平成の大合併といわれ、全国津々浦々の市町村が合併をしていた時代、面河村も2004年(平成16年)に、面河、柳谷、美川の3村と久万1町との合併で、久万高原町となりました。
合併前の面河村には、かつて若山、面河、渋草、城山(じょうざん)、石墨、笠方とそれぞれの名前がつく6つの小学校がありました。しかしながら、昭和から平成にかけて第一次産業から二次、三次産業へと国内産業が流れゆく時代に、山間の面河地域に住む人たちの生活を支えた農林業は衰退、そして高度経済成長時代に入ると、職を求めて村を出て行く人たちはだんだんと増え、過疎化が進行し、子供の数は減少へと転じはじめました。
また、戦後になって世の中に明るい兆しが見えはじめるや、児童の学力向上と教育予算の合理化、教育効果の能率化などの議論も始まったようです。村内の小学校はいずれも小規模ゆえ、大半は復式学級で学力向上に支障をきたし、教育予算編成配分においても複雑多岐にわたるうえに分配は僅少となり、学校運営上の支障も大きいものがあっようです。
そのようなことで、早くから村内の小学校を統合し、児童の学力向上と教育予算の合理化を図り、教育効果の能率化を目指す統合計画がありました。
その統合計画とは、最初は6つある小学校を3つに統合する案でした。
1 若山小と面河小(第一小学校)
2 渋草小と城山小(第二小学校)
3 石墨小と笠方小(第三小学校)
第一段階として、老朽した校舎で学ぶ若山小学校と面河小学校の統合を、と働きかけましたが、校地・通学・予算等種々の問題の続発で、両校関係者からの合意を得ることは出来ず、この計画は頓挫してしまったようです。そして当初の計画を変更し、面河小学校と城山小学校の統合が1954年(昭和29年)に実現し、面河第一小学校が誕生しています。1970年(昭和45年)に若山小学校は面河第一小学校に統合されて、閉校となりました。また笠方小学校は1968年(昭和43年)に渋草小学校に統合され、当時の在校生たちはバスで渋草小まで通学をしたといいます。石墨小学校は1981年(昭和56年)に統合されることなく、閉校となったようです。
そして渋草小学校と面河第一小学校が、2000年(平成12年)4月1日に統合となり面河小学校となり、面河村内に小学校は1校のみとなりました。
1954年(昭和29年)に面河小学校と城山小学校の統合が行われた時、校名は面河第一小学校として割石川と面河川が合流する河口に誕生しました。
その後、面河第一小学校と渋草小学校が2000年(平成12年)4月1日に統合し、再び面河小学校となったが、現在の場所に新築の面河小が完成するまでの10年間ほどは、面河第一小学校跡を利用していたようです。
渋草小と面河第一小学校は統合して面河小学校になりましたが、新築の校舎が完成するまでのしばらくというか10年ほどは、面河第一小学校を面河小として利用してました。
面河第一小学校、面河小があった校門前に今も立っている
そして、旧面河村に唯一の残る小学校となった面河小学校は、現在児童3名、内一人は6年生。今春一人卒業すると在校生は2人だけとなり、関係者間で協議を重ねた末、本年度限りで休校し、来年度末で閉校となることが決まったようです。面河小が閉校になることで、旧面河村内には学校がひとつも無くなります。かつては人口が5000人ほどもいて小学校だけでも6校あった旧面河村ですが、現在はその10分の1にも満たない人口となっています。
人口減少を食い止めるための砦がまたひとつ崩れ去るということで、地域の活性化、地域維持にとっては、大きな痛手です。
地域住民や関係者が集っての最後の「面河小おもいで集会」を小学校で開催するということを新聞で知り、参加してきました。
10時過ぎからはじまった集会で、まずは校長先生や町長、教育長さんらの挨拶の後、これまでの学校活動などをプロジェクターで投影しながらの紹介がはじまり、会場を埋め尽くすたくさんの参加者たちは、静かにみいっていました。
教室や展示室にも自由に入れ、見学できるというのではいってみると、学校全体を真上から空撮し大きく伸ばした写真が、壁面に数枚掛けてありました。今は無き校舎が写る古い写真で珍しくて、しばらく眺めてました。
詩集
渋草小学校 平成11年度の文集
昭和54年度 渋草小学校の作文集
若山小学校統合記念文集 「いしづち」
若山小学校は1970年(昭和45年)閉校
石墨小学校は1981年(昭和56)に閉校。
昭和52年度 卒業記念文集 「そまのっこ」
「そまのっこ」は杣野の子供という意味かな?
かつて石墨小学校がある地域は杣野といっていたが、隣接する大味川と明治23年に合併。その時、村名は両村から一字づつをとって「杣川村」としたが、村内には面河渓という美しい渓谷がある。それを観光資源にして、村を売り出し観光客を呼び寄せようではないかと、昭和9年に杣川村から面河村に村名変更をしました。そして、その村名は平成十六年の合併まで続きました。
教室には、すでに閉校になった小中学校に通った児童や生徒の思い出が詰まった、ガリ版刷りの文集や詩集が並べられていました。学校行事の写真を貼ったアルバムなどは本棚に並べられ、卒業生たちだろうか、友だち同士でそれらに見入ったり、懐かしそうにページをめくる姿がありました。
役目を終えた毛筆の学校銘板が、部屋の隅に立てかけてありました。
揮毫した方の名はわかりませんが、上手な文字だなと感じました。
「渋草剣道クラブ」と筆で書いた木製看板が立てかけてあり、「面河にも剣道会が」、と目が留まりました。
多目的室の入り口に、ガラスで覆った大きな陳列棚が座っていて、賞状やトロフィーなど、たくさん飾ってました。
よく見ると、面河小剣道会が入賞したときの賞状や写真もありました。
中でも平成17年の第37回愛媛県少年剣道大会(ナカフード杯)で3位入賞の写真額が光ってました。
剣道は自分も経験があり、この大会のことを知っていますが、この大会で3位は”すごい”なと、感心しながら写真を見てました。
今から20年前の大会で、正確な参加チーム数はわかりませんが小学校の部への参加チームは70~80チームはあったのではないかと察します。このナカフード杯は、試合の模様をテレビ放映していた大会で、何度か見たことありました。
渋草小学校閉校記念誌「そまの」のページをめくっていると、PTA会長欄になんと「中川和廣」の文字と若いときの顔写真も。
中川和廣さんのことだから、ひょっとしてと思いながらめくってました。
予感は的中。
渋草に生まれ、渋草の郵便局に勤められていて、後に松山に転勤。松山に居を構えられた方で、年は、私とは一回り以上も先輩となりますが、同じ写真組織に入ってともに活動をした間柄でした。
面河の城山公民館であった川瀬歌舞伎の公演に一緒に撮影に行ったこと、また写真集の出版にあたり、渋草のことについて教えていただいたり、資料を貸していただいたりしたこと、懐かしく思い出します。
中組にあった面河小と本組みにあった城山小が統合して1954年(昭和29)に面河第一小学校が誕生し、複式学級は解消され単級学級として出発したと面河史に記されていました。
1968年(昭和43)4月に笠方小学校は渋草小学校へ統合。笠方小学校は閉校になり、笠方から渋草小までの通学は遠くなり、歩いてはなかなか行けない距離に。
閉校となった笠方小学校跡に建てられた石碑
閉校となった石墨小学校跡地
校門入り口左側に遊具のすべり台が。
セメントでかたどった像
石墨小学校も1981年(昭和56)に閉校となりました。
そして、面河小学校は木造の立派な校舎。
新築してから15年ほどしか経っていないのですが、今年度で休校。
一年後には閉校に。






















































































































































