ア-ルの写真記

ア-ルの写真記

旅は人生の肥やし !
写真は 記録・表現(アート)・伝達する素晴らしいツールです! 

西条市から国道11号を行き、桜三里を通り東温市河之内隧道を抜け下りの坂道を行くとすぐ左側に、山に向かって走る道が見える。

高知の須崎市と松山を結ぶ国道494号線だ。

その道を行くとなだらかな傾斜に田園風景が広がっている。

 

 

 

国道をどんどん上がっていくと問屋(地名)というところに店が一軒ある。

白猪屋という酒店。

氷瀑で有名な白猪の滝へは、この辺りから上がって行く。

 

藩政時代、久万高原町の旧面河村辺りに住んだ人たちは黒森峠ではなく割石峠を越え、狭い道を上り下りしながら川内や松山に行っていた。

明治の初年ごろに、面河の渋草や笠方から黒森峠を越えていく黒森街道が完成したようだ。

この道は馬車も通れる1.5㍍幅の道だったという。

面河地方で産出された材木や炭などの林産物は問屋という地域(下の写真)や、さらに下方の河之内辺りの店まで馬の背に載せて運び、帰りは醤油、昆布、塩やいりこなどを運んだという。

昭和の31年(1956年)に車も通れる県道黒森線(現在の国道494号)が開通して、黒森街道は役目を終えたようだ。

 

国道494号が線を描いているのが見える。

 

標高980mほどの黒森峠を越えると久万高原町。

下っていくと家が所々にある。小網集落。

建設業をしていたのだろうか。倉庫の前にコンクリートミキサーが置いてある。

今は使っているようには見えない。

 

 

さらに下っていくと市口集落。

かつては近くに小学校もあり、地図では30戸ほどの家があったようだ。1970年代後半に来た時、市口の憩いの家の下の方にも茅葺きの家があったように思うが、今はきれいに整地され公園になっている。

 

 

       

       旧面河村の市口辺り(昭和50年代)

 

面河村立 笠方小学校跡 

昭和43年4月に渋草小学校と統合とある。

 

学校跡の池でアカハライモリがたくさん泳いでいたというか、たくさんいた。

高台にある学校跡からは面河ダム湖が見渡せる。

見晴らしはとてもいい。

となりには別荘があった。

 

小学校跡近くに八社神社がある

 

狛犬

 

さらに下って行くと無人の販売所があった

ピーマンやトマトなどがある。

 

土泥集落

大きなお家だ。茅葺き屋根だったのだろうが、今はトタンで覆ってい。

 

地図によると土泥は30戸ほどの家があったようだ。

ガソリンスタンドがあったが、今は廃業している。

 

国道494号線の拡張工事に伴いこのお店も立ち退きになり、今は建物もなくなっている。

                        (2011年7月撮影)

 

 

この店の左側の道を入っていくと石灯籠があった。

石鉄 金比羅の文字が見える

県道(後に国道)が完成するまで、この狭い道が主要な道だったようだ。

 

橋の名前が書いてあるが、わかりにくい。

 

昭和23年6月架設と書いてあるのか?

 

 

橋を渡ったところに数軒の家がある。

旧道にかかる橋を渡って行くと、家の軒下にあるむしろやじょうれん?の上に作物(芋のの茎?)が天日干ししている。

 

大きなお家があるが住んではいないようだ。

耕作はしているみたい。時々来るのだろう。

土泥の近くにお堂のようなものがある。

 

 

 

松山市農協の渋草の面河支所

店舗の裏山にはお茶の木が植えてある。

 

営業や自家用の自動車が普及するまで山間の旅館は繁盛し、この辺りにはもう一軒宿があったと、渋草に生まれた中川氏(今は松山市に在住)が話してくれた。

この大西旅館は大きくて目立つ。

よく見ると木造3階建てだ。

面河ダム建設当時は、特に建設に携わる多くの労働者たちが利用したという。

 

大西旅館前にある貯水槽

 

 

旅館横には今は営業していないが高須賀酒店があった。

その上には薬師寺がある。

 

酒屋店内のなつかしいポスター群。

(今は廃業をして店の中の商品も何もなく空っぽになっている)

 

懐かしい昭和の面影が残るお店だった。 

©

沖縄で有名なステーキハウスが那覇の辻町に集まってあった頃の町並み風景です。

沖縄駐留の本場アメリカ人を相手に最初は営業始めたので、味は良いはずですよね。

今は沖縄ステーキハウス1号店のジャッキーステーキハウスも金松も移転してしまって、ここで営業しているのはステーキハウス88だけのようです。

沖縄に撮影に行けば、帰りに金松によく食べに行っていました。

金松は中部の方で今は営業しているみたいですね。

 

ステーキハウス金松

向こうに見得るのがジャッキーステーキハウスです。

ここはいつも満員でなかなか入店できませんでした。

安くて味はどこも良かったです。        (1999年7月)

1953年(昭和28年)に県立道後動物園が今の道後公園の地に開園した。

翌年の1954年7月、県内の生徒や教師たちの寄付による100万をもとに県教組のあっせんで、タイ王室から血統書つきのインドゾウを譲り受け、やってきた。

その後、県民の大勢の人たちから愛され続けた。

 

20年後、100日余りの闘病の末に亡くなったようです。

胃には穴があき、がんもわずらっていて、最後は肺炎で亡くなったと、保存していた新聞の切り抜きに書いていました。

年齢は25歳、長寿で知られる象の世界ではまだまだ娘盛りだったそうです。

 

1974年

松山市の道後公園に道後動物園があったころの写真です。

 

道後動物園初代のインド象、 「愛子」が亡くなったときのお葬式風景。

幼稚園児や小学生はじめ参列者多数、盛大に執り行われました。

動物の死でこれほど盛大に行われた葬儀を今までみたことありません。

 

 

 

僧侶5名と僧侶の衣装をまとった子供の姿もみえます。

僧の黒い衣装をまとった子供の姿も見えます。

僧侶の子供だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

後日、道後動物園を訪れたときの一コマです 

墓標の前で焼小さな子供が焼香をしていました。                 

 

 

 

                            道後動物園内にて

土小屋から旧寒風山の間、全長約27㌔㍍を走る高知県いの町の町道は、「UFOライン」の呼び名が最近定着してきたみたいだ。

車の宣伝のロケ地として利用された町道は、車と共にテレビ放映され、訪れる人も多くなっているみたいだ。 

標高1300m~1700mの尾根沿いを走るルートは、夏は涼しく、絶景のドライブコースとしても人気がある。

そのUFOラインの瓶ヶ森と土小屋のおおよそ中間にシラサ峠(標高1406㍍)がある。

そこは愛媛と高知の県境でもある。

 

シラサ峠横の高知県側にいの町の公共施設 山荘シラサがこの4月に大がかりな改装を終えてオープンしていた。

立派な施設だ。

 

 

 

丁度昼頃着でここで昼飯を食べた。



 


 

 

車道(UFOライン)のない昭和の時代

徒歩で石鎚と瓶ヶ森を縦走していたときの石を敷いた道が、町道脇にある。

今はここを歩き瓶ヶ森や石鎚に行く人は少なくなった。

まっすぐ看板横を歩いて行けば、伊吹山、土小屋、石鎚山に行く。

 

 

 

反対方向 笹原の中を走る道を登って行けば、子持権現、瓶ヶ森へいく。

 

もう文字は消えて見えない。

道しるべだけが残る。

昭和時代に作られた、行き先を示す標示板だ。

 

シラサ峠から瓶ヶ森へ行く登山道

左の木も道しるべだった。

 

 

 

文字が消えた標示板が立っているのは愛媛県、向こうにある建物

「山荘しらさ」は高知県になる。

このシラサ峠を跨いで昔は多くの人が愛媛と高知を行き来した。

高知方面はいの町の寺川方面へ

愛媛方面は西条の西之川方面へ

 

 

 

西之川 名古瀬谷の古道にのこる道しるべ

古い金属製の道しるべに文字がはっきり残っている。

 

 

西之川 名古瀬谷に残る標示板。 

かつて、ここを通って名の川峠を越えて人々は行き来した。

名の川峠を越え、どこに行ったのだろうか?

池川の方だったのだろうか?

 

 

 

しらさ峠からみる石鎚山(ススキが生える夏に撮影)

 

 

 

 

 

山荘しらさ裏側のすこし下に下りていくと立派な避難小屋がある。

 

立派な避難小屋だ

 

 

薪ストーブも完備。

 

 

寺川に行く道

 

 

7月1日から石鎚山のお山開きが始まるが

瓶ヶ森でもお山開きが始まる。

瓶ヶ森のお山開きはあまりマスコミにとりあげられることなく

静かにおこなわれるので、知らない人も多いようだ。

 

 

 

「忘れられた日本人」宮本常一著に収録された「土佐源氏」のモデルといわれている山本槌造翁。

氏が暮らしていたという高知の梼原に行った。

梼原の町中から四万川川を遡っていき

30分程山道を車で行っただろうか

竜王橋が見えてきた。

道しるべがある。

坂本龍馬の脱藩の道が横を走っている。

 

土佐源氏では、山本槌造翁は竜王橋の下に

ねぐらを構え生活していたという。

 

 

この橋の下に住んでいたというが

今は護岸工事や橋梁工事後ですっかり様変わりしている。

宮本常一が訪ねてきたのは1942年の2月

もう80年も前のことになる。

 

山本槌造翁は竜王橋の下をねぐらとして

乞食生活していたというが

実は、乞食でもなんでもなく

橋の向こう側の道路より2㍍程下がった所に家があり

そこに住んでいたという。

家の横に水車があり

水車を回し粉ひきをして生計をたてていたようだ

槌造翁は

旅の人をつかまえては、おもしろおかしく話を

するのを楽しんだという。

 

宮本常一は、山本槌造翁の話を鵜呑みにしたのか

或いは、創作したのだろうか。

 

 

 

この橋は昭和56年竣工のようだ

 

 

 

山本槌造翁の娘さん(2005年逝去)が住まわれていた。


 

 

 

近くの山に海の神さん、綿津見神社(龍王宮)がある。

山なのに海の神さん!

槌造爺さんがいたころ、綿津見神社は漁師たちの信仰を集め、

祭礼に愛媛の宇和島、高知の久礼、土佐清水などから

1000人もの参詣者が訪れたという。

 

西条市西之川  (旧大保木村西之川)  

かつて山奥にあった原木の伐採、植林などの造林、銅などを産出する鉱山 がいくつかあり、戦後しばらくはそれらの産業に従事する人たちで賑わった集落だったという。

この谷川の奥に、大木を伐採し山奥から運び出すための森林軌道が昭和の10年代に活躍していたということを聞いた。 

原生林が多くあった高知の山間は、明治の時代からいくつもの森林鉄道があったという事は知っていたが、身近な西条市にあることは知らなかった。

森林軌道跡を実際に見てみたい、道を辿ってみたいと思い、行ってみた。

 

                                西条市西之川

 

 

西之川名古瀬の河原で見つけた鉄の棒?

昔使っていた森林軌道のレールのようだ。

さびて赤くなっている。

河原に埋まり1㍍あまり顔を出していた。

 

時々、採石運搬のトラックが通る。

もっと奥にあるダートな林道で出会うと大変だ。

道が狭いので離合が出来ない。 要注意!

 

 

西之川の名古瀬集落を通り越して、ダートな道を行くと鉄筋コンクリート製の細長い橋のような物が見えてきた。

初めて見た時、送水管かな?と思ったが森林軌道橋だそうだ。

 

 

鉄筋コンクリートせいの構造物は二列に並んで横たわっていて、その上のそれぞれにレールが走っていた。

 

軌道橋を越えて行き、ダートな道を上がって行く。

谷川の上流方向を仰ぎ見る。

一番奥に見えるのは、石鎚山系伊吹山だろうか。

石鎚山系にあるシラサ峠や名ノ川越え、子持ち権現、伊吹山、岩黒山あたりに降った雨の多くがこの深い谷に集まり、加茂川の本流に流れていく。

 

 

 

この深い谷間を森林鉄道跡は走っている。

 

林道の建設で軌道跡も消えているところが多い。

林道から軌道跡がある所まで、ロープを伝って下りていく。

 

 

 

 

下りていくと、軌道跡を思わせるようななるい所にでた。

 

上からの落石。

大きな石があちこちに転がっている。

足下に気をつけながら、あちこち散策しながらゆっくりと進む。

 

谷に出くわした。

ここにもかつては軌道橋が架かっていたはずだが、跡形もなかった。

長年の落石、濁流などで流されてしまったのだろう。

 

谷を渡らなければいけないが、まずは谷に下りて、水を飲み一服。

水がおいしい!

 

一服を終えて谷を這い上がると、標識が現れた。

西之川、名ノ川越の文字がある。

昭和の時代、この山道を通って峠を越え行き来する人はいたようだ。

昭和時代以前、名野川峠もシラサ峠と同じくおおぜいの人たちが行き来したという。

 

すこし行くと、左上に分岐して上って行く道がある。 そこにシラサ峠を指し示す道標がある。

この道を上がって行けば、ハト谷経由でシラサ峠に行ける道のようだ。

 

さらに軌道跡を進んで行く。

 

 

石積みの擁壁が現れた。擁壁は長く続いている。

この下を森林鉄道は走っていた。

 

掘り割りの森林軌道跡。

崩れた土砂で軌道跡が少しずつ埋まってきているようだ。

 

谷川側にほぼ直角に石を積み上げて軌道を確保していたが、軌道跡の路肩が大きく谷川に崩れ落ちている。

丸太を3本束ねていて、なんとか通れた。

下を見ると怖い。

 

名古瀬谷の水面。色がきれい。

高知県いの町の『にこ淵』を思わせる色だ。

名付けて『名古瀬ブルー』  笑

 

擁壁が崩れ下りている。

乗り越えて進む。

 

しばらく行くと、吊り橋が見えてきた。

吊り橋の下にも朽ち果てた橋がある。

二重橋  笑

 

しかし上の新しい橋もかなり朽ちている。

森林管理関係者の人が利用していたのだろうか?

朽ちていて渡れない。

近年は、利用しているようには見えない。

この橋を渡れば名野川に行く道もあったのだろう。

 

 

 

吊り橋の前を通り、さらに軌道跡を辿っていくと、数十㍍で行き止まりになった。

ここから、対岸に渡り、さらに軌道は続いているようだ。

石積みのコンクリートで固められた丈夫そうな橋石が両岸にある。

両岸の橋石の上に架かっていた軌道橋はなかった。

ここで軌道跡は途切れていたが、軌道はさらに対岸の奥、極印木谷にむかって続いていたようだ。

谷奥を望む。

大きな石が転がる谷。

この谷の上流はさらにハト谷、極印木谷、おだま谷、シロジ谷と分かれていく。

 

 

西条市西之川バス停。

ここが「西条市内循環~石鎚山ロープウェイ・西之川線」のバスの終点になる。

バス停は、石鎚ロープウエイ前停留所を通り越し車で3~4分行った所にある。

西之川集落は加茂川上流の山間にある集落。

西之川集落の奥山には、かつて原生林が豊富にあり、それら良木の産出、伐採跡や広大な山地に植林をする造林等の林業で栄えた。

銅を産出する鉱山も藩政時代からあったようだ。

明治期、すでに抗口が数カ所あり、鉱山の仕事に従事する労働者も多かった。

昭和の時代に入り、西之川まで車や荷馬が往来できる道が完成すると、人の往来も増え鉱業、林業も栄えた。

石鎚登山ロープウエイや町道瓶ヶ森線(現UFOライン)が完成するまで、瓶ヶ森や石鎚山に登る登山口として参拝者や登山者も多かった。

昭和30年には世帯数約110戸520人程が暮らし、旅館や酒店やみあげもの屋などもあり、大いに賑わった時期もあったようだ。

しかし、その後社会情勢は少しずつ変化していき、今は3軒が住む静かな集落となってしまった。

昭和22年発行の25000分のⅠの地図を見ると、この西之川から主に谷沿いに峠越えをして高知のいの町あたり(主に昔の本川村の寺川)に行く道が記されている。

車社会の到来以前、徒歩での往来が主流だった時代、この道は西之川の住人はじめ大保木地区の人達や高知の本川地方の人達が、農耕や物資運び、商用で頻繁に行き交った道だったようだ。

古い地図を見ていると、その道が今どのようになっているのか、片鱗だけでも触れてみたいと思った。

 

昔、西之川から瓶ヶ森山には、何度も登った。

行き始めの頃は、バスで終点の西之川まで行った。

西之川からは徒歩で名古瀬谷、常住→鳥越→瓶壺→瓶ヶ森(泊)→シラサ峠→土小屋→石鎚山→下山と、行くコースが多かった。

西之川集落を流れる谷川沿いの林道を徒歩で行った。

瓶ヶ森に行き始めた時代、林道は西之川の一番奥にある名古瀬の民家のあるあたりまでしか開通してなかった。

そこからは、右上の山の斜面の登山道を歩いた。

比較的谷川に降りやすい場所に直径20cm前後の丸太を数本並べ束ねた木製の橋が架かっていた。

そこを恐る恐る対岸に渡り、細い登山道を瓶ヶ森に向かって登って行った。

地図では、シラサ峠に行く道は途中から右に逸れるようにして、

枝分かれしてあるようだ。

当時、瓶に行く時、シラサ峠に行く分かれ道など気にとめることもなく気がつかなかった。

分かれ道に標示板はあったと思うが、記憶にない。

西之川

 

 

ここは西之川。西之川の谷川に架かる名古瀬橋が右に見える。

 

 

 

名古瀬谷

 

 

かつて対岸に渡るため、丸太を数本並べて束ねた橋が架かかっていた。

その場所はこのあたりだろうか?

このあたりが一番渡りやすい?

もう50年近くも前で、谷や谷底の形状も変化していているだろうし、はっきり覚えていない。

渡りやすい場所はここらあたりしかないように思うが

 

 

 

 

名古瀬谷。

この名古瀬谷の左側に沿ってシラサ峠へ行く道はあるようだ。

名古瀬谷は上流で、さらにシロジ谷、ハト谷、おだま谷、極印木谷と分かれているようだ。

 

 

現在は、林道がかなり山上まで完成している。

林道を行き橋を渡り対岸に。

橋の名は、「いのたにばし」平成10年に完成。

この橋を渡ったあたりには、瓶ヶ森に歩いて行く登山道があったが、林道の建設で山肌がほじくり返され、登山道が消えてしまったところが多い。 

山上で採石業者の人が石を採取している時があり、大きなトラックが石を積んで降りてくる。

このトラックに出会うと大変だ。

道幅は狭く、離合場所も少ないし。

 

 

 

 

 

「いのたに橋」を渡り、車で林道を上がっていくと、昔登山していたときに見覚えのある場所にたどり着いた。

住友共電の水力発電用の施設の一部だ。

西之川の御塔谷で取水した水をここまで送水管で送り、ここからさらに大保木の千野々の水力発電所まで送る中継地点のようだ。

この施設の真下から急な登山道を登って、この横あたりにあったはずの登山道を通り、登って行ったいたのを思い出した。

 

 

御塔谷で取水された水は、このトンネルに入って行き、東之川へ行き、さらにトンネルで千野々の発電所まで送られる。

 

さらに少し上がっていくと、瓶ヶ森へ行く登山道の案内板あり、その横に登山道が山上に向かって続いている。

 

昔からある瓶ヶ森に行く登山道だ。少し登ってみる。

 

木で出来た階段もかなり古い。朽ちてきているようだ。

 

植林された木も枯れ果てている。

 

シラサ峠に行く分かれ道を、注意深く探しながら行くが、それらしき道跡は見当たらない。

 

シラサ峠に行く分かれ道を探して、そこら辺をうろつく。枯れた灌木の林に入ると、少しなるい所が広がっている。何か道のような気もするが、長くは続いていないようだ。

 

 

 

地面に穴が掘ってあり、凹んでいるところが何カ所もある。

今年掘り返したのではなさそうだ。去年、猪が掘り返した跡だろう。

 

  うんち

苔むした岩の上に、沢山の糞が散らばってある。

サルのウンチのようだ。

ここは見晴らしもよく、陽当たりもよい所で、サルにとっては居心地のいい場所なのだろう。

 

 

この道は瓶ヶ森に行く登山道のようだ。

 

 

一時間ほどうろつき探したが、それらしき道は見当たらない。

今回はもう諦めて帰ろうか?と思いながら、下を見下ろすとトラロープが二本垂れ下がっている。

この下には何かあるぞと、、。期待する!

 

 

ずっと下の方まで続いているようだ。

ひょっとして、シラサ峠に続く道があるかも。

ちょっとだけ、ロープにぶら下がって降りてみる。

ロープが垂れ下がってるということは、ここを下っていく人がいるのだ。

 

 

けっこう急坂だ。

今回は、ヘルメットの準備やリュック等も持ってないので、安全を考えてここで撤退。

筋力の衰えた年寄りだから過信は禁物。

次回、準備してここから先の探索に来よう。

 

 

 

県道12号西条久万線をいく。

西条市大保木西之川にある西之川バス停留所。

現在、この西之川停留所が、このバス路線の終点になっている。

以前は、西之川バス停横にある大宮橋を渡って東之川集落まで、バスの定期便は走っていた時期もあった。

 

この東之川に通じる大宮橋はちょっと有名。

斬新なデザインで緻密に造られ、優れた鉄筋コンクリート製の橋として、2005年に土木学会の土木遺産に選奨されている。

 

大宮橋は昭和2年竣工で、完成後90年以上も経っていて、あちこち傷みや歪みが生じてきた。

解体か補修か検討した結果、土木遺産ということもあり、補修をする方向で決まり、2020年に完成した。

 

そんな新装なった曇天の大宮橋をちょっと眺め一服。

しばらくして、大宮橋は渡らず、堂前商店前を通り、御塔谷橋を渡って川沿いの道を行く。

 

しばらく行くと、谷沿いに名古瀬集落が見えてきだす。

この道をまっすぐ、名古瀬谷に向かって遡って行く。

 

対岸に渡る名古瀬橋があるが、渡らずそのまままっすぐに行く。

 

途中、赤谷、名古瀬谷と書かれた古びた標示板がある。

観光のための標示板なのだろうか?

いつ頃から立っているのだろうか?

 

 

西条市の大保木西之川のさらに山深い名古瀬谷に、鉄筋コンクリート製の構造物が谷の上に横たわっている。

はじめ横から見たときは、水路かと思った。

軌道橋で、構造物が二列に並んでいる。

山奥で切り倒したブナなどの大木を軌道で運んでいた。

その森林軌道が走っていた名残りだ。

橋の上にレールがあったはずだが、それはもう残っていなかった。

名古瀬谷奥の山には良木が沢山かつてはあった。

数年前、ここより下流の名古瀬集落の谷川で、レールが埋まった状態であったのを見た覚えがある。そのレールの先の一部は曲がった状態で顔を出していた。おそらくいつの間にか谷川に落ち、流されたのだろう。

昭和10年(1935年)頃に、森林軌道は建設され昭和25年まであったようだ。

しかし、忙しく活躍していたのは5,6年の間で、森林運搬用としての軌道は役割は終えていたようだ。

それに代わって索道ができ、切り出した材木を、ワイヤで吊っておろすのがその後、主流になっていった。

軌道の全長は3500m程あったようだが、この地域に森林軌道があった事を知っている人は以外と少ない。

このあたり一帯は、今は緑に覆われた植林地帯で、ここに来る人はほとんどいない。

たまに、この奥山に採石にいくダンプが行き来するくらいである。

しかし、戦前、戦中、戦後と原生林などの大木の運搬や、この近くにある赤谷抗での採鉱や運搬で沢山の人達がこの西之川地区に住んだ。また、標高1400mほどもある県境をまたぎ農耕や行商などで往来した人々も多かった山間だった。

 

この軌道橋を渡ったところからは、右に折れ、さらに奥に谷に沿って軌道が走っていた。

 

 

切り立った険しい山峡に沿って軌道は建設され、トンネルも建設された。

そのトンネルの名残が名古瀬谷にある。

塞がれたトンネル入り口、朽ちてトンネル入り口に穴が開いているのが見える。

 

この山上には赤谷抗跡がある。 

 

         西之川名古瀬谷の森林軌道跡へ  ↓

大保木 西之川の森林軌道 | ア-ルの写真記 (ameblo.jp)

西条市西之川に「赤谷」と呼ばれている谷がある。

石鎚登山ロープウエイ乗り場のある下谷を通り過ぎ、さらに谷川沿いに、林道をどんどん上がっていくとある。

赤谷と呼ばれているが、石の表面が赤いというか、私にはむしろ黄色いように見える。

大小様々な岩や石が転げ落ちない程度の勾配を持って、谷沿いに縦長に続いている。

岩石に含まれる鉄分が酸化して赤く(黄色く)なっているのだろう。

この赤い谷の上の方に、かつて銅を産出する鉱山があったと、西之川に住む人が教えてくれた。

西之川や東之川にはいくつか鉱山があったようで、西之川には、赤谷抗(西之川抗ともいう)、野地抗、有永抗と三ヶ所抗口があったようだ。これら三つの西之川の鉱山をまとめて野地鉱山と呼んでいたそうだ。

明治年間から開発され、盛時には選鉱製錬設備も有して精鉱3000トン程を毎月出鉱し、野地坑・有永坑は支山として操業されたという。

昭和20年に休山、26年に再開したが、ついに31年に廃鉱になった。

鉱山跡がまだ残っているという。

前々から、どんなところか興味があったし、一度は見てみたいと思っていたので行ってみた。

 

大きな岩がいくつも転げる赤谷。

 

 

谷筋を赤く染めている。

この谷川沿いを上がっていく。

 

谷沿いに、ゆっくりと頬をなぜるように降りてくる風の冷たさが、あたりの岩に垂れ下がるつららを見てわかる。

 

 

どんどん上って行くと途中、コンクリート構造物に出くわす。

何でここにこんな物が?

その上にあがり、どこに続いているのか下っている方に向かって歩いて行ってみる。

急峻な岩肌を砕きその上を這うように続いている。歩いて行くと、どんどん下っていくようなので、引き返す。

住友共同電力が水力発電用に水を送る送水管のようだ。

家に帰って地図を見ると、西之川の御塔谷で取水した水は、ここを通り東之川に行き、山中を貫き、最終的には大保木千野々にある水力発電所まで行っているようだ。

 

引き返して、さらに上って行く。

倒れた杉の木の間を縫って上がっていく。

足腰の衰えを最近特に実感しだした。

山中をすいすい駆け巡っていた昔が懐かしい!

 

途中、炭焼き窯の跡?が残っていた。

 

谷向こうに、長い石段が見えてきた。

こんな所にめずらしい物がある。

 

山腹を這うように、緩やかな傾斜で苔むしたコンクリート階段が上に向かって続いている。

この長い階段を見た時、1964年の東京オリンピック開催当日のワンシーンが思い浮かんだ。

それは、国立競技場の高所にある聖火台に点火するために、選手が長い階段を聖火を持って上って行くシーン。

あの聖火台に続く長い階段と、この長い階段がなぜか重なった。

 

 

階段を登り切った所から少し上がると、抗口が目の前に現れた。

これが赤谷抗の抗口。

 

格子の間から撮影。うっすらと奥の方が見える。

 

近くにコンクリート壁が残っている。

このあたりは平らな地になっているが、建物などは見当たらないようだ。

抗口から採りだした鉱石を、いったんここらにおいておく場所かもしれない。

 

山肌を切り崩し造ったような平坦な地に、さび付いたバケツとコンクリート製の水を貯める?タンクが残っていた。

 

 

 

 

 

 

1972年3月17日~4月2日    トカラ列島 宝島訪島

 

3月17日愛媛発~ 八幡浜港 →臼杵 →鹿児島駅→鹿児島港 

3月18日 PM10  鹿児島港とトカラ列島を結ぶ定期航路船

             第三  十島丸で鹿児島港を出港

   (第三十島丸は総トン数496トンの旅客定員は160名 )

 

3月19日~20日 夜中、屋久島を過ぎたあたりから海が荒れ始め た。

船が大きく上下に揺れて始める。

海面をたたきつけながら進む。船底からその音が聞こえてくる。

狭い客室のあちこちでゲーゲーいいだし、嘔吐しだした。それにつられて私も吐く。昨晩、乗船前に食べたカツ丼とラーメンはすべて吐く。今回は5人で参加したが、4人が吐いた。

初めての船酔いだった。

 

船は中之島の比較的に波風弱い島の裏側に避難し、停泊した。

3月20日~21日

翌日も航行は悪天で出来そうもない。

少し波が収まり避難のために艀(はしけ)で中之島に上陸。

その日は予定外の避難のため、旅館泊、翌日の夜は公民館を借りて泊。

22日早朝、海は穏やかになり、艀で本船に乗船し、やっと出発開始

 悪石島、諏訪之瀬島、小宝島に艀(はしけ)を使い人や物資などを降ろしながら行く。

3月22日夜宝島着  夜9時ごろ到着で、その日は公民館泊。

出発してから5日目にやっと目的地到着。

 

 

 

 

20日なんとか夕刻に艀を使い下船し、その日は、中之島の旅館泊

翌日の21日は公民館にお願いし泊めてもらう。

天候の回復を願うばかりだった。

春の東シナ海は、よく荒れると聞いた。

 

 

海岸には、海水を手で触ってみて、熱いほどの温泉が湧き出ている所があった。

トカラ列島は火山列島でも在り、中之島の御岳や諏訪之瀬島の火口からは今も活発に噴煙が上がっている。

 

 

 

○印で囲んであるところは、温泉が湧き出ていて、温泉施設として島民が使用する小屋だ。

ここの温泉に入浴させてもらった。確か無料だったような?

いい~ 湯だ な~あっ!

 

 

公民館の近くに学校があり

子供達が野球に興じていた。

中之島にて

 

 

トカラ列島を訪れた時代の1972年は、十島村の島々の港湾施設はまだまだ貧弱で、500トン足らずの船が接岸できる港が整ってなかった。

そんなことで、沖合にイカリを降ろし定期航路船「第三 十島丸」を停泊させ、小さな艀で港まで物資や人を運んでいた。人や、物資を下ろすのに艀での作業、時間と労力がかかった。

 

やっと宝島に向け出発できる。

そろそろこの艀に乗って本船に乗船だ。

 中之島港にて

 

 

時化のため船が航行できず、中之島で4日間滞在、4日目になんとか中之島を離れ、十島村の島々に物資を届けながら航行。

やっと宝島に着き乗客が下船を始めたのは、日が暮れたPM9ごろだった。沖合に十島丸を停泊させ、暗い中を艀に順番に飛び降りる。私が本線から艀に飛び降りた瞬間、私の膝が、すでに艀に下りて、膝ついて座っていた島民である婦人の眉間にあたってしまい、婦人は眉間に手をやり、顔をしかめて痛そうにしていたのを、今も覚えている。

幸いにも、怪我も何もなくてよかったと思っている。

当時の乗船、下船は危険を伴う事が多かったようだ。

 

夜に到着、その日は、島のお世話人さんに頼んで、宝島の公民館に身を寄せる。

翌日、一週間ほど宝島でお世話になるので、廃屋を借りる。

電気も水道の蛇口もある廃屋だ。

家賃は2000円、水道代200円、電気代は300円合計2500円で借りる事になった。

 

まだ観光客がここを訪れる事が少なかった時代、「宝島で村の人たちと道ですれ違うときは、必ず一言挨拶するのが、村の掟」と、訪れる前にアドバイスをうけた。

借家を借りて落ち着いた。借家からあたりを見まわす。左に見える建物が公民館。

 

 

三角形の形をしている山が女神山。

女神山の向こうあたりに、鍾乳洞である観音洞があるようだ。

 

古い廃屋を借りた借家住まいだが、テント生活より快適。

屋根と平らな板間にゴザが敷いてあるだけだが、満足快適生活だ。

 

 

天然記念物のトカラ馬。この馬は、荒木崎の灯台に行くときに放牧されているのを見たように思う。

今は宝島にはトカラ馬はいないようだ。

中之島にはいるようだ。

宝島で放牧されていて、牧草を食べるトカラ馬。

 

 

 

砂漠のような砂浜 センゴ

 

 

帰りは、宝島から第三十島丸で約三時間程で奄美大島に行き、奄美大島から鹿児島港直行便の大型の船で帰る。

奄美大島から鹿児島行きの船も、悪天候のために欠航となり、ここでも旅館の世話になる。

奄美大島では、欠航で時間が出来たので、奄美見物に出かけたような記憶が? ハブとマングースのショウの入場券がアルバムに貼ってあった。現在はこのようなショウは、動物愛護の観点から行われていないようだ。沖縄でも復帰直後はこのようなショウが行われていたのを見たことがある。

 

 

一日遅れでなんとか出港したが、まだ波も荒かった。

しかし、大型の船だからたいしたことはなかった。

横揺れ防止装置も大きい船だから備わっていたと思う。

しかし、第3 十島丸で宝島に行く船旅は、船酔いに悩まされた。

鹿児島港行きの船は、前日乗れなかった乗船客も多くいて、船内は通路までも寝る人たちで占領されていた。それでもまだ寝るところもない人たちがねぐらをさがし求め右往左往し、ごった返していた様を今も覚えている。