戦争における死 | 笠哲哉ブログ

戦争における死

集団自決に関する検定意見に抗議する集会が沖縄で9万人(当局の情報による)の動員のもとおこなわれたそうだ 集団自決は満州でも朝鮮でも樺太でも千島でもあったし 内地でもあった 私は祖父笠大圭一家が樺太から引き揚げてきて この間 函館税関の統括監視官から引揚者保管物件の照会の返答がきてて 該当なしということだったが 大泊という樺太第ニの町で一番大きな丸百 百瀬という商家の主家としては散々な引き揚げだったといえる
大叔父の百瀬三郎は満州日日新聞の東京政治部在籍で東条閣下の国策研究会講師でもあり閣下に「ソ連軍が参戦の場合関東軍主力は2日か3日で壊滅」と直言したところ 憲兵をつけられて満州に返された直後(大叔父は当時の事実を秘匿していたため微細な点は正確かどうかは責任が持てない) あえなくスパイ容疑でソ連軍に拘束されシベリアに不当抑留十数年となった
民間人には自決用の武器弾薬は支給されること稀で 有名人では満映理事長 甘粕退役大尉も服毒自殺であったと大叔父からは聞いている 抑留者は100万を超え 37万以上が死亡または行方不明 厚生労働省把握でも6万以上が死亡とされる(ソ連は日本国には正確な死亡者を伝達していない) 生還者は47万3千人 当時満州樺太千島には272万6千人の帝国臣民がおり 抑留死亡不明率は13パーセントを超えることになるが 外地人で出身国に帰った者(多くは北鮮人と南韓人)もこの13パーセントに少なからず含まれる為 実際幾人が死に追いやられたかは不明である
また私の乳父である矢崎春之は当時海軍軍属であった やはり樺太からの復員だったが自決云々の形跡は無い
祖父 大叔父 乳父は大東亜戦が我が国の勝利とならず その人生は大きく傷つけられ 全財産を一旦は失った
ソ連に対する批判は多少聞いた事はあるが 我が国に恨み辛みを彼らの口からも周辺人物からも聞いた覚えが無い
当たり前の事で 彼らの敵はソ連や 支那の軍閥 馬賊(そのマイナーな一つが八路軍パーロ軍という赤匪で現在の中共)また国民党=中華民国蒋一派 英米蘭列強であって
大日本帝國政府の下 軍民一体となり戦ってきたのだ
私は43歳で 高校まで公立だったため 高校の日本史や政経は共産系社会系の教師に習ったし 小学校の教師も社会系というか日教組の組合員として普通の教え方だった (中学の教師は駒沢大卒の方だったが偏向教師ではなかった)
所詮 教師が教科書を使ってどんな教え方をしようと 戦争にも行ったことのない者が薄っぺらい批判を帝國政府や陸海軍に向けようが こちらは実際親族や経験者の話が下地にあり 全然聞いちゃ無かったしあまり教科書の知識がないのだが
沖縄では米軍に28万人投降という米側記録があるが 集団自決が軍の組織的強制に基づき行われたというが 当時沖縄の人口42万から45万と推定 日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者12万2228人のうち9万4000人が民間人(内戦闘協力者5万7000人)とされている ただし この推定数に2から3万人の欠落があるといわれており まあ約20万人 戦闘に従事した者のうち帝国陸海軍兵員 116,400人 米軍兵員 548,000人 という大規模の戦闘であることから 米軍による民間人の殺戮が幾人かは確定できないが 皇軍将兵軍属の戦死 28,228人という状況下 民間人の集団自決にどれだけ人員を割き武器弾薬を割く余裕があったかは私の想像を超える  
東京大空襲では5月10日一日で約20,000人の血縁者が御遺体を引き取った犠牲者と無縁仏・行方不明約88,000人の犠牲者100万戸以上が家を消失 5月25日は8千人の犠牲者 彼等は爆撃により一方的に殺戮された
当時 日本中が米軍により被害を受けたが フランスやイタリアの様に自由主義や共産主義の抵抗運動やパルチザンの発生は少なくとも内地には存在せず
ほぼ全ての国民がポツダム宣言受諾から概ね8月終日位までの各地の戦闘終結まで軍民一体戦い続けた
戦後の後知恵ではどのような事でも言えるのだが 簡単に軍のせいにして済む話ではない
当然一番死者を出してるのは軍であって 靖国神社に祭られた御祭神だけでも満州事変支那事変大東亜戦争で234万2341柱がお祭りされている