昨年の秋、久万高原町直瀬の秋祭り撮影のため、国道494号で黒森峠を越えて面河地区の渋草へと車を走らせていました。
渋草の面河小学校の手前にさしかかると、校庭に賑やかに吊したたくさんの万国旗や白いテントがいくつも見えてきて、運動会だと直感。
ちょっと見て行こうと、寄り道しました。
運動会は、まだ始まる前で、先生がいるところに歩み寄っていき、撮影許可をいただきました。
スタッフや見物に来ている人たちはそこそこの人数いましたが、児童の数が意外と少ないと思い、そばにいたスタッフに聞いてみると、全校児童は3人とのこと。
体操服を着た何人かは、応援に来てくれている他校に通う小中学生で、「そんなに少なくなったのか」と聞いて思いました。
それもつかの間、久万高原町面河小学校が今年度限りで休校となり来年度末で閉校と、後日、新聞を見ていて知りました。
現在全校児童は3人で、6年生が1人、卒業すると来年度は2人だけに。
来年度から、2人は今までよりも児童数が多い、隣地域の小学校に転校するそうです。
そんなことで、面河小学校としての「面河ふるさと文化祭」への参加は今回が最後、又「石鎚天狗太鼓」の披露もあると聞いていたので、出かけることに。
数日前の天気予報では、当日前後は寒波の到来のようで、ちょっと心配でした。
前日の夜、天気予報や道路状況をネットで見ると、山間部の道路は昨日からの降雪で雪はまだ残っているとのこと。
いつもなら、面河地方へは黒森峠越えの国道494号で行っていたのですが、早朝から、標高1000㍍近くの黒森峠がある雪道を越えて行くのは無理かな、と。
砥部町から33号を通り久万高原町経由で行くことに。
地図を覗くと、距離は黒森峠経由よりは2倍近く長そうなので、暗いうちから家を出発。
スリップ事故を起こさないようにと、安全運転を心がけて行きました。
9時開演なので、少し遅れるかなと行き始めた頃は心配したけど、10分ほど前に無事到着。
会場は、面河住民センター 兼 旧面河村庁舎(現 久万高原町面河支所)の3階でした。
会場に入るや右を向くと、道土井夫妻の特別写真展が開催されていて、拝見させてもらいました。
また、写友で柳谷の文化協会会長の大江さんも来賓で来られていました。
久しぶりにお会いし、ちょっと雑談を。
舞踊やカラオケのはじまり
面河小学校児童による面河万歳「豊年踊り」は、誕生してから50年ほどの歴史があるそうです。
面河小の児童と校長先生による劇「アラジン」
「石鎚天狗太鼓」は面河の村おこし事業として平成元年に誕生し、37年を迎えるとのことでした。
「石鎚天狗太鼓」は京都の和太鼓創作者を招き、面河渓谷や石鎚山をなど面河地方を案内してイメージしてもらい、また地域に伝わる天狗伝説も参考に、創作してもらったとたと聞いています。
また、「石鎚天狗太鼓」は石鎚登山・石鎚嵐・ご神体・いかだ流しの4曲で構成されているそうです。
髙中低音と3種類の音色を発する大小3種類の太鼓を、12人の奏者がリズミカルでパンチを効かして打ち始めると、会場内に十二分な音量で響きわたり、参加者はじっと聴き入っていました。
普段は静まりかえった集落なのに、こんなにパワーがあったのかと思うくらいの、活気みなぎる演奏でした。
腹の底まで響くリズミカルな音波が、気分と筋肉をもみほぐしてくれたのか、しばらくはしゃんとした気分でした。
和太鼓は日本に古くからあり、戦場で陣太鼓と使われ始めたのが始まりといいます。
その後は、道場や温泉(道後など)のように開始の合図、寺社での行事、盆踊りなどの音頭取りなど様々な場所で今も使われています。
日本の歴史の様々なシーンで打ち継がれてきた和太鼓。
連綿と受け継がれてきた中で、その音はDNAにも染みこんでいるのでは。
どこかで耳にしたはずの和太鼓の音は、魂を揺さぶり奮い起こしてくれる不思議な楽器だなと、久しぶりに全身で聞く生演奏で思いました。
最後に参加者全員でジャンケン大会。
ジャンケン大会で優勝者に一等賞の授与。
ちなみに、運よく5等賞。
飴をゲットしました。![]()
最後はみんなで記念写真
そろそろ終わり。
何気なく下向くと、横にいる人が履いているスリッパの文字「面河村」に目が止まりました。
「面河村体育館」の文字が印字されたスリッパです。
面河村は、2004年に1町3村が合併して久万高原町になっていますが、それ以前のスリッパです。
合併して20年余りが経ちますが、まだまだきれいでした。
大切に使われていますね。笑
面河中学校のスリッパもありました。
面河中学校は2009年に閉校。
見ていると、さらに渋草小学校のスリッパも発見。
渋草小学校は、2000年(平成12年)に面河第一小学校と合併し、面河小学校となり閉校。
現在ある面河小学校は、面河中学の校舎を解体した跡地に建設されているようです。
面河住民センター(旧面河庁舎)を出ると、村章が刻まれた閉村の碑が建っています。
帰りは、せっかくここまで来たのだから、渋草集落や黒森峠あたりの雪景色を見てみたいな、と。
時計を見たらまだ昼過ぎだし、時間は十分ある。
帰る途中で通行不可と思ったら引き返せばいいと、渋草から笠方へ車をゆっくりと走らせました。
1950年(昭和25年)頃には、5000人近くの人が暮らした面河村、今では400人前後と、一割以下の人口になっているようです。
小学校が、この地域から消えてしまうことで、子供がいる家族は、ますます住みにくい地域になっていく。
これまで訪れた山間の村や町のすべてが、人口減少の途をたどっています。
愛媛と高知の町や村内の集落にいたっては、集落の無住化(廃集落)はどんどん進行し、増えています。
50年後には、どのような姿が待っているのだろう。
初めて面河村に足を踏み入れたのは、友達数人と行った石鎚登山の帰りでした。
昔から、石鎚詣での表参道といわれている西条側から、まずは瓶ヶ森に登り縦走して石鎚山の頂上へ。
帰りは面河村側に下りて面河渓の停留所からバスで帰ったときです。
1968年、17歳の夏でした。
軒下に、黄色いトウモロコシが並ぶ茅葺きの家が、バスの窓からほうぼうに見えて、見とれていたのを覚えています。
渋草を通るたびにみとれてしまう大西旅館跡。
雪をまとった姿は初めてで、車から降りてしばらく眺めてました。
昭和時代の珍しい3階建て木造建築です。
旅館の横に、古くから酒屋があり、ご婦人が営業されてました。立ち寄って酒を買い、集落の昔のことついて話しを伺ったことがありました。
残念ながら、その後閉店されたようです。
酒屋横の橋を渡ったところに新しいお家が建ち、食料品を売っていましたが、数年間の営業で、閉店になっています。
杣川橋からは高須賀酒店と上に薬王寺が見える。
このあたりは面河村という前は杣川村とでした。
明治期に杣野村と大味川村が合併して面河村になり、平成の半ばまで続きましたが、全国的に平成の大合併が行われましたが、面河村も御多分に洩れづ、2004年(平成16年)久万高原町と合併となってしまいました。
右に曲がっていくと木地師の里といわれた梅ヶ市集落へ。
堂が森に登るのに、周桑平野からは保井野、松山方面からは梅ヶ市登山口が定番で、シーズンには今も多くの人が訪れています。
石鎚お山開きが始まると、かつては梅ヶ市からもおおぜいの参拝者が持鈴を響かせながら石鎚山を目指して登っていったそうで、梅ヶ市には宿が2軒あったと、梅ヶ市のご婦人から聞きました。
渋草を後にし、土泥を通り抜けたあたりからは坂道に。
四駆に切り替えて、標高985㍍の黒森峠へ。
途中、除雪車が狭い道を下りてきたのが見えて、一瞬「どなんしょう」と思いましたが、道幅が広くなった場所が幸いにもあり、退避してくれて、無事に交差。
「峠までたどり着ければ大丈夫だ」、と思いながら行っていると、到着です。
休憩もそこそこに、東温市河之内方面に向かって下りて行きました。
渋草から、峠越えして東谷小学校や金比羅神社があるあたりまで下りていく間、除雪車以外の車には一台も会いませんでした。
なだらかな扇状地に広がる棚田と民家が下方に見えてきます。
白猪屋というお店がある東温市問屋(地名)地区です。
黒森峠を越え面河方面にいくとき、面河には数年前から店はなく、白猪屋が最後の店となるので、時々パンなど食料を調達していってます。
人が往来する道は、時代とともにバージョンアップをくり返し、道幅が広くなったりトンネルが出来たりと、また、新道が出来たりと変貌を遂げて行きます。
それにつれて、道沿いの集落も少なからず盛衰の運命が待っているようです。
藩政時代、面河地方の人たちは割石峠を跨いで河之内地方へと下りて行き、松山方面へと行き来をしていたようですが、明治の初年に、割石峠を跨ぐ道から、荷馬も通れる黒森街道が新たに完成すると、面河地方の木材や木炭などの産物運搬は、人肩が主だったのが荷馬による運搬が可能となり、河之内村と面河村間の物資の輸送量や行商人の往来も増加し始めました。
すると物資を取り扱う店や旅館、生活用品を売る店までもが増えていき、両村は賑わったといいます。
面河の産物の松山への運搬や、人が道後平野と往来には、藩政時代の昔から、割石峠或いは黒森峠を跨ぎ河之内村(東温市河之内)を経由する道を利用していました。
ところが、昭和13年(1938年)に国道33号御三戸(みみど)から関門(かんもん)に至る県道(面河線)が開通してからは、久万地方を経由する道の利用がだんだんと増えていったようです。
昭和31年(1956年)に黒森峠を切り土して、車が通れる県道黒森線(国道494号)が開通しますと、荷馬車や車が通れない黒森街道はその役目を終えることになりました。
黒森街道が健在だった時代、峠付近には煎餅や飴を売る店が数軒あったといいます。
店の痕跡は見当たりませんが、峠付近に、大正時代?の地蔵がぽつんと静かに鎮座しています。
あのあたりを黒森街道が走っていたのではないかと、あたりの地形を見まわして、勝手に思ったりしています。
荷馬が通った黒森街道は、役目を果たし終えて約70年。
集落近くでは生活道として残っているところもあるでしょうが、山間深くの多くは、すでに消え去っているでしょう。












































































































































