは、引退興行のドキュメンタリー番組をトータル4時間以上無料配信しています。全て見ましたが、これが涙なしには見られないほどです。

 

 

25年も歌手を続けていて、見た目やパフォーマンスが全く衰えないのは奇跡。さすがプロですよね。見えないところでいろいろな努力をされていたのでしょう。だから、彼女を見るだけで感動を覚えるのだと思います。

 

 

平成の歌姫の代表と言える安室ちゃん。時あたかも、ライバルといえる浜崎あゆみについては、現在「M 愛すべき人がいて」というドラマが放送されています。作り物のドラマで注目されているあゆと引退ステージのドキュメンタリーで幕を下ろした安室ちゃん。ともに紆余曲折ある人生を送ってきていますが、歌手としての評価にはかなりの差がでてしまったような気がします。全盛時はライバルと目された二人でも、時を経ることで決定的な違いが生じてしまうことが、時として起こります。

 

 

昭和のアイドルで言えば、山口百恵と桜田淳子。同じ年のデビューの二人ですが、最初は淳子ちゃんの人気の方が上だったと思います。「わたしの青い鳥」などのヒット曲を連発していただけでなく、「全員集合」などのバラエティ番組でも大活躍。明るい性格でお茶の間の人気者でした。一方の百恵ちゃんは暗くて、大人っぽいイメージ。淳子ちゃんが「太陽」、「三色スミレ」なら、百恵ちゃんは「月」、「秋桜」。それがいつの間にか立場が逆転して、最終的には天と地ほどかけ離れた存在になってしまいました。

 

 

本人はブレていないつもりで、時代は変わるし、周りの対応などは変わってきてしまいます。いつまでも変わらぬ姿で最後まで輝いているのは、とても難しいことです。

 

 

結局のところ、全盛期の最大風速よりも、停滞期から下降期での身の振る舞い、特に散り際の美しさや潔さが心に残るものです。

 

 

一般の人の人生も、晩年の過ごし方が重要なのかも知れません。遺影に残る写真がどのような姿をしているのか。晩節を汚すことのないよう、これからもますます精進していかないといけないと思いました。

 

 

ムスコが三日連続で早起きしてきました。学校は休校中。さらにゴールデンウィーク中でもあるのに、なぜ?

 

 

これまで午前中は起きているのか寝ているのか、自分の部屋から出て来ないのが普通。朝ご飯を食べるのが夕方4時という時もあります。相変わらず自分の部屋で夜遅くまでゲームやギターをやっているみたいなので、急な変化にすこし驚いています。

 

 

事情を聞いてみたら、好きなアイドルが毎朝インスタライブをやっているので、それを見たくて早起きしたのだと。「誰?」と聞いてみると乃木坂の誰からしい。乃木坂の誰だかはどうせお父さんは知らないだろうからと、そこまでは教えてくれませんでした。

 

 

なるほど。朝から楽しいことがあれば、ちゃんと起きられるのですね。親が起こしてもなかなか起きませんが、好きな人が出来て毎日モーニングコールでもしてくれたら寝坊しなくなりそうです。調べてみたら、お金を払ってモーニングコールをしてくれるサービスもあるのですね。1100円ぐらいで出来るとのこと。毎朝素敵な女性の声で目覚められるのなら、安いものかもしれません。朝の目覚めはとても重要です。いい気分で目覚めたら、一日ハッピーになりそうですからね。

 

 

私自身は年のせいか、最近は6時前に自然と目が覚めてしまいます。東向きの部屋で朝日が差し込むと結構まぶしいですし、まだ冬の布団を使っているので暑くなって起きてしまいます。トイレも近くなっているのでまずは用を足して、それからは自分一人の貴重な時間なのですが、ムスコも8時前に起きてくるので急いで朝ご飯を作ります。面倒くさいけど、早寝早起き朝ご飯が重要だとムスコに口うるさく言っている以上、作らないわけにはいきません。

 

 

これはいい傾向だと思っていた矢先、インスタライブが昨日で終わってしまい、また元通りの生活に逆戻り。本当に三日限りの三日坊主でした。モーニングコールサービス、マジで考えてみようかしら。

 

 

やはりと言うか、多くの人が予想していた通り、緊急事態が延長されました。当初、1~2週間が瀬戸際だとか正念場だとか言われていましたが、結局は嘘っぱちだったわけです。予測の難しい状況の中で、ちょっと我慢すればなんとかなると、偉い立場の人は言いたくなるでしょうが、下々の人間は容易には信じません。私自身も1ヶ月前のブログに書いた通り、今のような状況が7月頃まで続くのではないかと予想しています。

 

 

我慢してやっていても状態が劇的に良くなるわけではないし、逆に大幅に悪化しているわけでもありません。感染者数が右肩上がりなのは事実ですが、それは仕方のないこと。むしろ死者数がそれほど増えていないこと。そして500人以上の死者の中で、20代以下の若い人がいないということに、注目すべきだと思います。体力のない乳幼児で死者がいないというのは、どのような理由からなのでしょうか。これがインフルエンザのケースだと、保育園や小学校などで集団感染して、幼い子どもが命を失うこともあるでしょう。それと忘れちゃいけない、ノロウイルスだって同じ。子どもにとっては、コロナよりもノロの方が脅威です。改めてノロについて調べたら、驚くほどコロナと同じようなことが書かれています。ノロウイルスにも治療薬やワクチンがないそうなので、気をつけなければいけません。

 

 

こういうことを書くとバチが当たりそうですが、このたびのコロナ騒動は、思いあがった人類に対するバチなのかも知れないと思っています。人類が経済活動を抑制すれば、資源の無駄遣いが減って、地球環境は良くなるでしょう。人間にとって悪いことが地球にとって悪いこととは限りません。リモートワークが普及して、スピード社会が見直されるようになったら、例えばリニアモーターカーなどは不要になるでしょう。今は新幹線もガラガラみたいだし、JRはかなり打撃を受けているでしょうから、リニアに費やす予定だった予算も厳しくなっていることでしょう。

 

 

また、高年齢の方ばかりがコロナで亡くなるとしたら、社会の構造が変わっていきます。頭でっかちな人口ピラミッドが変わっていくと、年金問題などが改善されるでしょう。未来のある子どもたちのために、もっと予算を使うことが出来る社会になるかも知れません。戦争などによって働き盛りの若い人が亡くなることに比べれば、まだマシだと言えなくもありません。

 

 

テレビなどのマスコミに出る人たちは、軽はずみなことは言えないので、慎重にならざるを得ないでしょう。でも、どこまで本気なのでしょうか。例えば出演者が距離を空けて撮影しているから大丈夫だというのは、単なるパフォーマンスに過ぎないと、多くの人は思っているのではないでしょうか。画面に出ている時は離れているけど、カメラが回っていない打ち合わせの時やスタジオに向かう電車の中は、三密のことだってあるのでしょうから。

 

 

「こんな時になぜ外出しているのですか?」と批判するような映像が流れることがありますが、街の様子を撮影したり、インタビューをしたりするマスコミの人たちは、外出をしているわけです。通りに人がたくさんいる映像も、逆に人っこ一人いないような映像も、そうなる瞬間を狙って撮影しているわけです。つまり、アピールしたいことが最初にあって、それにふさわしい絵を撮ってきているだけのことです。

 

 

マスコミの言うことが絶対ではありません。政府の言うことが正しいとも限りません。ウイルスがオーバーシュート(爆発感染)する前に、情報がオーバーシュートしています。どうでもいいような下らない情報も多すぎます。外出自粛などの行動抑制もオーバーシュート気味です。誰が何を言った、誰が何をした。それに対して過剰な非難や批判。その裏には自己満足的な正義や自分が出来ないことに対する嫉妬も見え隠れします。ツイッターなどのSNSが普及した今の時代は、どうでもいい情報が氾濫しがちです。そのようなことに惑わされないで、自分をしっかり持って、したたかにしなやかに生きていきましょう。

 

 

今はいろいろなことを考える時間があります。コロナは憎いですけど、この時間を与えられたことには大変感謝しています。

 

 

「このご時世なので・・・」という表現を聞き飽きた今日この頃。(今日この頃という表現も使い古されていますが・・・)

 

 

三密という言葉もあっという間に定着しましたが、せんみつ(せんだみつお)や壇蜜も注目を浴びているのでしょうか。

 

 

三つセットで覚えやすくするというのは、広告コピーなどでも良く使う常套手段。私がやっている「おやじ業さんた」も大変、大切、楽しいの「三つのた」から命名しました。

 

 

いま新しく言われているのは三つのSです。

 

Stay Home, Stay in Tokyo, Save Lifeの三つのSだそうですが、いかにも語学が堪能な都知事が好みそうな表現ではないでしょうか。まあ、これぐらいなら許せるでしょうが、聞いた瞬間、思わず「えっ?」と思ってしまったのが、エッセンシャルワーカーって言葉。

 

 

エッセンシャルって言ったら、私などはまずシャンプーを思い出しますが、日本語に訳すと「必要不可欠」ということでしょうか。とすると、私のやっていることなど、不要なことになるのでしょうか。いてもいなくてもどうでもいい存在。もう少し世のため人のためになるよう頑張らなければいけません。

 

 

今、多くの人が三つの「つ」を感じています。「疲れる、つまらない、つらい」の三つです。

 

 

心に余裕をもって、無駄なことにも価値があること、不要の要というものを忘れないようにしたいものです。

 

 

51日。

 

ちょうど1年前に令和がスタートした時に、こんなことが起こるなんて誰が想像したでしょう。いえ、つい3か月前ですら、ほとんどの人はすぐに問題が収束すると思っていたのではないでしょうか。思ってもいなかったことが起こってしまう時代、それが令和なのかも知れません。

 

 

国内外で戦争が繰り広げられた明治、大正、昭和に比べると、平成は文字通り平和な時代でした。そして、新しい令和という時代は、再び激動の時代になるかも知れない。そんなことを予感させるような、令和1年目でした。

 

 

不幸中の幸いは、ウイルスが全人類共通の敵であるということ。ヒト同士が戦う戦争に比べれば、まだましです。まるで地球外からの侵略に対して、全人類が協力して戦うようなもの。だとしたら一致団結してコロナに打ち勝った後には、新しい共生世界が生まれるかもしれません。

 

 

激動の時代となっても、冷静に、平和を希求していきたい。コロナ去って地固まる。それまで、もうしばらくの辛抱です

 

 

二日続けて、Zoomを使った子育てお話会に参加しました。日本各地から6人ほどが参加した45分程度のお話会です。幸か不幸か、2回とも男性の参加者は私だけ。異性がいるとぶっちゃけトークがしにくくなるので、自分がおじゃま虫になっているかもしれないと思う反面、異なる立場の人の考えを聞けることは有意義なのかなあとも考えて、自分を納得させました。

 

 

皆ほぼ面識がない者同士だし、同じ空気を共有していないので、どうしても遠慮気味で、あまり話は盛り上がりません。自宅からの参加だと近くに家族がいる可能性も高いので、あまり大声で話がしにくい状況なのかも知れません。

 

 

通常の女性との11の会話なら、男性は自分のいいとこを見せようとか男らしさをアピールしようとかいう気持ちになりがちです。逆に男性との会話だと少なからずライバル意識みたいなものが生まれがちです。今回のように女性多数の中に混じる時は、男性の方が委縮してしまうことも多々あるでしょう。

 

 

私はこれまで保育園の保護者会をはじめ、女性の中に男性一人という経験を結構してきているので、それほど緊張はしません。何よりも直接の利害関係がない人と話をするのは気楽でいいです。

 

 

今日のお話会は「パートナーとの意見の違い」ということがテーマでしたが、女性の側からすると、そもそも夫が十分話をしてくれないというのが一番の不満のタネでした。それに対して私は男性の立場として、このような話をしました。

 

 

基本的に男性は話をするのが苦手で、話題がコロコロ変わるとついて行けない。重要なことを話したい時は、あらかじめどのような話をしたいのか(会議のアジェンダのように)教えてもらえると、意見を言いやすくなる。

 

 

また話をするタイミングも重要で、例えば疲れて帰ってきたばかりで話しかけられたり、のんびりテレビを見て楽しんでいる時に話しかけられたりすると、鬱陶しく感じる。話をするタイミングもあらかじめ決めておいた方がいい。

 

 

と、まあこんな感じですが、結構参考になったと言ってもらいました。

 

 

また、仲のいい夫婦の会話は、夫婦漫才のような感じではないかとの意見も言わせてもらいました。多くの夫婦は女性の方が話が上手なので、宮川大助花子が参考になるでしょう。逆にしゃべり好きな男性だったら、林家ペーパー子がいいでしょう。(うちの場合は完全に前者)

 

 

いずれにしても、どつき漫才にならないよう気ぃ付けや。

 

なんでやねん。