辞職峠へ行く古道を探して | ア-ルの写真記

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(日本写真家協会 会員)

愛媛の西条側から、寒風山、本川、新大森と1000㍍を超える長いトンネルを次々抜けると道は大きく左にカーブし緩やかな下り坂を下りて行く。右の窓外一面に広々とした下界が広がっているのが見えてくる。集落がいくつかある。

ここを通るたびにそこへ行ってみたい、と思いながらも用事や帰り時間を優先して、いつも通り過ぎていた。

昨年の11月、国道を途中で逸れて集落を目指し狭い農道を下りて行った。

         大野集落

 

国道下の傾斜地にある集落を横切る農道、少しだが地滑りが起きている。

新たに舗装されたアスファルト上にまた小さい亀裂が、、。

山腹にある集落は地滑り地帯が多いようで、地滑り地帯を記した案内板をよく見かける。

 

農道下は緩やかな勾配で一面畑だったようだが、今は耕作放棄をした土地も多くある。

乾燥した茅が敷いてあり、その上に太くて長い竹竿を並べて置いている。茅が風で飛ばされないように置いているのだろう。

愛媛ではあまり見かけない光景だが、トンネルを抜けた高知の山間ではよく見かける。最初のころは珍しくてよく見入っていた。

 

 

車で下りていく途中、人がいた。

車から降りて歩みより、どこから来て何をしに来たかを話し挨拶をした。この地区の住人で集落のことなどいろいろと伺うと親切丁寧にいろいろと教えてくれた。

車が通る194号線がまだなかった時代、旧吾北村の日比原から程ヶ峠を越えて本川に徒歩で行く山道が、この大野辺りを通り山上に向かってあり、多くの人たちが行き来していたことを、山を指さしながら話してくれた。

その古道の道のりは長く、しかも急傾斜で高低差があるため、つづら折りや曲がりくねった場所の連続で、峠を跨ぎ往来するのに過酷な労力と長い時間を要したという。

そのような山道であったため、高知の町から転勤や新任で新たな職場に行く人たちの中には、体力のない人も中には居たのだろうが、あまりにも過酷な山歩きに耐えかね辞表を提出して帰った、という話がこの地方には残る。長い道中で通る程ヶ峠という峠はいつの間にか辞職峠という異名で呼ぶようになったという。

道を歩き辞職峠(程ヶ峠)を越えて旧本川村で就く仕事といえば、営林署、警察署の署員や学校の教職員さん、建設関係の人たちが思い浮かぶ。そのあたりの職場内で最初は辞職峠と騒がれはじめ呼び始めたのだろうか。辞職峠と異名のつく峠は、程ヶ峠だけに留まらず県外にも存在するらしい。

辞職峠はどのあたりか、古道はどの辺りを走っていたのか、家に帰ってから地図を見てみた。辞職峠あたりはなだらかな起伏が続き新大森トンネルの上あたりに位置するようだ。古道は大野集落から新大森トンネルの上に向かって走っていたようで、現在は国道が横切り分断している。

そこは今どんなになっているか、古道の痕跡は残っているのか行ってみた。

 

まずは国道より下にあった古道を探して、、。

雑木林や人工林のなかをあちこちと探して入って行ったが、はっきりと古道だとわかるような道は見つけれなかった。

石積みの跡があり、このあたりかなとも思ったが、、、。

違うような気もした。

高知の町から愛媛の西条の間を走る国道194号は1963年に完成し60年ほどが経つ。

そしてこの古道の役割はだんだんと終えていったようだ。

もう古道が消えてもおかしくない年月が経っている。

 

 

今度は国道上に行ってみることに。

最初は、獣道のようなのが続いていたが、行くにつれて思った以上に枯れた茅など草木が繁茂している。

 

 

切り倒さないと前に進めない。カマなど持ってきてなくて、ここを進んでいくのは諦めた。

 

上がりやすい場所はないか探す。

ちょっと場所を変えて上がって行くと、鉄パイプの手すりが山上に続いているのが見えた。上って行くとコンクリート製の石段もある。枯れ木がたくさん立ち、年寄りにはそこまでは無理かな。

 

なんとか階段の側までは行けた。コンクリート製石段が山上に向かってずっと続いているのが見えた。が階段にも木が生え上って行くのは難儀しそうなので諦めた。

国道の上下の古道は国道工事で削られたり、埋もれたりして消滅しているようだ。

 

かつてあまたの先人たちが行き交った歴史を刻む辞職峠がある古道ゆえに、上り口あたりだけでも判るようにと、付帯工事で残したのだろうか。

難儀しながら山に上って行くとは思っていなかったので、山用の靴は履いて行かずカマやナタなども帯行せず、足下は滑りまくるし枯れた草木にも行く手を阻まれた。ケガしたらいけないので諦めた。なので石段がどこまで続いているのか、その先に何が見えるのかはわからなかった。いつかこの階段を上がっていき辞職峠といわれた程ヶ峠に行ってみたいが、、。地図を見るとかなり距離はあるみたい。今回は山歩き用の靴や鎌など、準備不足を反省。

 

昔、旧寒風山トンネルを抜けて高知市内に行けると聞き、自家用車で行ったことがあった。

もう半世紀近くも前の事で記憶は定やかでないが、5時間以上はかかったように思う。

その後はもう懲りたのか、高知に行くときは久万を通る国道33号線経由で何回か行ったように記憶している。

33号経由だと道幅は広いし、194号よりは楽に行けたような。

        旧大森トンネル(2代目大森トンネル)

 

あの頃の194号線は現在とは大きく違う。1000㍍を超える長いトンネルはなかったし、急峻な山間を這うようにして走る曲がりくねった一車線の狭い道が多かった。おまけに未舗装の砂利道やガードレールのない区間もあって、落ちたら大変。

緊張しながらの運転だった。

それでも、かつて先人たちが徒歩でいくつもの峠を越え往来することを考えると、比較にならないほど楽だった。

 

今は、2代目の新寒風山トンネルや3代目の新大森トンネルなど、長いトンネルの完成や全線二車線開通のお蔭で、アクセルを踏めば2時間半ほどで西条から高知市内まで、さらに楽に行けるようになった。おまけに、冷暖房付きの車内で汗かくこともなく快適に行ける。

遙か向こうに見える幾重もある山並みを見ながら、若い頃、石鎚山系やカルスト高原に登山口から大汗かきながら上がって行き、体力限界近くまで歩き回っていた頃のことを思いだす。

そして、かつて高知の町からこの古道を通り西条方面へと徒歩で行った先人たちは、何時間かけて行っていたのだろうか。いや、何日かけて行っていたのだろうか。この辺りを歩いて上がって行っていた先人たちの姿が思い浮かぶ。