笠哲哉ブログ -5ページ目

候補者調整

古賀選対委員長は京都で開催された 田中英夫 前衆院議員(いわゆる郵政造反派)の会合で 「(次期衆院選の候補者調整の)キーマンは平沼 元経産相だ 平沼先生とよく話す機会をつくってゆきたい」と発言なさった また「次の衆院選で期待に応えられなければ 政治家としての退路を絶つ決意で 選対委員長の職を引き受けた 27年の政治活動の総決算としてこの職をまっとうする」との決意もあきらかにした
尚 同席した 平沼先生は「小泉チルドレン82名は次期衆院選で淘汰される」と発言 
自民党は大きく転換しようとしてる
一方で国民新党は民主党との選挙協力などを一旦凍結 民主党山岡国対委員長と亀井国民新党代表代行との調整も結論はでていない

本来の保守と 新自由主義経済政策に偏った部分との再編が 政党や無所属政治家 しかも現職 非現職のわくを超えてはじまるのであれば 古賀先生の考えるような 新しい構成の自民党が ごった煮の民主 社民等野党勢力に 勝利するチャンスが大きく出て来る

是非 御健闘いただきたい

新事務所へ

ただいま 目黒区では 後援者の方が 現在の事務所より広めの事務所物件を伝手を頼って探してくれている それに伴い 自民党本部に程近い 平河町の事務所の使用を停止した いままでは本店が平河町 出先が目黒という関係だったのが 目黒事務所に一本化 新事務所が開設されたらそこが本店となり 世田谷南部への進出をにらむ事になる 永田町周辺の事務所は 麹町に年内に置く算段であるがあくまで出先 やはり目黒が本部の方が良いのだろう これは私の決める事ではなく 普段から 私の活動を支え 献金や寄付にとどまらず 同志として進む方向にも意見してくれる 後援者に決定は任せるつもりだ

御榊壇

学習院には御榊壇という祭祀施設があり明治42(1909)年 明治天皇が目白の新校舎に行幸になった際の天覧の榊を乃木院長閣下が翌年3月 周囲に石を巡らして築いた前方後円の壇で円壇を囲む石の一部は 乃木院長閣下が当時の国境から集めたものである
戦後 学習院は占領軍の一部に解体論もでたように 陸海軍に進む事が奨励せられ 皇族殿下はじめ多くの先輩が「死して目白ヶ丘の桜と咲かん」を合言葉に 護国の英霊となった 少なからず 出征の前 この御榊壇に参拝なさり 国境よりの石で築かれた御榊の御前に 皇室弥栄国家安康世界平和の捨石となるを誓い 現実に戦死なさった
占領軍の目や 無理解の世論をはばかって 一時期 存在を隠蔽するむきもあったが 現在は広報や公式ホームページにも紹介されている
私は平成元年より学習院補仁会( 会長 内籐学習院長 当時)の理事を拝命 学内機関としての正規の祭祀を務め 後には 学校法人学習院の評議員の指導下 御榊壇への御奉仕ができたという幸運に恵まれた 先帝陛下諒闇の後は神社本庁からも祭祀への参列を迎え その際は既に 法人 大学管理課への諸先輩の御尽力の成果として 周辺整備と直会が出来る 座所の設置も済み 恥をかかずに済んだ

国体学入門1章国体学とはどういう学問か

1節 学問対象としての国体


国体学とは 国体を対象とする学問であるが 国体とはどういう概念であるか 「国体」とは 一つには 国家体制を示す「国制」との対照において自覚され得る 
立国の大法の核たる天皇統治を前提に その国家体制と統治諸力 諸制間の諸関係を国制といい その一部を表現(筧克彦 大日本帝國憲法の根本義 昭和11年6月1日発行 皇学会 5頁に準拠)するものを憲法という 国民の側からこの表現法を反照すると 己を超越して生活する根本規律ということになるが 成文化の原初は 音声言語であり 文書はその「うつし」である 神または事の「は」というのがこの音声言語の場所であって「ことのは」でもって大勢に神意を示すことを「のる」といい表象された言葉を「のり」といい 憲 法 則の元型となった
さて これが国「制」とすると その根拠たる国家の内容そのものが国「体」ということとなる
もう一つには 用と体という対照が指摘される 概ね 古朝鮮諸邦 次に支那諸王朝 特に殷 周 漢 隋 唐また近代では西洋諸国家の国制を「用」として 取り入れてきた これに対する「体」である
ここでは国家体制 政体 国制 制度 などの隣接する述語にまつわる言及はしないが いづれにせよ それらに対照する国体という自覚そのものの出生は 例えば「かみ」「ち」「ひ」などが「もの」ということの自覚から「かみ」の自覚が明瞭になったという働きにも似てる
国体そのものは 皇国体ともいわれるように 我が国固有の 国家のありようを 指し示す 言葉「ことのは」であって 
現実 事実を人が観念する働きによる表出であって 国体という概念が指し示すところのものそれ自身は 実在する対象としての対象性を確固としてもつ これを認識し総合 体系づけるのが国体学の学問上の立場ということになる つまり生物学天文学のような 自然科学と同様 対象に直接向かうという立場であって 文献解釈のような学とは方法論を異にすることを指摘しておく


2節 国体の中心的観念と御祭主


御神勅に曰く 豊葦原千五百秋之瑞穂国是吾子孫可王之地也宜爾皇孫就而治焉行矣宝祚之隆当与天壌無窮者矣 (日本書紀 巻二より引用) また この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ (古事記 上つ巻より引用)というように記紀に記されていることをもって 文献解釈上 国体の中心的観念を以下のように整理する識者が多い

神の御子孫たる皇孫「すめみま」が

豊葦原千五百秋之瑞穂国を

あめつちがきわまることなきがごとく

すべ おさめ しらしめ うしはく

無論 中心的観念であるが ここに帰結するというように感覚するならば注意が必要となる
文献上たどりやすい記紀であるが あくまで史書であって直接にこの記述を持って全てという聖典としては国体学の上では充分そうとはいえないのだ
御神勅そのものではなく伝聞による意訳が含まれているので 歴史的聖典として尊く 正統なことはいうまでもないが 
皇祖皇宗そして当今にいたるまで継承遊ばす御神勅そのものと 記紀の記述が 全き不二同一というには 確証に値する知見があるとはいえない
主上ないしそのみこともちとしての神祇官が皇孫 臣等 百官 万民を従え 神前に祝詞を宣る時 「かむろぎ かむろみ」の命もちて宣るのであり 神命が下されるので その下され様は 現在も変わらない
 ここに明らかなように 御神勅の内容は 上御一人の大御心内にあらせられ 我々の知見の届かぬところにある


3節 国体学の担い手・学問者とは


前節に展開した事からも帰結するように 皇学の一部を構成する国体学の担い手 つまり狭義の国体学者とは まずは当今ということである 直接に皇国体に関する 神命を授かる立場には無い掌典等祭祀奉仕者・御用掛等学問奉仕者たるものが 当今に奉仕することを通じて最新の国体観念に接受し得る機会を与えられる事があるのに比較して いわゆる学究であって学問研究機関に身を置き 過去的事実を研究 学問体得した者といえども 当今よりのみことのりから距離 隔壁の大きい所におると その学問の正確性・正統性の保証が無い事が 国体学の特質でもある 
従って 常に 大御心との関係性において 自らの学問を反省する能力が求められる
学問の場所としての国体学は 皇太子 皇太孫に当たる方を中心に 皇族殿下が 御学問を遊ばすのが第一の場所である 第二には 皇后 中宮 お妃に御成り遊ばす方 第三に 中つ臣 掌典 親任 認証の官という順となり 
学の原因となるところの 「生長点」にあたる場所に近い方が 恐れながら 学問的観察において 絶対優位性を持つことにもなる
中心点においては 学術研究と御学問教育がまさに不二一体となっており ここを起点として みやびのまねびとしてあまねく 教養 国民道徳としての国体観にまでひろがってゆく構造を 国体学はもっている


4節 国体の不可分な要素と国体顕現の現在性


国体の中心的観念が2節で参照した 神の御子孫たる皇孫「すめみま」が豊葦原千五百秋之瑞穂国をあめつちがきわまることなきがごとくすべ おさめ しらしめ うしはく とするならば その「皇孫」には 「かむろぎ かむろみ」「皇祖神」からの「みこと」が祭祀の中下るということを中心的
観念に補ったのだが 
国体の不可分の要素として 例えば 中心的観念における 時間的特徴を「天壌無窮」空間的特徴を「八紘一宇」(神武立都の勅より引用)とし 皇道の上での両特徴の働きの実体を「天津日嗣」の御稜威「みいつくしび」として集約する(中西旭主筆 「尊皇の大義」昭和16年 台湾総督府国民精神研修所叢書第2輯 21頁前後の論点より参照)
この「八紘一宇」は「家族国家」と併せ 国体の不可分な要素として指摘強調されてきたが 一つには 天皇 皇族 臣官民を貫く 血統上のあるいは宗族性の同一性として またもう一つにはに民族同化 「御稜威の摂取不捨の産霊の根源力」(中西旭 同書 38から43頁より一部引用)にかかわる一大家族への再編転化の史実に貫かれる特徴として指摘される
この点が肯ぜらるならば 当然 天壌無窮の御神勅の豊葦原千五百秋之瑞穂国という領域規定が 現実にはその後の御神命により御改訂になっている旨 自然と推測されるのではないだろうか 先の「尊皇の大義」は台湾が邦土に編入 内地化と皇民化をすすめるための外地人指導者養成の教科書である 
このように 国体の不可分な要素から例証を挙げて解説しても 国体の顕現が 現在も新たしく 観察されるということが言えると思う
「こと」が表出し「は」として生まれ出で その媒体を「ひと」つまり霊の戸としてつとめ 神の表現としての「ことのは」音声言語には 神性があればこそ 声が本 文字は末ということだ
現実の国体を本質的認識対象としておき第一次の言語資料を原則 音声言語とするのが国体学の学の方法である
この音声言語は短命で一瞬の存在である
1節で挙げた 国家体制 政体 国制 制度 などの人為の生む対象とは全く異なった領域を対象とする学問であることを 御理解いただけたと思う

戦争における死

集団自決に関する検定意見に抗議する集会が沖縄で9万人(当局の情報による)の動員のもとおこなわれたそうだ 集団自決は満州でも朝鮮でも樺太でも千島でもあったし 内地でもあった 私は祖父笠大圭一家が樺太から引き揚げてきて この間 函館税関の統括監視官から引揚者保管物件の照会の返答がきてて 該当なしということだったが 大泊という樺太第ニの町で一番大きな丸百 百瀬という商家の主家としては散々な引き揚げだったといえる
大叔父の百瀬三郎は満州日日新聞の東京政治部在籍で東条閣下の国策研究会講師でもあり閣下に「ソ連軍が参戦の場合関東軍主力は2日か3日で壊滅」と直言したところ 憲兵をつけられて満州に返された直後(大叔父は当時の事実を秘匿していたため微細な点は正確かどうかは責任が持てない) あえなくスパイ容疑でソ連軍に拘束されシベリアに不当抑留十数年となった
民間人には自決用の武器弾薬は支給されること稀で 有名人では満映理事長 甘粕退役大尉も服毒自殺であったと大叔父からは聞いている 抑留者は100万を超え 37万以上が死亡または行方不明 厚生労働省把握でも6万以上が死亡とされる(ソ連は日本国には正確な死亡者を伝達していない) 生還者は47万3千人 当時満州樺太千島には272万6千人の帝国臣民がおり 抑留死亡不明率は13パーセントを超えることになるが 外地人で出身国に帰った者(多くは北鮮人と南韓人)もこの13パーセントに少なからず含まれる為 実際幾人が死に追いやられたかは不明である
また私の乳父である矢崎春之は当時海軍軍属であった やはり樺太からの復員だったが自決云々の形跡は無い
祖父 大叔父 乳父は大東亜戦が我が国の勝利とならず その人生は大きく傷つけられ 全財産を一旦は失った
ソ連に対する批判は多少聞いた事はあるが 我が国に恨み辛みを彼らの口からも周辺人物からも聞いた覚えが無い
当たり前の事で 彼らの敵はソ連や 支那の軍閥 馬賊(そのマイナーな一つが八路軍パーロ軍という赤匪で現在の中共)また国民党=中華民国蒋一派 英米蘭列強であって
大日本帝國政府の下 軍民一体となり戦ってきたのだ
私は43歳で 高校まで公立だったため 高校の日本史や政経は共産系社会系の教師に習ったし 小学校の教師も社会系というか日教組の組合員として普通の教え方だった (中学の教師は駒沢大卒の方だったが偏向教師ではなかった)
所詮 教師が教科書を使ってどんな教え方をしようと 戦争にも行ったことのない者が薄っぺらい批判を帝國政府や陸海軍に向けようが こちらは実際親族や経験者の話が下地にあり 全然聞いちゃ無かったしあまり教科書の知識がないのだが
沖縄では米軍に28万人投降という米側記録があるが 集団自決が軍の組織的強制に基づき行われたというが 当時沖縄の人口42万から45万と推定 日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者12万2228人のうち9万4000人が民間人(内戦闘協力者5万7000人)とされている ただし この推定数に2から3万人の欠落があるといわれており まあ約20万人 戦闘に従事した者のうち帝国陸海軍兵員 116,400人 米軍兵員 548,000人 という大規模の戦闘であることから 米軍による民間人の殺戮が幾人かは確定できないが 皇軍将兵軍属の戦死 28,228人という状況下 民間人の集団自決にどれだけ人員を割き武器弾薬を割く余裕があったかは私の想像を超える  
東京大空襲では5月10日一日で約20,000人の血縁者が御遺体を引き取った犠牲者と無縁仏・行方不明約88,000人の犠牲者100万戸以上が家を消失 5月25日は8千人の犠牲者 彼等は爆撃により一方的に殺戮された
当時 日本中が米軍により被害を受けたが フランスやイタリアの様に自由主義や共産主義の抵抗運動やパルチザンの発生は少なくとも内地には存在せず
ほぼ全ての国民がポツダム宣言受諾から概ね8月終日位までの各地の戦闘終結まで軍民一体戦い続けた
戦後の後知恵ではどのような事でも言えるのだが 簡単に軍のせいにして済む話ではない
当然一番死者を出してるのは軍であって 靖国神社に祭られた御祭神だけでも満州事変支那事変大東亜戦争で234万2341柱がお祭りされている

平沼赳夫先生の偉業

昨日 保守の正道というエントリーで自民党の保守再生を願う内容を書いてたら 読売新聞の報道で平沼赳夫先生の話題が大きく取り上げられていた 平沼先生は自民党を既に離れていて もし再合流という形になれば 保守の反撃の始まりだろう 以前 自公で初めて選挙協力が行はれた総選挙で森総理のいわゆる神の国発言が与野党の集中砲火を浴びたとき 村上正邦 亀井静香 山崎拓 石原慎太郎 柿沢弘治 と並んで 私が会長を務め 井尻千男拓大日本文化研所長に代表をお願いした国民運動という文字どうり国民運動団体が期待したのが 平沼先生だった
あれから月日も経ち 平沼先生の変わらぬ保守の魂は今まさに輝いて見える
平沼先生は最初の選挙は保守系無所属で惜敗であった 故中川一郎先生に選挙後面談の際 選挙の印刷物などを御覧になった中川先生はその場で 秘書待遇での月々の支援を決め 次の選挙まで月40万円の応援をしたという (金額が不正確かもしれませんが本旨にあまり影響ないのでもし違ってたら謝罪します)よく物心両面の応援ということを簡単に口に出す人が多いが これを現実に継続するのは余程の決意と力量がないと逆に不義理をすることにもなってしまう
以前から平沼先生が数十人の非現職のサムライに応援をしてるという話は耳にしていたが 実際報道を拝見するとその暖かく大きな政治家としての器には尊敬の念を隠せない
自民党がその一部でも純正保守 国民保守として再生する日が訪れるのなら その指導者は平沼先生に違いないだろう 

保守の正道

この度の福田内閣に麻生先生は入閣辞退となったわけだが その理由の一つに 小泉 安倍両氏には保守という共通点を感じたが 福田総理とは哲学が違う というようなインタビュー報道がある 正直 難解ではある 現在自民党は公明党と連立政権を組んでいる 最近でも 自社さきがけ 自自公という組み合わせがあり 後者の自由党の党首は 現民主党代表の小沢先生だった 連立解消の直接の原因は選挙区調整がつかず 連立合意に対する信義にもとるという事だった もっと以前にも自民と新自由クラブとの連立があり 全ての連立政権の後連立相手の政党から自民党へ無視できない数の議員が移籍してきている 全てをあげると大変なので最近の大臣だけにしておくと 小池防衛相 鴨下環境相 鳩山法相 渡海文科相 石破防衛相 党幹部では 中川幹事長 二階総務会長 勿論河野衆院議長もだ こう見ると改革派というのが党外出自なのは一目でわかるのだが 小泉先生も総裁就任前はよく地元では松沢現神奈川県知事や中田現横浜市長と新自由主義経済政策や構造改革路線において大いに共通性をアピールしてたものだ
公明党やその先の社民化した民主党との浸透具合において 哲学が違うという事なのか
構造改革路線において哲学が違うという事なのか
保守の姿勢において哲学が違うという事なのか
安倍総理はその政権の理念に於いて 戦後レジームの終焉をはっきりと謳い
国民投票法 教育基本法の成立で現実にもその舵を切った
自主憲法の制定は自民党結党以前から保守政治家のメルクマールであり 占領下の政治改変の不当性を鋭く指摘 日本人の手で新体制を作る事が 自由主義や民主主義の傾向の強い政治家と保守政治家の違いだったはず 
熱海にある興亜観音の境内に昭和殉難者七名の遺骨が安置されている この七士の碑の碑文は吉田茂総理の手により揮毫された
敗戦的講和により不利な占領条件を強要されていても 政府の責任者は価値観の押し付けや伝統の放棄には応じなかった 自民党と名乗っていても 日本人の誇りを保守の魂を 心に秘めながら雌伏したのだ
今日 大国となった我が国に於いて なんら占領や内政干渉を受ける立場になく 政治指導者の決意があれば不可能なことは少ないはず 
政府自民党は自らの姿勢を正し 誇りある国家へ進むべし

またも低下 民間平均給与

国税庁から民間平均給与が発表434万9000円で、前年を1万9000円したまわる数値になっており 企業の経常利益が堅調かつ前年更新を続けていることとの対比からは政府の景気対策は成果をあげてるが 労働政策が失敗してるとしかいいようもない 無論企業の利益が輸出や海外生産にシフトしてる また税制が企業に有利 家計に不利な改訂を行ったという指摘もあると承知してるが この間政府が行ってきた構造改革と各企業のグローバリゼーション対応によって 従来のハウスユニオンにバイアスのかかった日本型労使関係は崩壊しつつあり それに変わる 産別または一般加入のユニオンが未発達という間隙をぬって 労働分配率が低下してるのだ これがこのまま継続すると労使関係の悪化や健全な労働市場の維持発達が阻害されるのみならず 消費者の多くを占める勤労者層の可処分所得の減少で国内消費に悪しき影響がある ユニオンの健全な発展を望むが 政府の政策的介入による変化への対応も必要だろう

昭和殉難者の御霊

靖国神社の信仰に関して政治的に論ぜられることが多いようなので基本的な教学上の点を幾つか御紹介する 「所謂A級戦犯(政府では法務死靖国神社では昭和殉難者と呼称する)の方々の神霊の合祀は、昭和二十八年五月の第十六回国会決議により、すべての戦犯の方々が赦免されたことに基づきなされたものです」上なる文言は靖国神社の正式な発表からの引用でマル()内も同発表からの引用である
靖国神社は本来 国家祭祀を掌る国家管理の神社であり 宗教法人という法人格取得後も 国家管理の公法人に準ずる運用をしてきている 巷間ささやかれるように 一宮司あるいは一部神職の判断によって法務死なさった御祭神の合祀が斎行されたわけではなく国家的決定を手続きとしては根拠にしている
さて現在の靖国神社の見解では全ての御遺族の承認があっても分祀はしないということだが 国家祭祀である以上遺族の要請や意向が祭祀の根拠とならないのはお分かりいただけるだろう
私祠 家内祠であって本社よりの勧請がなく 単立でないかぎり教学上は 分祀を遺族の意向で行うのは無理である 
分霊の内 神社 祠等鎮座の地に御祭神を御霊わけ奉る事を 分祀というが 一般的ではないが 御祭神の一部のみを勧請する場合もありえなくはない 空想上の例えだが 神奈川県護国神社を再建したとしよう 現在御祭神を奉斎安置してる所からの遷座に加えて 靖国神社からの勧請を県関係の御祭神につき行うというと 本社である靖国神社の御祭神の一部を御分霊戴くことになる
その場合御祭神は靖国神社と新神奈川県護国神社との二社でお祭りされる事になる
つまり公的手続き この場合は県護国神社の再建による事由 に起因しないと靖国神社としては分祀をしないという事が一点 分祀の後は 鎮座地がニ箇所に増えるという点 このニ点をおさえてほしい
靖国神社のような国事の殉国者 皇軍将兵をお祭りする神社は 近代になってから新しくできた信仰に基づく神社ではなく 神代以来 鹿島神宮その御分霊を祭る各地の鹿島神社 日本武尊命を従軍した兵とともにあるいは摂社末社でお祭りする神社 八幡社とその地の軍神を併斎する神社等限りなくあり
この伝統の上に招魂社として建立されたのが靖国神社である
伝統教学の見地からは以上の点が指摘される 

25日トークライブ感想

25日にトークライブのメインスピーカーを務めた 19時から23時まで4時間であったが 実は前日より咳と咽痛でブロン液とトローチでおさえてしゃべったところ ぶりかえしで今日も声が出しづらい容態となっている 
以前 県議選の応援で3000人超を前に野外で演説した 竹中経済政策の批判が主体だったが 人数が多いと内容としてはどうしても 分かりやすい話ということでワンフレーズに偏るし 高度な事はお話できない その点 室内でかつ小人数だと そういった制約がないので 話すほうは楽だ 
だだ 時間が4時間だと 私のような専攻だといささか短いかもしれない 聴衆の理解を測りながら 専門過ぎない内容で解説しつつだと 4時間は短いかも
今回は維新政党新風の東京都本部代表 鈴木信行さんが核武装論などを開陳してくれた主として抑止論の立場から また大日本愛国党総隊長 舟川孝さんは自衛官のお父上を持った逸話も披露しつつ憲法の問題に収斂するという指摘 大行社本部長 丸川仁さんは 大行社の顧問 高崎経済大 三瀦学長が筧克彦先生の直弟子であるというご紹介もあったが さすがに同門 呼吸のあう論旨を展開いただき大いに助かった この場を借りて 御三方には感謝の意を表したい
この企画を2ヶ月に1度開催してるのは 針谷大輔さん 統一戦線義勇軍議長として活躍 その姿はコンビニなどで販売されてる雑誌などでもよく見る事ができるテレビでも報道された有名人なので私がブログであらためて紹介することもないだろう
実は10年以上前 国体学の講座を開いてた頃 入門してくれた1人である 受講入門者からは 現職の国会議員をはじめ自民党本部勤務者 市議 区議 国政に出た者 衆議院議員秘書などやはり政治の世界に進んだ者が多い そのなかで針谷さんは 国民運動の世界で活躍する数少ない人材である
国体が国家と国民の不二一体を重要なモメントとする以上 国民運動の指導者が国体学を学び思想的武器としてくれるのは有り難くまた頼もしい事と思っている