土佐民謡「よさこい節」やペギー葉山が唄った「南国土佐をあとにして」の歌詞にでてくるかんざしを買う坊さん、純信の墓が愛媛の山中にあるのをはじめて知った。
(珊瑚のかんざし) 高知城歴史博物館にて
以前久万高原方面に行き、あちこちと車で移動している時、古風な家が橫に3軒並び、前方に田んぼがある場所を見つけた。
そこで3軒の家屋を背景に田植え風景をというシチュエーションで写真を撮りたいなと機会をうかがっていた。
そこで、日曜日に田植えを行うと聞いたので、2時間ほどかけて目的地へ急いだ。
ところが田んぼの周辺にも誰もいない。
急に力が抜けて、肩で大きくため息をつき、あたりを見回しながらボーッとしばらく立っていた。
近くで畑作業を終えて帰るお年を召した婦人が手押し車に寄りかかるようにしてゆっくり歩いていたので尋ねてみた。
すると、「思ったより稲の苗の成長が遅く延期すると聞いたよ」との返事。
いつ田植えをするのか知らないか尋ねてみたが、苗の成長しだいなのだろう、植える日は言わなかったという。
せっかくここまで時間をかけて来たのだから、何もせずUターンして帰るのはもったいない。
どうしょうと思案していると、東川にパン屋がオープンしたという新聞記事を思い出した。
昼食はパンにしょうと、田んぼが広がる直瀬を通ってから東川へと車で走った。
(東川地区での田植え風景)
行ってみると、金、土のみの営業とのこと。
店は閉まっていた。
これまた残念!
そういえば、以前東川に来たとき、あぜ道に立つ古そうな石灯籠の写真を撮ったことを思い出す。
ちょっと気になって、再度行ってみることに。
途中、田んぼで稲の苗を手植えする風景があり、声をかけてから撮影させてもらった。
小学生の頃、田んぼが2反ほどだがあったので、田植えは手で、稲刈りは鎌で手伝っっていた思い出が懐かしい。
目的の場所に着いてから石灯籠の写真を撮った。
古い灯籠だから、付近に古道はないか、とあちこちうろうろしながら目をやっていると、仕事着姿の年を召されたご婦人が、山の方から小道を歩いて来たので、寄って行き声を掛けた。
石灯籠や古道について尋ねたりしていると、土佐民謡「よさこい節」や昔歌手のペギー葉山が頻繁に唄った「南国土佐をあとにして」の歌詞にも出てくるかんざしを買う僧、純信さんの話になった。
そして、純信の御位牌はご婦人の家で祀っていて、御墓も近くにあると教えてくれた。
「はりまや橋」にまつわる僧・純信とお馬の禁断の恋物語は人気の民謡や流行歌の歌詞となり、全国に広まり有名であるが、人通りもほぼない静かな山中で、たまたま道を歩く人から突然聞いたものだから、最初はあっけにとられた。
偶然声をかけたご婦人が、土佐の高知のはりまや橋のあの坊さんと繋がりがある。
そんな人と会うなんて奇遇だな。
人は長く生きれば生きるほど、思いもかけない出会いがあるもんだと思う。
他地区から来た訪問者(カメラマン)ということで、話してくれたのだろう。
純信さんの墓が近くにあるというので行くと、入り口に「土佐民謡『ヨサコイ節』の主人公 僧 純信の墓所」と太字書いた看板が立っていて純信のことについて記されている。
看板には文政2年、純信は土佐市市野々の江渕要作の二男に生まれて、竹林寺南坊妙高寺の住職になったこと。
37歳の時、17歳だったお馬と恋仲になり、関所を破っての逃避行で追放処分となり、伊予の川之江で1年半ほど生活していたようだが、川之江から消息を断ったということ。
明治初年、純信は中田興吉と名乗り久万高原町の東川に転住していて、娘のサダヨに養子 岡本實吉郎を迎えたこと。
純信は明治21年9月29日に69歳で没したが、子孫は繁栄していることなどが記されている。
はりまや橋で坊さんがかんざしを買う話はあまりにも有名であるが、主人公である坊さんの墓が愛媛の久万高原町に立っているということはあまり知られてないように感じるが、どうだろう。
愛媛県久万高原町東川では慶翁徳念和尚(俗名・中田與吉)を名乗って生活していた。
純信とお馬の恋物語を紹介しておきます。
以下は、播磨屋橋 - Wikipedia などを参考にしました。
いわゆる日本三大がっかり名所の一つ(あとの二つは札幌の時計台と長崎のオランダ坂など)に数えられている所以でしょうが、『はりまや橋』にまつわる『純信とお馬の恋物語』には興味をそそられます。
文政2年(1819年)、土佐国高岡郡戸波郷市野々村で佐川家家臣の嫡男として生まれた純信(じゅんしん)は、9歳で京都に上って修行に励み、帰国して五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、僧侶の身でありながら、鋳掛屋(鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職業)の娘で20歳年下のお馬と禁断の恋に陥ります。
純信37歳、お馬17歳。僧侶は妻帯が禁止されていましたから、安政2年(1855年)の5月の深夜、純信とお馬は駆け落ちをして、笹口番所の裏道から阿波(現・徳島県)に入り、讃岐(現・香川県)の琴平の旅籠に泊まっていたところを、関所破りで捕まります。
『♪土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た~♪』と歌われている、はりまや橋でかんざしを買った坊さんは、実は純信ではなく、竹林寺の慶全という若い修行僧だったのです。
最初は、お馬と良い仲だったのはこの慶全でした。ところが、お馬は、慶全の師にあたる住職の純信に次第に好意を持つようになり、慶全から次第に気持ちが離れて行きました。純信もまんざらでもありませんでした。
慶全は、お馬の心をなんとか取り戻したい思い、播磨屋橋の小間物屋・橘屋で珊瑚のかんざしを買い求め、お馬に贈りましたが、純信への思いが募るお馬から袖にされます。失恋した慶全は、お馬と純信の仲を裂こうと思い、純信が播磨屋橋でかんざしを買い、お馬に贈ったと嘘の申し立てをしました。
その話は、たちまち高知城下で広く噂となり、純信とお馬は住み難くなり、駆け落ちに及んだのでした。琴平の旅籠で捕まった純信とお馬は、安政2年(1855年)9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になります。 その後、純信は、伊予国宇摩郡川之江(現・四国中央市)の川村亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていましたが、亀吉の死後にはその地を離れ、晩年は浮穴郡東川(現・愛媛県久万高原町)で、慶翁徳念和尚(俗名・中田與吉)を名乗って生活し、後に結婚し、一男一女をもうけ、明治21年に69歳で亡くなりました。
お馬は安田村(現・高知県安芸郡)の旅館に奉公していましたが、追ってきた純信とのことが原因で須崎(現・高知県須崎市)へ追われ、庄屋預りの身になります。その後、大工の寺崎米之助と結婚。
子供に恵まれ、長男の徳太郎が陸軍御用大工になったことを機に一家で上京し、滝野川(現・東京都北区)に移り住み、明治36年に66歳でな亡くなりました。



































































































































































