ア-ルの写真記

ア-ルの写真記

四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
写真を撮ってます。写真は記録!旅は人生の肥やし!
(日本写真家協会 会員)
(ブログ内画像の無断使用、転載は遠慮ください)

 

黒森峠を越えて久万高原町へ。

峠は「秋」真っ盛り。

気温は車載温度計で5度を表示。

 

11月3日に久万高原町へいったとき、道脇の畑で、お年寄りが収獲が終わったカボチャの枯れかけのツルを集めていました。

歩み寄っていき声をかけたら、作業の手を止めて、近くの手押し車に腰掛けて一休み。

集落などについてちょっとだけお話を伺った。

「18日が祭りで神輿がでるから来たらええわい」と。

この集落の住人は今はもう2人になった、とも聞きました。

11月18日

聞いていた秋祭りを見に八幡神社へ。

879mの峠を越えて来る山道が近いよ、と聞いていたので、その道を。途中、対向車とすれ違うこともなしに、すんなり行けました。

 

峠を越えて坂道を下っていくと民家が。

 

 このあたりの地形、大昔に山がずって形成されたのだろうか、ななだらかで広大な傾斜地だ。山道をゆっくりと下りてきながら見渡しているとそんな気がした。

石垣が方々に見え、上には田んぼや畑が拡がっているが、耕作放棄地もあちこちに。道横の石垣は、大小様々な石が、リズムよく上手くまとまって積まれている。おまけに石の一つ一つの角は多くが丸みを帯びていて、優しさを感じる石垣。ちょっと個性ある石垣だな、と写真を撮った。山間の集落に行くと、至るところに石垣を見るが、石質、積み方、それぞれ個性があり見ていて楽しいもんです。 

のぼりが立っている。

このあたりもお祭りのよう。

 

茅葺きだった家をトタンで覆った家の軒下に、干し柿がぶら下がってました。

 

途中で石墨小学校(昭和56年閉校)跡を見に行き、その後目的地へ。

 

神社に行くと、宮出し時間はすでに過ぎていて、境内にはだれもいませんでした。前に来たとき、お年寄りと会った集落へ行くと、3人が神輿が来るのを待ってました。各集落をトラックに乗せて渡御中で、11時半ごろ到着予定とのことでした。ちょっと風が冷たい祭り日でしたが、到着を待ちました。

神輿を積んだ4㌧ほどのトラックが到着。

休み台を道路上に並べ神輿を据えると、道路上で神事は始まりました。「エッ!道で神事!車が来たらどうするの」とちょっと心配しましたが、お世話人さんたちは平気な様子。道幅は4㍍ほどですが、一応県道です。ラッキーというか、あたりまえというか神事中に車は一台も来ませんでした。ほんとうにのどかな山村の祭り風景です。😊  

 

 

神社入り口あたり、黄色く色づいていました。

 

 

神社の階段を上がると両脇に大きな狛犬が。

 

この神社が創設されたのは、天正十八年(1590年)とのことです。 今から430年以上も前のことになります。

 

神社の両脇を谷川が流れ、おまけに周りを年を重ねた大木がご神木が覆い、陽はあたりにくいようで、湿度はいつも高め。拝殿にある奉納された絵馬などは水分を含み、カビが生えたり水気が染み、にじんだ跡がほうぼうにありました。

  明治時代のかな、絵馬が掛かっていました。

当地域名産の良木を材料にしているのは勿論だと思いますが、各所に手の込んだ彫物や装飾を美しく施していて、とても風格があるし、しかも大きな神社です。

  

 

   宮入が終わりそろそろ帰ろう、と思ってた時、御世話人さんから「公民館で直会をするけど、よかったら来ませんか」とお誘いをうけました。またとない機会、この際甘えてついて行けと、会場に行きました。、暖かくておいしいお汁をいただきながら、御世話人たちと楽しく話しができ、体も心も暖まり、お汁のおかわりをしてしまいました。

充実した一日を過ごさせていただきました。😊

 

 

 

 

帰りも山道を通るコースで帰ったのですが、来た道と同じでは面白くないなと、違う道を。普通車がやっと通れるくらいの狭い場所がある札峠(857m)を越える県道を帰りました。狭いなと思っていた峠付近の道は、拡張工事中でした。初めてここを通った5~6年?前、峠付近からは堂ヶ森が遠くに見え、見晴らしはよかったのですが、植林した木が目前に立ちはだかるように成長していて、車中からは遠方を望めず、堂ヶ森は見えませんでした。

 

朝7時に家を出て久万高原町の古岩屋方面へ、いつものように黒森峠経由で。

峠を越えたら久万高原町、坂道をどんどん下って行けば面河湖が見え始め、湖面に架かる白い橋もみえてくる。が、今まで一度も人が歩いている姿は見たことない。近くの面河公園にも遊具などは若干あるのに、あたりに人はまばら。一人も人がいないときが多いような。二昔も前ごろは、もうちょっと人がいた記憶がある。この湖面に架かる橋は吊床版(つりしょうばん)式と呼ばれる特殊な工法の吊り橋で四国では一番長いとのこと。ちなみに橋の名前は「四季彩橋」。せっかく大金を投入して架けた美しい橋なのだから、もっと利用促進のPRを。

 

途中、道に栗がたくさん落ちていた。ちょっとだけ車を止めて下りていって見ると、まだ種が中に入っていそうなのがいっぱいある。近年、栗を見つけても、猿が種をとって食べるのか、イガ栗の中は空っぽが多い。このあたりは猿が少ないのだろうか。

旧面河村の村役場があった渋草あたりにさしかかると、前方に小学校の運動場にテントがいくつも張られ、万国旗がたくさん並んでヒモにぶら下がっているのが見えてきた。運動会のようで、車を駐めてから運動場へ行きしばらく眺めていた。そろそろ運動会は始まるようで、校長先生に会い撮影許可をいただいて、写真を撮った。

この日、天候は「晴れ」で運動会日和。

 

運動会当日、面河小学校に在籍する小学生の数が3名と聞いて「えっ」と思った。入場行進する生徒はそれより多いので、横にいた人に聞くと、地域の中学生が応援で参加してくれたとのこと。どうりで大きな子がいると思った。はちまき姿は中学生で、小学生は帽子を被った3名が面河小の児童。

 

地域に住む人たちだろう、おおぜいの人がテントの中から応援しながら見ていました。

運動会が終わってから、まだ日もそんなに経ってない10月29日の朝、新聞を見て、たまげました。今年度で面河小学校は休校し、来年度末で閉校にすると、町議会で決定したという記事があった。

旧面河村内で尋ねたことがある石墨、城山、若山小学校はすでに閉校になっていて、面河小学校だけが唯一の小学校でしたが、閉校となると、旧面河村からは全ての小学校が消えることになる。この日の運動会が、面河小最後の運動会になるのかと思うと、切ない。

 

 

久万高原町の山間を車で走っていると、道縁にのぼり旗が立っている。近くで祭りだろうか。道脇にあずまやのような建物があり、その前で年を召した婦人3人が草取をしている。車を駐め寄っていき旗のことを尋ねた。来週祭りがあるので、今日は村の人が出て草取りや掃除をしているとのこと、終わったら皆で焼き肉で慰労会を行うという。そのうちに作業を終えた人たちが集まりだして、肉を焼く煙があがりはじめた。

来週になったら近くの神社で秋祭りが始まり、神輿が渡御し、神社境内で雄獅子が舞う奉納があるから、見に来ないかと、お誘いをいただいた。

 

祭りの当日。

お天気はよさそう。

朝早く家を出て、いつものように黒森峠経由で久万高原へ。

 

広い畑でピーマンを作っているようだが、収獲を途中でやめたのか、赤くなったピーマンが大量にあった。

 

 

 

今日は秋祭りで村の大イベント。

村を離れて住む人たちも来ているようだった。

 

境内で舞う獅子は雄と聞いているが、神社の宮司は女性だった。

 

なるほど!これが雄獅子かと納得。

 

獅子舞奉納が終わり境内での催し事は終わり。

日が傾きはじめたのでそろそろ帰途へ。

帰りも山中の道で返っていった。

山が囲む畑で、ご年配の方が農作業をする姿があった。

 

 

ぼつぼつ民家が見え始めた。川向こうにも集落があり、トタン板で屋根を覆った民家が3軒が並んで見える。昔は茅葺きの屋根だったのだろう。そんな時代に、このあたりの景色を見てみたかった。

 

「ご自由に持ち帰りください」と段ボール箱のフタに書いて、ハヤトウリが畑の横道においてあった。親切にあまえて、二ついただいて帰り、薄切りにして酢ものにした。シャキシャキとした食感が良かったし、美味しかった。感謝!

 

ここにもトタンで捲いた大きな家がある。

 

今の時代、珍しくなった半鐘台がたっている。昔幼かった頃ころ、半鐘の音を聞いたのは、近くで起きる火災か台風災害の時だけ。この半焼台に吊されている半焼を見たとき、あのときの半焼の音が聞こえた。

 

現在、山は植林した杉や檜がどこも生い茂り、赤松が生える場所は所狭しとなった感がある。帰り道、このあたりは珍しく赤松が林立していた。赤松の近くにはマッタケが生えてるかもしれないと思いながらも、あるわけないだろうといい聞かせ、帰りを急いだ。

 

 

民家前の庭に、短く切った丸太がいくつも転がっていた。暖房や風呂、台所用にと、丸太を割って薪を作るのだろう。山間の朝晩の冷え込みはもうそこまできている。そろそろ冬支度。

帰り道、面河の湖畔に立つ、斜光に燦めく銀杏は、秋らしく葉は色づいていた。

 

 

7月下旬に、寒風山トンネル手前にある中ノ池集落へ行事の撮影で行った。終わってから帰る途中で下津池集落に立ち寄って、段畑や棚田がある山の方へと、途中までだが歩いて上って行ってみた。耕作を諦めて雑草が生える棚田や段畑を見て、訪れる度に増えていくなと思いながら、しばらく散策をした。細い山道を歩いていると、草刈り機のエンジン音がお堂の方で聞こえてきた。暑い日中、作業をしている人がいるようだ。エンジン音が聞こえてくる方へと行ってみた。男性が一人、お堂周りの草を刈っていた。しばらくしてからエンジン音は止んだ。早速「こんにちは」と声をかけ近寄っていくと、笑顔で迎えてくれた。そして、棚田やお堂のことなどについてちょっと尋ねた。

8月23日に「地蔵盆」があり、お堂で集落の人や元居た人たちが集まってきてから拝むという。「よかったら来てみてら」と、誘ってもらった。地蔵盆と聞いても自分が住んでいる地区では聞かない行事で、ピンとこない。

下津池の地蔵盆行事がどのように行われているのか、興味あったので行ってみた。

 

9時過ぎに到着すると、すでに10人ほどが来ていた。久しぶりに顔を合わせる人たちもいたのだろう、何人ずつの輪が数組できていて、世間話に興じていたようだ。

 

どこかの住職が来て拝むのかな、と思っていたが、前に立ち寄った時、お堂周りの草刈りをしていた男性が、仏前の一番前に正座して、般若心経を唱え始めた。ほかの人たちもそれに倣って唱え始めた。数分で般若心経を唱え終わると、仏前の一番前にいた男性が振り返った。般若心経を1回唱えてもうこれで終わりのようだ。「エッ、もうこれで終わり」、とちょっと唖然とした。昔は大きな数珠があり、それを参加者が回しながら「数珠繰り」していたようですが、壊れてしまい今はしていないとのことだった。お経を唱え終わると、集会所に移動して御斎に移るようだ。それに参加せず帰る人もいて、一緒に階段を下りて行き帰った。

 

ここの地蔵盆行事を見てから、幼かった小学1~2年の頃の夏、曾祖母宅前の道を隔てた一角に建つ、縦横高さ1㍍たらずの何かを祀る小堂と、前を流れる小川での出来事を思い浮かべた。陽が山に沈みかけた頃から曾祖母はじめ大人たちが小堂前でローソクを立て燈明をあげ、拝む姿があった。そして、前を流れる小川の縁には、子どもたちが集まってき来ていて、世話人からもらった5㌢ほどの小さなローソクを、持ってきた木船に立てて川面に浮かべている。丁度、曾祖母の近くにある祖父母宅に行っていた私はというと、風呂の薪に使う製材の切れ端を叔父がノコギリで舟先のように尖った形にし、適当な長さに切り、木舟を作ってくれて、曾祖母たちがいるところに行った。そしてもらったローソクに火をつけて木舟に立て、川面に浮かべた。小堂と近くの小川に集まる人たちや、火が灯る木舟が、何艘も川面に浮いていた夕景が、未だに印象深く記憶に残っている。

あれは、いったい何の行事だったのだろうか、と昔から思っていた。

薪の切れ端で作った木舟を浮かべ遊んだあの日の出来事は、地蔵盆の行事だったのでは、と思い始めた。そして早速、その日のうちに昔の記憶が残る場所に行ってみた。同じような建物と行事があった他のもう一個所も覚えていて、近くなので両方の場所に行ってみた。木舟を浮かべて遊んだ川前の小堂には新しい花が生けてあった。もう一方の小堂は、開き戸が開いていた。中を覗くと地蔵が鎮座し新しいお菓子が供えられ、生けて間もないシキミもあった。

昔のように、子供たちがおおぜい参加しての舟を浮かべる行事はもうないが、近所の誰かが地味だが黙々と受け継いできているようで、その場所は荒れることもなく清掃されていて、微笑ましい気持ちになった。

自分が育った地域には、「地蔵盆」行事はなかったので、恥ずかしながら地蔵盆という言葉をまわりからは聞いたことがなかった。舟を浮かべて遊んだあの行事は、子供たちを守った地蔵尊をお祀りする「地蔵盆」だったようだ。下津池に立ち寄ったことがきっかけで、65年ほど後になってやっと知った。

 

吉田類の酒場放浪記のテレビ番組を録画しておき、静かになった夜、番組を肴にひとりで呑むのは、至福のひとときです。笑

酒場放浪記や日本100低山でおなじみの吉田類氏は、高知の仁淀川が流れる静かな山間の出身と聞いています。日ごろから山間へはよく行くので一度は訪ねて行ってみたいな、と思いながらも、今まで行けてませんでした。

先日、高知の仁淀川町方面に行ったとき、ついでだからと、ちょっと足を延ばして訪ねてみました。大まかな地名は聞いていたので、このあたりかなと、とりあえず谷川沿いを走る国道を逸れて、山道をドンドン上って行きました。

途中、前方に人がいたので、車を降りていき、吉田類の生誕地を知らないか尋ねました。

すると、国道をはさんだ谷向こうの山中の方に向かって、「遠くに見えるあの集落だよ」と。吉田類が生まれた家を買い、僕の友達が今住んでいるよ、とも話してくれました。

こんなに早く場所が解るなんて、ラッキー。

来た道を引き返し、教えてくれたように橋を渡り、対向車に出会うとヤバイような狭い山道を上って行きました。すると広場に出くわし、舗装道路はここで終わりのよう。車を降りてうろうろしていると石段道があった。下りて行くと家があり、人がいて何か作業をしている様子。下りて行き尋ねると、こちらへおいでと手招きし、見晴らしのいい場所に案内してくれました。

 

「向かいの山に家が5軒ほど並んでいる。木で隠れていて、こちらからは見えないが、民家が並んで見える他に、左側に民家1軒と神社もあるよ。あの集落が生誕地」と教えてくれ、来た道を又引き返して行き、教えてくれた空き地に車を駐めから集落へ。

やっと吉田類の生誕地に辿り着きました。

 

 

 

集落に入っても人は見ないし、声も聞こえてこない。

人は住んでいるようだが。

あたりを少し散策してから、神社に行きました。

新しい注連縄が吊してあり、少しばかりの賽銭をいれて手を合わせた。

 

 

山から下りて来たら、橋の橫にある休息場所で子供が一人、アユを釣るのだと、準備をしてました。

幼かった頃よく川で遊んだ、とテレビなどでいってたけど、きっとこの川のことでしょうね。

吉田類が、この川で遊んでいたんだな、と想像をしながら見ていると、この川は特別な川に見えてきます。

 

腹が減っていたので、帰り途中、旧池川町で店に入ると、「仁淀川まんじゅう」なるものを売っていた。口に頬ばながら、帰ってきました。

美味。

2012年、西条市東之川集落に通じる唯一の車道が、大規模な山の崩壊で通行が長期間にわたり不能となり、住民は山を下り、集落内に住む人はついにいなくなりました。道の崩壊から3年後、東之川に通じる車道の付け替工事をして、復旧を果たしましたが、住んでいた人が再び帰ってくることはありませんでした。それから10年余り、集落の氏神、高智八幡神社は近くの大元神社に合祀するとのこと。この神社では最後のお祭りとなる、ということで行ってきました。高智八幡神社は、今から410年ほど前、この地にやって来た工藤家により創建されたのが始まりということです。昔住んでいた人やその子や孫たち、関係者が集まっての神事。その後は餅まき、そしてこの地方では定番の猪の焼き肉料理をほおばりながらの楽しい時間を過ごしたようです。

西之川から東之川に通じる車道。急峻な岩肌を砕いて作った道。道下を覗くと、谷川がほぼ真下に見えるところもありました。

 

 

 

高智八幡神社では最後の春祭り。皆で集合写真です。

 

 

 

 

 

お稲荷さんの鳥居

稲荷神社

 

古くからおたるの滝上には金比羅さんや天神さんを祀っていたが、大正時代に高智八幡神社境内に移したという。それらを祀っているのだろうか。

 

 

接待館建設に際し、寄付をした人物の石碑が立つ。

 

奥に見えている建物が接待館で、いわゆる神社会館のことか。かつて東の川集落には三菱系の鉱山があった。鉱山関係者も住人と交流しながら頻繁に利用したかもしれない。

 

 

 

東之川の高智八幡神社の春祭りでお札をいただいて帰った。ここでいただく最後のお札。

 

日本は、山岳国家と呼ばれてもおかしくないほど、山地の占める割合が多い国です。かつては中山間地域における農業は、日本の耕地面積の約4割、また農家の数でも約4割を占めていて、日本の農業にとって重要な役割を果たしてきたといいます。近年、中山間地域で先祖代々受け継がれてきた田畑の耕作放棄が、急速に増えてきているように、行く度に感じています。今年は急速な米不足と価格高騰が続いています。耕作放棄地の再開が少しはあるのでは、と期待をしてます。しかしながら、田植えシーズンがやって来てますが、その気配は見あたらないようです。高齢化には勝てないようです。

耕作を諦めてから、まだ数年しか経っていないと思われる棚田。

久万高原町立野の石灯籠撮影へ行ったときに、「休場にも石積みの灯籠があるよ」と教えてくれて、日を変えて行ってきました。家で地図を見ながら場所を調べていた時、写友が住む集落近くの橋を渡って行くことがわかった。

朝8時過ぎに家を出で、寄り道しながら橋近くまで。橋を渡る前に、車を駐めて旧国道沿いの閑静な集落に入って行って、ちょっとだけ散策。人に出会い、写友のことを尋ねたら、この近くに住んでることを教えてくれて立ち去った。またあたりをうろうろしながら歩きだして数分後、後ろから声をかけてくれ、緩やかな坂道を下りてくる人がいた。久しぶりに会う写友のOさんだ。休場の石灯籠を見に来たと伝えると、経年劣化で傾きかけていたので、昨年補修をしたことなど教えてもらった。

歩いて細い道を上って行くと、前方の石垣上に、灯籠が立っているのが見えた。思っていたより高いな、と感じた。

 

 

地面から宝珠の先まで、4㍍近くあるだろうか。

 

灯籠の一番上にある石に「金」の字が刻まれている。金比羅さんの「金」とのこと。建てられた時期は不明だが、明治時代ではないか、ともいわれているそうだ。灯籠は高台にあり、しかも背が高いので、遠くからでもよく見えたと思う。

縁日や祭り日などには灯されていたのだろう。

 

石垣上は平たんで広場のような感じで、端に灯籠はたっている。根もとの直径が、20㌢ほどの木が何本も生えていたのを根もとから切ったのだろう。切り株がいくつも残っていた。草が生えて切り株が隠れ、写真を撮るため橫や後ろと草むらを移動していると、足に当たり何度か転びそうになった。昨年、灯籠の石垣を補修したと聞いたが、火袋も新しくやり替えていた。近づいて見えずセメント製か石材かわからなかったが。このあたりに生えていた雑木も灯籠補修をしたとき、一緒に伐採したのだろう。

 

灯籠のある広場へと坂道を上がっていくと、入り口に左右に岩のような大石が座っている。左側の石は単なる石の塊だが、右の石はよく見ていると、犬のような形。狛犬に見立てて、昔置いたのだろう。

奥に金比羅堂というお堂が建っていて、ちょっと外から覗いてみたが、近年は祀られてないような感じだった。

 

 

 

舗装道路に遮られてわかりにくいが、左上から右下に向かい、かつては活躍したと思う古道が残っている。上って行ったところに狛犬のような石が座っているが、そこから何十㍍か上って行ったところに、河内神社があるようだ。知っていれば行ったのに。その時は気がつかず、返ってから地図を見て知った。そしてこの古道、昔は神社に行ける参道だったかもしれないとも、ふと思った。

休場から仁淀川を隔てた向こう側を望むと、明神山とも呼ぶ中津山があり、山腹には数々の集落が見える。

 

 

 

久万高原町の中津地方、手入れされた茶畑を方々で見ました。気候が適しているのかお茶の生産が盛んなさかんなようです。

 

柳井川の石灯籠を見るために山を上って行っていると、岐路に「早虎神社」に行く道標がある。道標があるほどだから、このあたりでは名の知れた神社だろう。来たついで、帰りにちょっとたち寄った。

 

 

人里離れた山間で、数十本の杉の大木が茂る森中に神社はあった。社に通じる石段の両脇には、石灯籠とともに大木が立ち、迎えてくれた。石段を上がって行くと正面に拝殿が見える。まず目についたのが、拝殿正面を飾る龍や鷹のような鳥を模った彫刻。引き寄せられるように近づいて行きみると、神社に住み着いて境内を見守っているかのように逞しく力強そうな表情をしている。

 

 

 

 

製作した当時は、美しく色づけしてあり、艶もあったと思うが、経年劣化で色は褪せて、はがれ落ちていた。

 

 

 

神社の由来を書いた境内に立つ説明ボードによると、旧柳井川村の総鎮守の神さまで、創建は596年とも728年ともいわれていて古いようだ。この場所に移転再建したのは1855年(安政2年)で、長州大工が社殿を建てたとある。はるばるこの山深い地にまでやって来て、建てる長州大工の意気込み、そして腕前は、相当なものがあったと思う。長州大工の作品を見ることができ、立ち寄ってよかった。

愛媛新聞に、立野の石灯籠のことが写真入りで載っていた。写真を見て、すぐに旧石鎚村に残る石積みの灯籠によく似ていると思った。立野の灯籠を見てみたいなと思いつつ、ずっと行ってなかった。新聞掲載されていたのはもう昨年のこと。やっと行って見てきました。

新聞には、毎日欠かさず灯籠に燈明をあげ拝んでいるとのこと。今も続いているだろうか、と少々不安な気持ちを抱きながら行きました。地図で立野の位置を調べるとかなり山上のよう。灯籠は標高700㍍弱ほどの場所にある。道はややこしく曲がりくねり、枝分かれしたり途中で消えたりしながらたくさん地図上を走っているが、立野に辿り着ける道は多くはないみたい。どの道を通って行けば良いのか、地図とにらめっこしながら赤線でなぞり、道が分岐するところは注意するようにと、○印で囲んでおいた。そして、地元出身の写友に道を尋ねたりもした。お陰で思っていたよりすんなりと、集落に到達することができました。

 

車を駐めてから、狭い道を上がりはじめると、なにやらガタンと音が。

たまにしか来ない訪問者を察して、空き家にたむろしていた猿の群れが、驚くこともなくぼつぼつと山に帰りはじめた。

 

坂道を100㍍ほど上がっていった曲がり角の脇に、灯籠は立っていた。

高さは、道からだと2㍍ほどか?石積みは永年の風雨にさらされ続けて、劣化もあったのだろう。石のすき間にセメントを詰め込み、上部もセメントで平らに補修して、上に火袋を置いていた。

丁寧に作られた火袋には、開き戸というか窓があり、中にろうそくなどが置いてある。開いたままで拝み、戸は閉めてかえる。

 

昭和の30年代、集落に28世帯が暮らしていたが、産業の衰退と高齢化により、だんだんと山を下りていきはじめ、現在は、一年を通して住み続ける世帯は1世帯。写真のご夫婦だけになった。

 

石灯籠から、山腹を橫に這うようにして道は続いているようで、雑木が茂る中を、ちょっとだけ奥に入って行ってみた。灯籠橫を走る道は、長く続く街道が多いが、車社会到来前の昔は、この道も、峠を越え山を越えて集落に辿り着き、さらに延々と続いていたと思う。

 

防火用水槽