ア-ルの写真記

ア-ルの写真記

四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
写真を撮ってます。
写真は記録!
旅は人生の肥やし!

(日本写真家協会 会員)

この度、下記の日程と会場で「石鎚山に抱かれて」一色龍太郎 写真展を開催することになりました。

四国の西日本最高峰石鎚山はじめ、石鎚山系の山間で暮らす人々や民俗文化など、10年余り撮り続けてきた中から約50点をセレクトした写真展です。

よろしくお願いします。

会期 2024年 7月3日(水)~7日(日)

   AM9:40~PM5 最終日はPM4まで

会場 愛媛県美術館2階

 

石鎚登山ロープウェイがまだ運行してなかった高校一年の夏休み、東之川集落から瓶ヶ森に登り、縦走して石鎚山へと行く登山合宿に参加した。初登山で、自然が織りなす雄大な景色に感動してからは、石鎚山系にある山々の頂を目指し、多くの登山口を訪れた。

いつのころか、行き帰り途中の山間集落で、林業や農業に勤しむ人々の営みがつくる光景に感動し、目を奪われはじめ、立ち止まっては写真を撮ることが多くなっていた。

黄色いトウモロコシが軒下にぶら下がる茅葺きの家。美しく積み上げられた石垣が層をなす段々畑。静かな山あいで山仕事や農作業に勤しむ人々の姿。陽がすっかり傾きかけた夕方、飯の仕度や風呂を沸かしているのだろう、山肌に点在する家の煙突から白い煙が上がる。煙は1日の野良仕事の終わりを告げるかのように静かにたなびき、ゆっくり拡がり、そっと消えていく。山間で流れゆく数々の営みの光景が、心地良いひと時を与えてくれた。

今日、林業をはじめとする第一次産業の衰退など、産業構造の変化により、若者中心に多くの人たちが、仕事を求めて山間集落を後にしはじめてから久しい。そして山間集落の人口減少は進んだ。高齢過疎化の波は石鎚山系山間にも押し寄せ、人々の営みは減り、静まりかえる限界集落や人知れず無住と化した集落は数知れず、今も増える。

西日本最高峰・石鎚山を中心に拡がる石鎚山系山間で、太古の昔から人は自然の恵みに支えられながら暮らし、時には自然の脅威にさらされながらも、神仏を尊び懸命に生きてきた。そして、悠久の時の流れの中で、あまたの地域特有の文化や慣習が育まれていった。しかしながら、過疎や限界集落化で継承できずに失われつつある。すでに消滅してしまった文化や慣習も多くあるが、今ある暮らしや、先人たちが築いた価値ある有形無形の民俗文化を写真で残そうとの念いで、山間を訪ねて、歩いている。

四国の南西部、愛媛と高知両県に跨がり石灰岩質の岩がむき出しになったカルスト地帯がある。そこには鍾乳洞が生成しやすく、縦穴で深さ160mといわれている龍王洞や横穴で長さ500mともいわれる羅漢穴といった規模の大きい鍾乳洞がある。ちょっと地域がずれるが高知県香美市の山間にも大規模な鍾乳洞、龍河洞がある。洞穴内部の空間は自然が作りだした神秘的な美しさが広がり、今は観光洞になっている。このあたりも石灰岩質を多く含む地形だったようだ。

もう半世紀も前の学生だった頃は、洞穴探検が流行り、部活で上記3つの洞穴はじめ、あちこちに存在する鍾乳洞を尋ねて行き大自然の中で感動をもらった想い出がある。

そういえば、石鎚山系には鍾乳洞はないな、と思っていたら、あるという情報を一昨年だったか得ていた。そして時々地図を覗いたりはしていた。今は、そこを訪ねて行く人はあまりいないようで道は薄く、所々に残した目印のテープを頼り行くという。鍾乳洞より上には金床岩という修験の匂いが漂う歴史ある大岩もあるようだ。だんだんと行きたいと思う気持ちが膨らんだ。パソコン上の地理院地図をプリントアウトして何度も覗き、行った人たちの情報を集めて場所を定め、記した。

体力はないがなんとか行けるのではと、写友を誘い2人で行くことに。

相方は朝7時半に出発し8時に合流。途中出くわす悪路をジムニーでゆっくり抜けて行った。雨上がりの林道は風雨で落ちてきた枝木や小石を所々で散見、踏むとヤバイなとおもう大きめの枝木などは、いちいち車から降りて取り除きながら進んだ。

 

登山開始。

前を行く相方は、山中の遍路道で鍛えた足なので、足どりは軽そう。心臓の力が弱い私とはだんだんと距離が離れていく。

 

上り始めてしばらく行くと石積みし囲った所がいくつかある。

人が住んでいた気配はないようだが畑跡のようなところはある。収穫した作物を置いておくなど、ちょっとした雨よけの小屋でもあったのか。

 

 

まだ石段道とわかる道を上って行く。

 

谷筋を上って行くと大きな岩が前方を塞ぐ。

さてどちらに行って良いのか迷う。

 

 

 

 

 

山中は天気の良い日でも陽当たりは良くなさそうで、苔がびっしり岩に生えている。

 

松ぼっくり? 

 

急峻な尾根道を、足下に気を配りながらゆっくりと上って行くと、穴が空いている大岩が前方に忽然と現れた。洞穴のようだ。思っていたよりも楽に探せた。立ち止まってまずは写真を撮った。そして、一息ついてから洞穴に近づく。

 

とりあえずは、目指していたふたつのうちの一つ、洞穴までは辿り着いた。

 

洞穴の入り口に金属製の台がある。

新しいもののようだ。

古くはなさそう。

古くても数年前に置いたものだろう。

何のために置いているのだろう?

 

 

 

洞穴入り口に水が溜まっていて、中へ入って行くのは諦めた。

中からはゲッゲッとカエルの声が聞こえてくる。

 

入り口橫に「旭の岩屋」とマジックのようなもので書いた木札が掛かっている。

これも古くはなさそう、古くても数年前に掛けたものか。

誰が何のために掛けたのだろう。

 

 

上方には二つ目の目標、金床岩(実は洞穴よりもここに行ってみたかった)があるが、時計を見たらすでに1時。初めてのルートで、道を探しながらというのもあるが、ゆっくり来過ぎたようだ。登りはじめてから3時間もかかっていた。これから上、今までのペースだと、まだ2~3時間はかかるかも。

山中は日が暮れだすと暗くなるのが速い。

これから上を目指すのは無理。

家を8時出発では遅すぎた。

出直すことに!

 

帰るとなると、時間にちょっと余裕が出来た。

焦らなくてもいい、山中の自然美を満喫しながらゆっくりと下りて行った。

 

 

砥部の国道33号から国道379号へ、旧広田村経由で内子方面に車を走らせていたら、途中、道沿いの空きスペースにたくさん車が並んで駐まっているのが見えてきて、何なんだろうと思った。道に沿って流れる小田川に架かる橋には、カメラを三脚に据えて何かを待ち構えるカメラマンや、肩や首にぶら下げたカメラマンたちが大勢たむろしている。最初は何があるのかなと思ったが、ガードレールに括りつけてある何本もののぼりに「筏くだり」の文字が大きく書いてあり、おおぜいたの人たちがむろしている理由がわかった。

 

 

私も空きスペースに車を駐めてから、カメラもって橋の方へと足早に行った。すると昔ながらの蓑笠をまとい竹棒を持っ人が乗る筏が、川上からちょうどいいタイミングで下って来た。今までテレビとか写真でしか見たことなかった筏流し風景、初めて見る筏流しのシーンをカメラに収めることが出来てラッキー。

 

山の材木を切り倒し、川で束ねてから下流にながす、この地域の筏流しは江戸時代の後期ごろからあったようですが、昭和20年代に林道がこのあたりまで開通すると、切り倒した木材は馬車やトラックで運び出されるようになり、筏流しの歴史は幕を閉じたという。

その後、地域おこしや地域の団結、小田川の水や自然環境を保とうとの願いをこめ、自治会などが中心となり筏流し行事をはじめたようです。途中、コロナでやむなく中止を余儀なくされたが、5年ぶりに開催し、今年で32回目を数えるとのことです。これからも続いて欲しい行事です。

 

国道11号を走り、西条市加茂川橋交差点で逸れて加茂川沿いに続く県道12号(西条久万線)を遡っていけば、西之川下谷の石鎚登山ロープウェイ乗り場へと行く。

途中に黒瀬ダムがあり、道下に黒瀬湖が見える景色がしばらく続く。通り過ぎてしばらく行くと、川沿いや山麓に家屋がぼつぼつ建っているのが見え始める。さらに行くと鉄筋コンクリート製の大きな寺が道上にある。そこを通り越しさらに奥に進むと、大保木村だった時代の役場跡やさくら食堂の看板、谷川に架かる赤橋も見えてくる。赤橋を渡り右に折れると郵便局もある。

この地域一帯は、かつて大保木村と呼ばれた地域の中心地で、大正時代には林業や鉱業が栄えて大いに賑わい、人口3700人以上を抱える村だった。しかし戦後は産業構造の変化で第一次産業の林業や鉱業は次第に衰退の一途をたどり、日本の山間のほとんどがそうであったように、この村も過疎化が始まり久しい。

昭和の時代、村内には小学校が6校と大保木中学校があった。が、現在はすべての小中学校が廃校となり、人口減少に追い打ちをかけるような災害も起こり、高齢過疎化が進んだ。

現在は石鎚山麓の旧大保木村(兎之山地区含む)だった大保木地域には130名たらずが暮らしている。

そのような大保木地区で、4月20日の土曜日11時より32回目となる大保木会が、卒業生や関係者、総勢140名ほどが大保木公民館(元大保木中学校講堂)に集い盛大に開催された。

ちなみに第1回目は、平成3年の春に大保木小学校跡で、同級生28人が集まって開催したとのこと。

その後は回を重ねるにしたがって、だんだんと参加者は増加していき、今日に至っている。

 

 

オープニングは大保木の郷土芸能 獅子舞の披露

 

 

 

 

 

 

みんなで記念写真

 

大保木公民館 大正琴教室のメンバーによる演奏

 

 

 

大保木の郷土芸能 獅子舞 の披露

 

 

 

乾杯!!

 

 

同級生 皆で斉唱

 

 

 

大保木会のために、裏方でお手伝いをしながら支えてきた女性軍

 

大保木会終了後は素早く後片付け。

お手伝いする女性軍が手分けして、弁当容器の残飯やハシなどはゴミ袋に。

空にしたたくさんの弁当容器は丁寧に重ねてまとめ、コンパクトに。

ペットボトルは外側の印刷シールをひとつずつ剥がしゴミ袋へ。

慣れた手つきで素早い処理に、驚嘆!!

おおぜいの参加者で、たくさん残っていた容器を上手くまとめると、こんなにコンパクト!


 

愛媛の西条側からそらやま街道(国道194号)を走り、寒風山、本川、大森トンネルと1000㍍を超える長いトンネルを次々抜けて行くと、山中にしては珍しく営業しているガソリンスタンドがある。道路右下には谷川が道に沿うようにして流れていて、谷川両岸に家が立ち並んでいる集落が見えてくる。

谷川の向かう側はなだらかな斜面が広がり、家屋などの建物があり家周りに畑が広がっている。

山麓にコンクリート製の白い建物が目だつ。聞くと昔は病院だったが、今は移転し閉院しているという。

斜面上の方に、「なんであんな所にあるの」と思う珍しい相撲櫓が建っていて、そらやま街道(R194号)を通るたびに見え気になっていた。

昨年夏頃だったか、国道を逸れ両脇に家が建ち並ぶ狭い道をのろのろ運転で入って行き、気になる相撲櫓の建つところへ行った。

土俵がまだあり、上をブルーシートが丁寧に覆っていた。

もう久しく使ってないと近くに住む方から聞いた。

子供たちが多くいたころは、祭りの日や縁日などに賑やかに相撲大会をしていたのだろう。

 

 

先日、再度その集落に行った。

空き家となった家が結構多くあり、静まり返った集落に思えたが、しばらく旧道を歩いているうちに畑や道や家前で何人かの人を見かけた。

欄干の両端が柱のように高く伸び、先端に電灯が座るレトロな橋が谷川に架かっていて、昭和5年架橋と刻んだプレートが欄干に埋め込んであった。

橋のたもとに、珍しい四角形のコンクリート製電柱も現役でたっていた。昭和の時代を彷彿とさせてくれる珍しいものが残る場所で、居心地よくてしばし佇んだ。

後で知ったが、現在の国道が完成するまでは、レトロな橋が架かる狭い道が国道だったという。

林業が盛んだったころは、木を積んだトラックがこの狭い橋上通り頻繁に往来していたという。橋を渡ると狭い道は直角に曲がり続くが、そこを上手く通り抜けて行っていたというからすごい。

ここは昔、清水村(きよみずむら)と呼ばた地域だが合併で吾北村となり、さらに平成の大合併で、現在いの町清水日比原というところ。

かつて、日比原には旧国道に沿って商店がいくつもあったようだが、今は山間集落のどこもがたどる運命、過疎化で人口減の波が押しよせ、次第に閉店を余儀なくされているようだ。

以前来たときは、雑貨屋さんが橋のたもとで営業していたが、前を通ると戸は閉まり、丁寧に閉店を告げる旨を書いた張り紙が入り口にあり、寂寥感を覚えた。

しかしながら、洋品店と旅館の二軒は旧道で営業をしていて、まだまだぬくもりのある風景は残っている。

 

日比原は標高200㍍余りの地にあるようだが、周辺の山間部集落と比べると谷川のそばに位置していて低い。

この山奥に車道がまだない時代、旧本川村の長沢方面に行くには、ここ、日比原から山中を縫う古道を上って行き、標高850㍍ほどの程ヶ峠を超え、長い道のりを時間と労力を費やし徒歩で行かなければならなかった。日比原というところは、古くから程ヶ峠を越えていく山道のとりつき口となっていて、製炭や楮蒸しが盛んなころは、炭や楮製品の集積地でもあり、多くの人たちが集まって来ては賑わった場所だったという。人が歩いて移動していた時代、一日10時間歩き続けたとしても40㎞ほどしか移動できない。荷物を背負って坂が続く道を行くとなると、さらに歩行速度は遅くなる。今なら、車で一時間もかからない距離なのだが。

歩いて山を越えて行くとなると、現在のように日帰りは簡単に出来なかった。そんなことで、交通の便が良くない昔は、山間の集落には宿屋(旅館)が多くあった。日比原にも商人や役人などが村外からやって来て宿泊したり、また移動途中で利用する宿がかつて数軒あったようだ。

今も百年以上の歴史を持つ川又旅館という宿が、旧道にあるレトロな橋のたもとで営業をしているのを聞いていたので、泊めてもらった。夕飯前に薪で沸かす五右衛門風呂に入り、体の芯まで暖まり五右衛門風呂を堪能させてもらった。昔、祖父宅に行くと薪で沸かす五右衛門風呂に入っていたが、あの頃を想起した。

翌朝、宿を出るときはご夫婦で見送ってくれ、安価な宿泊代にもかかわらず、おにぎり弁当まで持たせてくれた。

まさに「旅の宿」と行った風情があり、私にはいい宿だった。

夏になったらまた行って、窓辺の露台に腰をおろし、真下を流れる谷川を眺めながら冷たいビールを飲みたいな、と思っている。

 

 

 

 

日比原から、さらに山中に向かって行く車道がまだ整っていなかった時代、高知の町や下流の村や町から、本川の長沢あたりに行く人たちの多くはここにやって来て、ここから徒歩で山道を上り程ヶ峠を越えて行っていたという時代があった。

日比原は、その道の取り付き口だったということはすでに記したが、日比原から行く道のりは長く、しかも急傾斜や高低差のあるつづら折りや曲がりくねった道の連続で、峠を跨ぎ往来するのに体力を要し、喘ぎながらの道中だったという。

そのような酷道であったため、高知の町から転勤や新任で新たな職場に行く人たちの中には、体力のない人も中には居たのだろうが、過酷さに絶えかね敬遠し、とうとう辞表を出し町に帰って行った人がいた、という話が伝わり始めた。

そして、いつの頃からか道中で跨ぐ程ヶ峠は「辞職峠」という別名でも呼ばれるようになった。

酷道を歩き程ヶ峠(辞職峠)を越え、さらに険しい道を行き、やっとたどり着いた旧本川村で就く仕事といえば、営林署や警察署の署員や学校の教職員、建設関係の人たちが思い浮かぶ。

それらの職場で「辞職峠」という名は広まっていったのだろうか。

 

この階段を上って行くと、山道に入って行く登山口がある。

上がりきったところに寺がある。

門札にある寺の名よりも、私の菩提寺の宗派と同じ「臨済宗妙心寺派」の字のほうが目についた。他県の山間で見て親しみを感じたからだろう。

 

千手観音が寺に祀られていて、縁日には周辺の山間集落からおおぜいの参拝者が来て石段の参道は混雑し、人の行き来もままならなかった時代があった、と参道の掃除をしていた老婦人が懐かしそうに話してくれた。

 

この寺は鐘楼があり、未だに5時がくると鐘の音が16回、毎日集落に響き渡る。

寺近くの住人が鐘を突く世話をしていて、鐘が鳴る音を聞きながら見ていた。

 

 

寺の橫を通り入っていくと、あの辞職峠の異名を持つ程ヶ峠に行く古道の上り口が見えてくる。

 

道中の安全を見守るように、上り口に石像が鎮座している。

 

 

古い地図を見ると、標高250㍍足らずの日比原から枝畝という尾根を伝って上って行く古道があり、標高600㍍あたりで旧国道と出くわしている

日比原からだと高度にして350㍍ほど上がったところか。

そこへ車で行った。

旧国道が辞職峠へと行く徒歩道を二分している。

    この古道を上がりきったところを旧国道が横切る

 

 

旧国道の上に歩いて上がって行く人たちがかつて利用した茶店跡があるというので探すと、ここだろうと思う場所があった。

昭和10年ごろまで営んでいたという。

茶店の名は「さくらでんや」といい、敷地内に大きな桜の木があったので、その名がついたという。

 

そこに祠のようなものがあり、きれいに手入れされ祀っていた。

何を祀っているのか、「さくらでんや」はこの場所で間違いないか、近くに集落があり尋ねてみようと下りて行ったが、人影はなかった。

 

 

敷地内に割れた瓦が散乱していた。

茶屋は瓦葺きの家だったのだろうか。

 

石積みの跡も残っている。

地図では、ここからさらに尾根を上がって行くと、枝畝トンネルの上を古道は走っていたようだ。

さらに上の方で、他地域から峠に行く道と合流するようだ。

標高850㍍ほどの場所に辿り着けば、起伏が穏やかな道になるようだ。どこが辞職峠か起伏の少ない道を歩いて行くと本川地方入り口にやっと辿り着く。程ヶ峠は旧本川村と旧吾北村の村境になっているが、峠から長沢あたりまでの道中は、まだまだ山あり谷ありで、険しく遠いようだ。

 

旧の国道194号線を走っているとき、三叉路で旧大森トンネルの案内表示板が立っているのを見つけた。

通行不能、しかもここから3.4Km先、ちょっと遠いな、と思ったけど行ってみた。

 

大森トンネルについて調べてみると、高知の旧本川村と旧吾北村の村境にあった程ヶ峠(辞職峠)下を通る隧道(トンネル)で、新旧合わせて3本もあったようだ。

初代の大森隧道は、1935年(昭和10)に完成している。

2代目は1960年(昭和35年)に完成、現在のトンネルは3代目で1978年(昭和53)年に完成とのこと。

初代の隧道は、306㍍と長いにもかかわらず、幅員は4㍍しかなく狭かった。

年を追うごとに車の数は増加しはじめ、トンネル内で車同士の離合が出来ないケースが多くなり、2代目トンネルの建設を始めたという。

幅員5.1㍍、長さ429㍍で完成したが、喜びに沸いたのもつかの間で、完成直後に崩落事故が起きた。

脆い地質と大量の漏水、又、コンクリートの厚さが所々基準値に達していないといったずさん工事、などが起因するという。

国道194号線の二車線化や短時間化で、道路整備計画が推し進められていく中、1000㍍を超える3代目の大森トンネル(1184㍍)

は必要に迫られて完成し、現在に至っている。

 

旧大森トンネルへの道。

現在は通り抜け出来ない。

山仕事でたまに来る人がいるのか、車のタイヤ痕がわずかに残る。

 

 

途中、落ちてきた大きな石が道幅の半分ほどを占拠していた。

車はだめかなと思ったが、なんとか通れた。

 

 

 

 

 

このカーブを曲がると

 

トンネルが見えてきた。

入り口付近の道は、長年の間に周りの土砂が崩れ落ちてきて埋まっている状態だ。

トンネルの奥の方を見ると出口が見える。

 

 

埋め込まれた大きなプレートに「大森隧道」の文字がある

 

 

トンネルのかなり奥まで、土砂が大量に流れこんでいるのが見える。

近年はとてつもない豪雨がたびたび起こるが、その時に大量の雨水ともに流れ込んで行くのだろう。

 

車種もわからないくらいに押しつぶされ、土砂に埋まりかけの車が入り口付近にあった。  

 

 

 

 

後日、反対側のトンネル入り口にも行ってみた。

途中、道脇に槍のように鋭くとがった凸凹面の岩肌を発見。

珍しかったので写真を撮った。

 

先は針のように尖っている。

 

 

反対側のトンネル入り口。

こちらのトンネル入り口は、手前で車が侵入出来ないようにブロックを設置していた。

 

 

トンネル入り口は、侵入出来ないように金網のゲートがある。

 

 

結構土砂がある。トンネルの反対側の入り口から、こちらに向かって流れてきているようだ。

トンネル内でかなりの漏水があるのか、流れ出てくる水の量は多かった。

 

 

楮やミツマタの木が和紙の原料になるというのは知ってるけど、刈りとられた木がどのような工程を経て紙になっていくか、蒸してから皮を剥ぐ作業工程は見たことがなかった。

和紙の原料となる楮を、蒸したあと皮を剥ぐ作業が、昔ながらの方法で行われると聞いたので、まずは撮影許可のお願いで現地を訪ねた。撮影許可をいただき、作業日時や工程、大まかなスケジュールを聞いて帰った。

楮蒸し作業工程を写真で見たことは今までにあったが、実際に作業するところを見たことなかったので、とても楽しみにしていた。

 

1.2m程に切り揃えたコウゾの枝をカズラの木で巻いてしっかり縛り束ねる。皮を剥がしやすくするために蒸した後、集まった何人かの住民が1本ずつ丁寧に手で皮をむく作業が始まる。

こういった光景は山間の主産業のひとつとして、かつてはいたるところで見ることが出来たが、価格の低迷や高齢過疎の波が押し寄せて、作業を続けているところは年々減っているという。

 

水が入った大きな釜に束ねた楮を立てて置き、甑(こしき)という高さ2メートルほどの木おけを上からかぶせ、2時間半ほどかけて蒸す。

 

楮の枝は束にして両端をカズラで縛ってある。

 

 

 

 

蒸し上がると柱に吊した天秤棒で甗(こしき)と呼ぶ木樽を持ち上げるといった具合だ。

上げていくと蒸しあがった楮が見えてくるが、楮の上には竹かごにが載っている。

まずは竹籠を取り出してから、束ねた楮を取り出す。

かごの中は、サツマイモがいっぱい入っていた。

タイモも入っていた。

楮と一緒に蒸したサツマイモなどは、昼食時や一服の時にみんなで食べるという。

サツマイモの味は格別で、楮蒸し作業の楽しみのひとつのようだ。

           芋のはいった竹籠を取り出し中。

 

 

取り出した芋は湯気がたち上がり暖かく、寒い冬の作業にはありがたい。

大きなのをひとついただいたが、とても甘くて、しかも柔らかかった。

クリーミーな食感でとても美味しかった。

 

 

 

 

 

 

手分けして、一本一本皮をむいていく作業が始まる

 

 

 

 

 

 

剥がした皮、とりあえずは束ねて竿に吊す。

楮から剥がした皮は、茶色い皮がまだ付いているので、このままでは白い紙は漉けないので、楮の表皮の茶色い部分を皮はぎ専用の包丁「へぐり包丁」で削って白皮にするという。

この作業工程を「へぐり」という。
楮の木を育て、切って集め束ねて蒸した後は、皮剥作業。

なかなか地道で手間暇が掛かる作業だ。

 

 

 

 

 

愛媛の西条側から、寒風山、本川、新大森と1000㍍を超える長いトンネルを次々抜けると道は大きく左にカーブし緩やかな下り坂を下りて行く。右の窓外一面に広々とした下界が広がっているのが見えてくる。集落がいくつかある。

ここを通るたびにそこへ行ってみたい、と思いながらも用事や帰り時間を優先して、いつも通り過ぎていた。

昨年の11月、国道を途中で逸れて集落を目指し狭い農道を下りて行った。

         大野集落

 

国道下の傾斜地にある集落を横切る農道、少しだが地滑りが起きている。

新たに舗装されたアスファルト上にまた小さい亀裂が、、。

山腹にある集落は地滑り地帯が多いようで、地滑り地帯を記した案内板をよく見かける。

 

農道下は緩やかな勾配で一面畑だったようだが、今は耕作放棄をした土地も多くある。

乾燥した茅が敷いてあり、その上に太くて長い竹竿を並べて置いている。茅が風で飛ばされないように置いているのだろう。

愛媛ではあまり見かけない光景だが、トンネルを抜けた高知の山間ではよく見かける。最初のころは珍しくてよく見入っていた。

 

 

車で下りていく途中、人がいた。

車から降りて歩みより、どこから来て何をしに来たかを話し挨拶をした。この地区の住人で集落のことなどいろいろと伺うと親切丁寧にいろいろと教えてくれた。

車が通る194号線がまだなかった時代、旧吾北村の日比原から程ヶ峠を越えて本川に徒歩で行く山道が、この大野辺りを通り山上に向かってあり、多くの人たちが行き来していたことを、山を指さしながら話してくれた。

その古道の道のりは長く、しかも急傾斜で高低差があるため、つづら折りや曲がりくねった場所の連続で、峠を跨ぎ往来するのに過酷な労力と長い時間を要したという。

そのような山道であったため、高知の町から転勤や新任で新たな職場に行く人たちの中には、体力のない人も中には居たのだろうが、あまりにも過酷な山歩きに耐えかね辞表を提出して帰った、という話がこの地方には残る。長い道中で通る程ヶ峠という峠はいつの間にか辞職峠という異名で呼ぶようになったという。

道を歩き辞職峠(程ヶ峠)を越えて旧本川村で就く仕事といえば、営林署、警察署の署員や学校の教職員さん、建設関係の人たちが思い浮かぶ。そのあたりの職場内で最初は辞職峠と騒がれはじめ呼び始めたのだろうか。辞職峠と異名のつく峠は、程ヶ峠だけに留まらず県外にも存在するらしい。

辞職峠はどのあたりか、古道はどの辺りを走っていたのか、家に帰ってから地図を見てみた。辞職峠あたりはなだらかな起伏が続き新大森トンネルの上あたりに位置するようだ。古道は大野集落から新大森トンネルの上に向かって走っていたようで、現在は国道が横切り分断している。

そこは今どんなになっているか、古道の痕跡は残っているのか行ってみた。

 

まずは国道より下にあった古道を探して、、。

雑木林や人工林のなかをあちこちと探して入って行ったが、はっきりと古道だとわかるような道は見つけれなかった。

石積みの跡があり、このあたりかなとも思ったが、、、。

違うような気もした。

高知の町から愛媛の西条の間を走る国道194号は1963年に完成し60年ほどが経つ。

そしてこの古道の役割はだんだんと終えていったようだ。

もう古道が消えてもおかしくない年月が経っている。

 

 

今度は国道上に行ってみることに。

最初は、獣道のようなのが続いていたが、行くにつれて思った以上に枯れた茅など草木が繁茂している。

 

 

切り倒さないと前に進めない。カマなど持ってきてなくて、ここを進んでいくのは諦めた。

 

上がりやすい場所はないか探す。

ちょっと場所を変えて上がって行くと、鉄パイプの手すりが山上に続いているのが見えた。上って行くとコンクリート製の石段もある。枯れ木がたくさん立ち、年寄りにはそこまでは無理かな。

 

なんとか階段の側までは行けた。コンクリート製石段が山上に向かってずっと続いているのが見えた。が階段にも木が生え上って行くのは難儀しそうなので諦めた。

国道の上下の古道は国道工事で削られたり、埋もれたりして消滅しているようだ。

 

かつてあまたの先人たちが行き交った歴史を刻む辞職峠がある古道ゆえに、上り口あたりだけでも判るようにと、付帯工事で残したのだろうか。

難儀しながら山に上って行くとは思っていなかったので、山用の靴は履いて行かずカマやナタなども帯行せず、足下は滑りまくるし枯れた草木にも行く手を阻まれた。ケガしたらいけないので諦めた。なので石段がどこまで続いているのか、その先に何が見えるのかはわからなかった。いつかこの階段を上がっていき辞職峠といわれた程ヶ峠に行ってみたいが、、。地図を見るとかなり距離はあるみたい。今回は山歩き用の靴や鎌など、準備不足を反省。

 

昔、旧寒風山トンネルを抜けて高知市内に行けると聞き、自家用車で行ったことがあった。

もう半世紀近くも前の事で記憶は定やかでないが、5時間以上はかかったように思う。

その後はもう懲りたのか、高知に行くときは久万を通る国道33号線経由で何回か行ったように記憶している。

33号経由だと道幅は広いし、194号よりは楽に行けたような。

        旧大森トンネル(2代目大森トンネル)

 

あの頃の194号線は現在とは大きく違う。1000㍍を超える長いトンネルはなかったし、急峻な山間を這うようにして走る曲がりくねった一車線の狭い道が多かった。おまけに未舗装の砂利道やガードレールのない区間もあって、落ちたら大変。

緊張しながらの運転だった。

それでも、かつて先人たちが徒歩でいくつもの峠を越え往来することを考えると、比較にならないほど楽だった。

 

今は、2代目の新寒風山トンネルや3代目の新大森トンネルなど、長いトンネルの完成や全線二車線開通のお蔭で、アクセルを踏めば2時間半ほどで西条から高知市内まで、さらに楽に行けるようになった。おまけに、冷暖房付きの車内で汗かくこともなく快適に行ける。

遙か向こうに見える幾重もある山並みを見ながら、若い頃、石鎚山系やカルスト高原に登山口から大汗かきながら上がって行き、体力限界近くまで歩き回っていた頃のことを思いだす。

そして、かつて高知の町からこの古道を通り西条方面へと徒歩で行った先人たちは、何時間かけて行っていたのだろうか。いや、何日かけて行っていたのだろうか。この辺りを歩いて上がって行っていた先人たちの姿が思い浮かぶ。

 

 

 鞍瀬地域の伝統行事 『磐根神社の初笑い』

 

敗戦直後の暗く沈んだ空気を払拭しよう、と始まったといわれている鞍瀬地区の初笑い行事。

始まった頃は大晦日に行われていたようだが、いつの間にか元旦の午前中に行われるようになったという。

地区内の人たちや出身者たちが毎年大勢訪れて、賑やかに絶えることなく続いてきたが、コロナがはやり中止を余儀なくされた。昨年、コロナウイルスの位置付けがやっと5類に移行し、四年ぶりに再開する、との情報を年末に得ていたので、久しぶりに磐根神社に出かけていった。

神社に到着したころは薄い雲が上空を覆っていて、どんよりとした天気だったが、1時間ほどすると、だんだんと日が差してきて暖かくなり穏やかなお正月となった。

長年にわたり、両手に日の丸の扇子を持ち指揮を務めたW氏の姿が今年は境内のどこにもなかった。

尋ねると、4年というブランクの間に年を重ね引退とのことだった。いつもなら、拝殿入り口両脇に背の高い門松がたち、境内は参拝者で賑わったが、今年は門松はなく参拝者もいつもより少なく、静かな境内での初詣となった。

 

 

 

 

 

 

午前10時より神事が始まる。

W氏の引退や高齢過疎化が進む地域ゆえ、4年間のブランクを経て再開を決めるのは容易ではなく、開催が決まるのに年末近くまで時間を要したようだ。

なので今回は準備期間も短く、開催告知や準備など十分いき届かなかったのだろう。集まった人はいつもより少なかった。

 

 

今年は、長い間初笑いの指揮を担当してきたW氏に代わってS氏が担当することに。

 

日の丸の扇子を両手に持ち、足を少し開き立つ。

扇子の先が畳につくくらいまで前かがみになりながら両足を曲げ、ゆっくりと扇子をあげると同時に両手を広げていき

「ワッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ」

「ワッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ」

「ワッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ」

と三度繰り返す。

訪れた人たちも同時にバンザイをするように元気よく両手を上げて大笑いをする。

アンコールがありもう一度大きな声で繰り返す「初笑い」。

 

 

初笑いのあとは、暖房機具を囲み酒など酌み交わし、新年の挨拶や話に花が咲く姿があった。

コロナ前までは、拝殿のあちこちに何人かづつの輪が出来て、子供たちはお菓子やミカンを頬張り、甘酒(アルコール分なし)を飲みながら和やかに過ごす姿が見られたが、4年ぶりの再開やコロナの終息も見えていないということで、出足は鈍くちょっと寂しい集いに思えたが、来年からは、また元通りの賑わいを期待したい。

 

 

 

山へ行く途中、学校跡が見えてきたので、静かな場所で一息つこうと運動場だった広場に車を停めた。

車から出て、緑に囲まれた単調な景色を眺めながら、数枚シャッターを押した。

アジサイの木が目に入り、近づいてみた。

花はとっくに咲き終わっているはずなのに、茶色くなった花びら一枚一枚は、あまりしおれてない。

咲いたままで脱色したような。

ドライフラワーのようだった。

隣でピンクがかった桜の花が咲きはじめている。

まだ11月なのに。

今どきの気候だから、いつごろ花を咲かせていいのか迷っているのだろう。

夏に、山間のお年寄り宅を訪れたとき

ワサビの葉っぱ漬けをいただいて帰った。

山の珍味で、家族で少しずついただいた。

 

お礼も兼ね、久しぶりに伺った。

 

声をかけるとすぐ返事があり、しばらくしてから戸があいた。

 

 

お礼を言ってから話していると

獅子鍋しよるから食べて帰るかと。

 

遠慮せずにいただいた。

あっさり味でとてもおいしかった。

山では猪鍋を何度もいただいたが、それぞれ味が違うし具もいろいろ。

 

栗の木も、そろそろ落葉の時期。

 

いちばん向こうに見える山の稜線。

一番低くなったところが天ヶ峠と教えてくれた。

峠を越え谷沿いに下りていくと、かつて千足山村(石鎚村)の村役場があった

槌之川集落にに行ける。

天気はあまり良くはなかったが、雨は降らずの一日だった。