愛媛の西条側からそらやま街道(国道194号)を走り、寒風山、本川、大森トンネルと1000㍍を超える長いトンネルを次々抜けて行くと、山中にしては珍しく営業しているガソリンスタンドがある。道路右下には谷川が道に沿うようにして流れていて、谷川両岸に家が立ち並んでいる集落が見えてくる。
谷川の向かう側はなだらかな斜面が広がり、家屋などの建物があり家周りに畑が広がっている。
山麓にコンクリート製の白い建物が目だつ。聞くと昔は病院だったが、今は移転し閉院しているという。
斜面上の方に、「なんであんな所にあるの」と思う珍しい相撲櫓が建っていて、そらやま街道(R194号)を通るたびに見え気になっていた。
昨年夏頃だったか、国道を逸れ両脇に家が建ち並ぶ狭い道をのろのろ運転で入って行き、気になる相撲櫓の建つところへ行った。
土俵がまだあり、上をブルーシートが丁寧に覆っていた。
もう久しく使ってないと近くに住む方から聞いた。
子供たちが多くいたころは、祭りの日や縁日などに賑やかに相撲大会をしていたのだろう。
先日、再度その集落に行った。
空き家となった家が結構多くあり、静まり返った集落に思えたが、しばらく旧道を歩いているうちに畑や道や家前で何人かの人を見かけた。
欄干の両端が柱のように高く伸び、先端に電灯が座るレトロな橋が谷川に架かっていて、昭和5年架橋と刻んだプレートが欄干に埋め込んであった。
橋のたもとに、珍しい四角形のコンクリート製電柱も現役でたっていた。昭和の時代を彷彿とさせてくれる珍しいものが残る場所で、居心地よくてしばし佇んだ。
後で知ったが、現在の国道が完成するまでは、レトロな橋が架かる狭い道が国道だったという。
林業が盛んだったころは、木を積んだトラックがこの狭い橋上通り頻繁に往来していたという。橋を渡ると狭い道は直角に曲がり続くが、そこを上手く通り抜けて行っていたというからすごい。
ここは昔、清水村(きよみずむら)と呼ばた地域だが合併で吾北村となり、さらに平成の大合併で、現在いの町清水日比原というところ。
かつて、日比原には旧国道に沿って商店がいくつもあったようだが、今は山間集落のどこもがたどる運命、過疎化で人口減の波が押しよせ、次第に閉店を余儀なくされているようだ。
以前来たときは、雑貨屋さんが橋のたもとで営業していたが、前を通ると戸は閉まり、丁寧に閉店を告げる旨を書いた張り紙が入り口にあり、寂寥感を覚えた。
しかしながら、洋品店と旅館の二軒は旧道で営業をしていて、まだまだぬくもりのある風景は残っている。
日比原は標高200㍍余りの地にあるようだが、周辺の山間部集落と比べると谷川のそばに位置していて低い。
この山奥に車道がまだない時代、旧本川村の長沢方面に行くには、ここ、日比原から山中を縫う古道を上って行き、標高850㍍ほどの程ヶ峠を超え、長い道のりを時間と労力を費やし徒歩で行かなければならなかった。日比原というところは、古くから程ヶ峠を越えていく山道のとりつき口となっていて、製炭や楮蒸しが盛んなころは、炭や楮製品の集積地でもあり、多くの人たちが集まって来ては賑わった場所だったという。人が歩いて移動していた時代、一日10時間歩き続けたとしても40㎞ほどしか移動できない。荷物を背負って坂が続く道を行くとなると、さらに歩行速度は遅くなる。今なら、車で一時間もかからない距離なのだが。
歩いて山を越えて行くとなると、現在のように日帰りは簡単に出来なかった。そんなことで、交通の便が良くない昔は、山間の集落には宿屋(旅館)が多くあった。日比原にも商人や役人などが村外からやって来て宿泊したり、また移動途中で利用する宿がかつて数軒あったようだ。
今も百年以上の歴史を持つ川又旅館という宿が、旧道にあるレトロな橋のたもとで営業をしているのを聞いていたので、泊めてもらった。夕飯前に薪で沸かす五右衛門風呂に入り、体の芯まで暖まり五右衛門風呂を堪能させてもらった。昔、祖父宅に行くと薪で沸かす五右衛門風呂に入っていたが、あの頃を想起した。
翌朝、宿を出るときはご夫婦で見送ってくれ、安価な宿泊代にもかかわらず、おにぎり弁当まで持たせてくれた。
まさに「旅の宿」と行った風情があり、私にはいい宿だった。
夏になったらまた行って、窓辺の露台に腰をおろし、真下を流れる谷川を眺めながら冷たいビールを飲みたいな、と思っている。
日比原から、さらに山中に向かって行く車道がまだ整っていなかった時代、高知の町や下流の村や町から、本川の長沢あたりに行く人たちの多くはここにやって来て、ここから徒歩で山道を上り程ヶ峠を越えて行っていたという時代があった。
日比原は、その道の取り付き口だったということはすでに記したが、日比原から行く道のりは長く、しかも急傾斜や高低差のあるつづら折りや曲がりくねった道の連続で、峠を跨ぎ往来するのに体力を要し、喘ぎながらの道中だったという。
そのような酷道であったため、高知の町から転勤や新任で新たな職場に行く人たちの中には、体力のない人も中には居たのだろうが、過酷さに絶えかね敬遠し、とうとう辞表を出し町に帰って行った人がいた、という話が伝わり始めた。
そして、いつの頃からか道中で跨ぐ程ヶ峠は「辞職峠」という別名でも呼ばれるようになった。
酷道を歩き程ヶ峠(辞職峠)を越え、さらに険しい道を行き、やっとたどり着いた旧本川村で就く仕事といえば、営林署や警察署の署員や学校の教職員、建設関係の人たちが思い浮かぶ。
それらの職場で「辞職峠」という名は広まっていったのだろうか。
この階段を上って行くと、山道に入って行く登山口がある。
上がりきったところに寺がある。
門札にある寺の名よりも、私の菩提寺の宗派と同じ「臨済宗妙心寺派」の字のほうが目についた。他県の山間で見て親しみを感じたからだろう。
千手観音が寺に祀られていて、縁日には周辺の山間集落からおおぜいの参拝者が来て石段の参道は混雑し、人の行き来もままならなかった時代があった、と参道の掃除をしていた老婦人が懐かしそうに話してくれた。
この寺は鐘楼があり、未だに5時がくると鐘の音が16回、毎日集落に響き渡る。
寺近くの住人が鐘を突く世話をしていて、鐘が鳴る音を聞きながら見ていた。
寺の橫を通り入っていくと、あの辞職峠の異名を持つ程ヶ峠に行く古道の上り口が見えてくる。
道中の安全を見守るように、上り口に石像が鎮座している。
古い地図を見ると、標高250㍍足らずの日比原から枝畝という尾根を伝って上って行く古道があり、標高600㍍あたりで旧国道と出くわしている
日比原からだと高度にして350㍍ほど上がったところか。
そこへ車で行った。
旧国道が辞職峠へと行く徒歩道を二分している。
この古道を上がりきったところを旧国道が横切る
旧国道の上に歩いて上がって行く人たちがかつて利用した茶店跡があるというので探すと、ここだろうと思う場所があった。
昭和10年ごろまで営んでいたという。
茶店の名は「さくらでんや」といい、敷地内に大きな桜の木があったので、その名がついたという。
そこに祠のようなものがあり、きれいに手入れされ祀っていた。
何を祀っているのか、「さくらでんや」はこの場所で間違いないか、近くに集落があり尋ねてみようと下りて行ったが、人影はなかった。
敷地内に割れた瓦が散乱していた。
茶屋は瓦葺きの家だったのだろうか。
石積みの跡も残っている。
地図では、ここからさらに尾根を上がって行くと、枝畝トンネルの上を古道は走っていたようだ。
さらに上の方で、他地域から峠に行く道と合流するようだ。
標高850㍍ほどの場所に辿り着けば、起伏が穏やかな道になるようだ。どこが辞職峠か起伏の少ない道を歩いて行くと本川地方入り口にやっと辿り着く。程ヶ峠は旧本川村と旧吾北村の村境になっているが、峠から長沢あたりまでの道中は、まだまだ山あり谷ありで、険しく遠いようだ。