ア-ルの写真記

ア-ルの写真記

四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
写真を撮ってます。写真は記録!旅は人生の肥やし!
(日本写真家協会 会員)
(ブログ内画像の無断使用、転載は遠慮ください)

愛媛新聞に、立野の石灯籠のことが写真入りで載っていた。写真を見て、すぐに旧石鎚村に残る石積みの灯籠によく似ていると思った。立野の灯籠を見てみたいなと思いつつ、ずっと行ってなかった。新聞掲載されていたのはもう昨年のこと。やっと行って見てきました。

新聞には、毎日欠かさず灯籠に燈明をあげ拝んでいるとのこと。今も続いているだろうか、と少々不安な気持ちを抱きながら行きました。地図で立野の位置を調べるとかなり山上のよう。灯籠は標高700㍍弱ほどの場所にある。道はややこしく曲がりくねり、枝分かれしたり途中で消えたりしながらたくさん地図上を走っているが、立野に辿り着ける道は多くはないみたい。どの道を通って行けば良いのか、地図とにらめっこしながら赤線でなぞり、道が分岐するところは注意するようにと、○印で囲んでおいた。そして、地元出身の写友に道を尋ねたりもした。お陰で思っていたよりすんなりと、集落に到達することができました。

 

車を駐めてから、狭い道を上がりはじめると、なにやらガタンと音が。

たまにしか来ない訪問者を察して、空き家にたむろしていた猿の群れが、驚くこともなくぼつぼつと山に帰りはじめた。

 

坂道を100㍍ほど上がっていった曲がり角の脇に、灯籠は立っていた。

高さは、道からだと2㍍ほどか?石積みは永年の風雨にさらされ続けて、劣化もあったのだろう。石のすき間にセメントを詰め込み、上部もセメントで平らに補修して、上に火袋を置いていた。

丁寧に作られた火袋には、開き戸というか窓があり、中にろうそくなどが置いてある。開いたままで拝み、戸は閉めてかえる。

 

昭和の30年代、集落に28世帯が暮らしていたが、産業の衰退と高齢化により、だんだんと山を下りていきはじめ、現在は、一年を通して住み続ける世帯は1世帯。写真のご夫婦だけになった。

 

石灯籠から、山腹を橫に這うようにして道は続いているようで、雑木が茂る中を、ちょっとだけ奥に入って行ってみた。灯籠橫を走る道は、長く続く街道が多いが、車社会到来前の昔は、この道も、峠を越え山を越えて集落に辿り着き、さらに延々と続いていたと思う。

 

防火用水槽

 

 

 

 

久万高原町の山間に行く途中、麦わら帽を被り蓑をまとい農作業をしている姿を見つけた。

近づいて行ってタイミングを見はからって声をかけた。

老婦人だった。

簔姿が目に入ったときは「今でもまだ蓑を身にまとい仕事をしている人がいるのか」と驚嘆した。

半世紀以上も前は、雨降りの日などに田畑でよく見かけた農作業風景で、別に珍しくもなかったが、いつの間にか合成繊維の雨ガッパに代わり、ここ二十年以上?見かけたことはなかったように思う。

 

「おひさんが背中に当たると少々暑いので蓑をまとっているのよ」と、老婦人は作業を止めて説明してくれた。

出会った日は快晴で、日差しは普段よりは少し強いかなと感じた。

また、10年ほど前までは、穫れた野菜を道の駅に出荷していたが、高齢になったのでやめた。
今は、松山にいる子や孫たちが、喜んで食べてくれるのがうれしくて、家でテレビを見てるより、畑仕事の方がズッと楽しい、と背筋を伸ばしハキハキとした声で話してくれた。
お年を聞いたら、94歳と返ってきたのに驚いた。
 
蓑を見て、これはスゲで出来てるんですよね、と尋ねたら、スゲですとの返事が返ってきた。
 
スゲといえば昨年の夏、かつて石鎚山へ行く山道途中の今宮集落で生まれ育った、Mさんの蓑づくり実演会が公民館であった時、見学に行ったことを連想した。
 
今宮集落は、石鎚登山ロープウェイや石鎚スカイライン(昭和43年開通)が開通するまでは、石鎚山や成就に行く登山客や参拝者が多く、賑わっていた。
7月のお山開きの時期は、特に宿泊客が多く、季節宿は多忙を極めた。
Mさんは宿の仕事に従事しながらも、閑散期にはお守りとしてよく売れた、お猿さんの小さなぬいぐるみを作り、参拝客におみあげ用として売り、また、山に自生しているスゲを材料にして蓑を作って売り、現金収入を得ていたという。
Mさんは、簔を編む実演では、98歳という高齢にもかかわらず、途中で迷うことなく手を動かし続け、ムシロを編む機械に似た蓑作り機で形にしていく姿に、見学に来ている誰もが感動したと思う。
蓑の材料は、棕櫚やワラやスゲなどがあるが、Mさんが作る蓑は、材料にスゲを使ったという。
スゲは山のあちこちに自生していて、軽くて丈夫だという。
 
御年99歳となるMさん(2024年撮影)
 
Mさんに会ったら、蓑をまとい畑仕事をしていた人がいたことを伝えたい。
 
 

西之川の久七神社に行ったとき、境内近くの山道に「猪谷横坑入口」と書いたプレートが立っていた。西之川にはむかし鉱山があったのを知っていたので、てっきり鉱山の抗口だと思い、見てみようと山道を上がって行った。

どんどん上がって行くが、なかなか辿り着かない。

どもまで行くのだろうと思いながらも息が切れる。

休みながら行ったが行く方向を教えてくれるプレートがあるだけ。

 

上がって行くと石垣が方々にある。

林の中は一面が畑だったようだ。

 

 

 

きれいに積んだ石垣上に何かありそうだな、と上がって行った。

 

小屋がある。

もう何十年も使われてないようだ。

軒下には長いハシゴが吊してあり、小屋前に大きなポリ製容器が並んでいた。

ハシゴは木の枝打ちなどで使用したのだろうが、容器類は何に使っていたのだろう。

 

さらに上へと行った。

大きな岩上にコンクリートで基礎をこしらえ、小屋が建っている。

隣にもう一つ小屋があった。

 

 

鍵がかかってなかったので中を覗いたら、赤土と石などで固めた炭窯だろうと思う物があった。

小屋内にありまだまだきれいな形で残っていた。 

 

 

目的の猪谷抗を探して先に進んだ。

 

急に日当たりが良くなったと思ったら、谷川の上流らしきところにでた。

すると、上の方にコンクリート構造物が見えたので近づいて行くと、穴の中へと大量の水が流れ込んでいて、入り口橫のプレートに隧道の文字がある、、。

 

やっとわかった。

鉱山の坑道入り口ではなく、水力発電用の水を送るための抗口だということが。

この隧道は、長さ1341㍍で東之川まで延びている。

そこからは、また前田峠付近の下を潜り、千野々の水力発電所まで続く。

抗口は、最初思ったのとは違い期待外れだったが、その代わり西之川の山肌に広がっていた耕作地跡や炭窯跡を見れたので、行ってよかった。

抗口がどのあたりなのか帰って夜に地図を見てみたら、下の谷川からは標高差で100㍍ほど上だった。

見た感じだが、そのあたりまでかつては畑が広がっていたようだ。

西之川は加茂川上流の支流に沿ってある山峡集落だが、かつては林業や鉱山で栄え、人口は多く賑わいをみせていて、山村の寂しいイメージはなかったと聞いことがる。

自給自足の時代、西之川は急峻な山肌に挟まれた集落で耕作できる面積はそう多くはなかったようで、集落内だけでは食料をまかないきれなかった。集落の人たちの中には、名古瀬の谷沿いの道を行き、県境のシラサ峠を越え高知の寺川白猪谷あたりまで行き、出作りをしていたとも聞いた。

 

西条市西之川、かつては森林軌道が谷に沿って山奥まで続いていて良木を産出をしていたし、製炭や造林も盛んに行われていた。また、住友系の鉱山があり採鉱にも多くの人たちが携わり、病院や映画館などの施設も整う賑やかな集落だったという。しかしながら、山間産業が衰退し始めてから久しく、今は数名の人が暮らすだけとなり、昼間もひっそりとした雰囲気が漂う。

そのような集落内の神社で、今も信者さんたちが集まって、春祭りが静かに行われているという。

そこは氏神神社ではなく、別の神社で行われると聞いたとき、寂しくなった山間集落で今も行事が続いているのかと、ちょっと心が温まった。

お祭りの様子や建築物など、是非とも写真で撮っておきたいと思い、祭祀を司る方に撮影許可のお願いをした。

はじまる少し前に行くとお世話人数名もおられて、戸を開けてくれ入室を促してくれたが、外から神事などを撮影させてもらった。

 

 

西ノ川の大宮橋

御塔橋、橋の向こう側に堂前商店跡が見える。

 

 

空き家が並ぶ西之川集落。

 

 

 

行く途中、久七大権現と書いたのぼり旗が何本か立っていた。

 

久七権現を祀る神社

 

昭和63年建立の教祖生誕100周年記念碑が拝殿前に立っていた。古くから続く宗教ではなく、比較的新しいようだ。

教祖は明治21年前後生まれのようで、存命なら137歳ほど、宮司の祖母にあたるという。

のぼりの奉納者の中に県外高知の吾川郡吾北村西川、吾北村清水下部の人たちの名があった。

昭和28年建立の石碑には桜樹村小谷の文字もあった。

ずいぶん遠くから訪れてくる人たちがいるのは意外だった。

西川や清水下部を訪れたことがあるが、高知の山深い所に位置し、しかも西之川からは、かなりの距離がある。

小谷は西条市にあるが、山間の楠窪地方でも最も山深い地域にある集落で、現在は無住集落と化している。

どのような縁や繫がりで、またどのようなルートで西之川まで来たのだろうと思った。

来はじめた昔は、山の道でつながり山越えで歩いてきていたのでは、と地図を覗いた。

アップダウンを何度も繰り返す山道を難儀しながら長時間かけて歩いて来たのでは、と想像しながら見入った。

現在、道といえば、舗装した車道を思い浮かべるが、車社会の到来前は、道といえば、人や牛や馬が歩くためにあった。

道幅は狭いし、急坂や急カーブもあった。

昔は、そのような道が、山中には網の目のようにたくさん存在していたようだ。

久七神社前には谷川があり、普段は穏やかに水が流れているが、すこし行った上流は急峻な岩肌を見せるV字の名古瀬谷と化している。

かつては急峻な谷の岩肌に沿って峠を越えて行く古道があり、途中からは何本にも分かれて峠に続いていた。 

 

道標のようだが古すぎてわからない。

 

 

名古瀬のV字谷に沿って森林軌道が走っていた名残があるが、 ここは人が歩いて行く道としても共用された。 

 

急峻な岩肌を砕いて作った軌道跡だが、路肩から崩れはじめていた。

 

名古瀬谷に沿ってある古道を辿っていると、金属製の道標が立っていた。

名之川峠に行く道があるようだ。

現在はどこまで道が残っているかはわからないが、、。

 

 

古道が分岐するところに、「シラサ峠」を指し示すブリキ製?の道標も残っていた。

そこを上って行くとハト谷に出会い、やがてはシラサ峠に辿り着くようだ。

全国を隈なく歩きまわったという民俗学者の宮本常一が、戦争が始まった年の師走、高知の山深い寺川を訪れているが、名古瀬谷のこの坂道を歩いて行ったと確信している。

 

 

 

谷川を渡る簡易の橋も架かっているが、かなり朽ちてきている。渡ると名ノ川越え(峠)方面か。

 

昔、高知の吾北村方面から、西之川に来ていた信者さんたちは、名ノ川峠或いはシラサ峠を越えてから、名古瀬谷に沿って走る道を歩き往来していたのでは、と思った。

また、楠窪の小谷から西之川までの行程は。

まずは、旧石鎚村の天ヶ峠まで登り、そこからは尾根づたいにある道を橫峰寺奥の院・星ヶ森峠まで歩き、峠を下って行き大保木の河口に出て、西之川へと行ったのでは、と地図を見ながら想像してみた。

地図を持ち、先人が歩いた山間の古道を辿り、集落を訪れたりして当時の社会状況や情景を思い浮かべてみると、想像力が掻き立てられる。

西条市丹原町から東温市へと、国道11号線が谷川に沿って通っていて、山間部あたりを「桜三里」と呼んでいる。そこに樹齢何百年もの「源太桜」があるというのはだいぶ前から知っている。

春が来ると大木に花が咲き、毎年多くの花見客が訪れると聞いてはいたが、まだ一度も行ったことがなかった。桜三里を通るたびに行ってたいなと思いながらも、用事を優先したり季節外れだったり、また気がつけば花は散りすでに遅しと。来年こそは、と思いながら、すでに何十年も経った。先日思いたってやっと行って来ました。

源太桜の橫に立つプレートに記された説明によると、1687年に松山藩主の矢野五郎右衛門が土砂崩壊を防ぐため、街道に沿って桜の木を8240本ほど植えたが、今も残っているのは2本だけのようで、その桜が「源太桜」だそうです。2本だも樹高は23㍍ほどで幹まわりは約3㍍。樹齢は340年ほどで、種類はエドヒガン桜とのことです。松山藩主矢野五郎右衛門の通称が源太だったことから、「源太桜」の名がついたも記してました。

源太桜は東温市にあるが西条市丹原町に近い場所で、地図を見ると丹原の千原から谷川に下りていく細道があり、そこから行く方が東温市土谷から行くよりも近そうなので行った。空きスペースに車を駐めてから堰堤を渡って行くと、古道らしき道が続いていた。

 

 

 

 

これが金比羅街道といわれた旧道のようだ

 

谷川の近くを、かつては山越えをして行く金比羅街道などが走っていて、人々の往来も頻繁で住人もいたのだろう。数カ所に墓地があり、安永の文字が刻まれた、当時としては立派だなと思う墓石が建ってました。

 

ミツマタの花も丁度満開で迎えてくれました。

 

久万高原町の面河ダム近くを走っていたとき、道脇のちょっと広くなったスペースに見たことがある農機具が、もう要らないのか、捨てたように立ってました。なんだっけと、すぐには思い出せなかった。うるさい音を立てながら活躍していた籾すり機だとわかり、引き返して撮影をしました。個人ではなかなか所有できず、共同の作業所で何人かがたかって籾すりしてました。親父がそこで籾すり作業するときに、一緒について行き、遊んでいたことを記憶しています。

鎌でイネを刈っていた時代に活躍してましたが、昔は高価な農機具だったはずです。

さらに愛媛のイセキ農機の製品だったことに驚嘆です。

 

かつて石鎚村と呼ばれた山中に、四国霊場 第六十番札所 横峰寺はある。

その寺の奥の院、星が森峠(金の鳥居)からは西日本最高峰 霊峰石鎚山(1982m)が遠望出来る。

ここから見る石鎚山は、実に雄壮で神々しい山だ、と見るたびに思う。

昭和初期にバス路線が村内の河口まで開通するまでは、この星ヶ森峠を跨いで、石鎚参拝者や村人たちなど、多くの人たちが行き来していた。

車社会の到来前でトンネルのない時代、峠は交通の要所だった。

 

星ヶ森峠から石鎚山へと通じる道を、15分ほどだろうか、下りていくと「郷」という集落跡がある。

そこで「寛政四」の文字と「千足村」の文字を刻んだ台座に石仏が座っていた。

寛政4年(1792年)のころ、すでにこのあたりは千足村と呼ばれていたようだ。

 

 

地蔵の台座に寛政四と彫られた文字      於 石鎚 郷集落跡

 

明治にはいり、町村制施行によって千足村から千足と呼ぶようになった

千足山村の集落は、石鎚の山間や山麓にあり、遠方からやってくる多くの参拝者たちは、村内を往来したり村内で宿泊したりと、昔から石鎚山とは深いつながりがあった。古くから多くの参拝客を受け入れている村として、又石鎚山の麓の村として、千足山村より「石鎚村」という名の方がふさわしいのではないか、と村議会で審議したという。

結果、千足山村から石鎚村に村名変更することが決まり、1951年に「石鎚村」となった。

しかしながら、石鎚村と呼ばれるようになったのもつかの間、4年後に小松町との合併問題が持ち上がり、1955年4月に合併し、小松町石鎚という呼び名に変わった。

「石鎚村」とよばれたのは、たったの4年間だけだった。

 

            横峰寺奥の院 星ヶ森峠から遠望

 

        1951年(昭和26年)ごろ石鎚村(千足山村)の地図

石鎚山の山頂より旧石鎚村方面を望む。

見渡すかぎり山だ。

そんな中に石鎚村はあった。

標高200~600㍍ほどのところに20ほどの集落があり、明治時代は人口は多いときで1300人余りの人が暮らした。

写真の上部は雲が覆っているが、天気のいい日は山並みの向こう側に広大な周桑平野が広がり、田園風景や工業地域、また町並などが俯瞰できる。

さらにその向こうには、湖のように波静かな瀬戸内海が見える。

 

かつては、石鎚山頂から旧石鎚村の中村集落や兼藪集落など4つの集落が見えていたという。

今は、畑や家跡に、山を下りるとき植えた杉やヒノキの木が大きく育ち、山肌にあった集落や一面にひろがっていた畑を覆ってしまい、山頂からほとんど見えない。

下の写真下方に、台形の形をした白い小さなものがポツンと見える。

旧石鎚村の中村集落に2014年末まで住んでおられたS氏のお家だ。

 

(石鎚山頂より石鎚村中村集落方面を望遠レンズで写す)

 

中村集落

諏訪神社前の駐車場から古道を歩いて上って行くと、あき谷という谷川に架かる平らな石橋がある。

長さは2㍍以上あるだろうか?

この橋を渡ってしばらく坂道を行くと、石垣が見えてくる。

中村集落に近づいたようだ。

上がって行くと石積みの石灯籠に出会う。

 

中村の灯籠(野灯)の石積みは、石貝にある野灯と同じように大きい。

この村では、石灯籠のことを野灯(やとう)とよぶ。

このような石積みの野灯を、崩れているものも含め村内の7カ所で見た。

石鎚村に隣接した周りの村ではこのような形をした灯籠は見たことがない。

 

          (写真は下から見上げて撮影)

 

石灯籠(野灯)向こうに山が見える。

山の一番高い向こう側に成就社の境内がある。

石鎚中村集落は平家の落人集落で、落人たちが隠れ住んだ時代、野灯がある辺りは落ち合う場所だった、と中村に住んだS氏はいう。

 

雪の旧石鎚村 中村のS氏宅。

S氏宅前は、S氏の庭でもあり、谷ヶ内集落へ行く道でもある。

屋根から落ちてきた雪が道を覆っていた。

車を駐めた諏訪神社の駐車場にはほとんど雪がなかったのに、知らず知らずのうちに上がって来ると、多くなっていた。

ここの標高は600㍍弱だろうか。

 

 

中村集落を通り抜け、少し上ると見晴らしのいい所に出る。

ここからは石鎚山の山頂が見える。

 

 

さらに上って行くと鉄製の索道が残っている。

この索道は二代目だそうで、昭和48年頃に同じ場所に架け替えたという。

 

索道のすぐ上に、コンクリート製の水槽があった。

最初見た時、防火用かと思った。

水槽の水をタンクに入れて重しにし、索道で下から荷などをここまで運び上げていたという。

後に水力から、発動機(エンジン)に変わっていったようだ。

昔使っていた発動機が索道下に残っていた。

 

 

急峻な山肌にある中村から谷ヶ内に行く道は、植林した木々などは手入れされず雑然と立ち、陽当たりは悪い。

下草も十分に生えず、地面は猪にほじくり返され、道は崩れ落ちた土砂が覆っていてわかりにくい。

人が利用しなくなり役割を終えた古道は、補修されず消えかけている。

代わりに、猪やシカ、猿などが通る獣道があちこちと出来ていて、紛らわしい。

道だったと思う荒れた山肌をほぼまっすぐに、足下に気をつけながら歩いた。

 

ここらあたりは、イノシシが山肌をほじくり返し荒れている。

 

谷ヶ内集落

足下に気をとられながら前進し、ふと顔を上げると遠く何かがあるようだ。

よく見て、六地蔵だと。

集落はまだまだ先だと思い歩いていた。

思ったより早く着いた。

しかも難なく六地蔵を発見出来た。

 

谷ヶ内集落の入り口あたりに来たみたいだ。

石鎚村には、集落入り口付近に六地蔵が鎮座しているところが多い、ということを書いた文章を、村出身のS氏が小松史談会の会誌に寄稿していた。

槌の川や石貝、成藪、大平、郷、古坊、途中之川なども、訪れてみると集落入り口近くにあり、なるほど、多いなと思った。

 

長年の風雨にさらされ続け、浸食されたのだろう。

彫られた像に鮮明さはなく、六地蔵は見るからに古そうだ。

ノミと鎚だけで彫ったもののようだ。

藩政時代に造られたものだろうか?

下界で聞く雑音がない静かな山奥で、鎮座する地蔵に顔を近づけてしばらく対峙していると、像は神秘的で、芸術品を見ているようだ。

地蔵の前にひざまずいて、いったい何人の人が、これまでに手を合わせたことだろう。

道沿いの崩れかけの石積み台の上で、もの言わずいまだに立ち続ける地蔵に、心が動く。

石鎚山麓に開ける周桑平野の石工が彫って、いつここまで運んで来たのだろうか。

 

 

 

 

六地蔵前を通り過ぎて行くと、石垣に沿って、古道は奥の方へとまだ続いて終点は見えない。

石垣も奥へと長く続いている。

しかも上方や下方にも石垣は幾段もあるみたいだ。

 

石垣上は、今は植林した木が覆っているが、昔は家あり自給するための畑があった。

集落に入っていくと、残骸がある。

茅葺きの家が潰れ落ちた跡だ。

押しつぶされて腐り、土に戻ったのもあるが、家の骨格部分がまだ腐りかけで残っている。

茅葺きの家は、人が住まなくなると屋根がぬけ、崩れ落ち腐り、ゆっくりと地面になじみ土となり循環していく。

今日の家ように、やっかいな粗大ゴミにはならずに。

昔、山にたくさんあった茅葺きの家は、自然の中で循環していく優しい建物だ。

 

谷ヶ内集落。

白壁?の比較的に新しいお家が見えてきた。

二階建ての建物のようだ。

歩いてしかこれない、しかも1時間はかかるだろうと思うこんな所に、このような家があるとは驚いた。

入り口から覗くと、一階は山から崩れ落ちてきた土砂が入り込んでいた。

半分ほど土砂で埋まり、柱に倒れかかる洗濯機が家の中に残っていた。

珍しい木製の種まき機も階段にもたれかかるようにしてあった。

 

さらに奥へと行ってみる。

手前に三角の形をした何か?上をトタン板が覆っている。

よく見ると、かやぶき屋根の棟に被せたトタン板のようだ。

下の部分は押し潰され、土に帰りかけていた。

 

植林された木々で遮られて見えにくいが、重い石でできた石垣が、崩れ落ちてくる土を食い止めるように山肌を橫に這い、長く続いている。

そのような石垣群が上の方にもまだあるようだ。

石垣の上は、人が住んでいた頃は畑だった。

 

 

どんなにして、こんな大きな石をここに持ってきたのだろう、と思うような大きな石など、大小の石を上手く並べ、積み上げ造った排水路が何ヶ所か集落内に残っている。

山の上から谷に向かって造られている大がかりな排水路だ。

コンクリートや建設機械もない時代、石を上手く利用し土木工事を行い、様々な構造物を造っていたのに感心する。

 

 

 

 

西之川でも一番山奥にある家まで、友人が仕事で打ち合わせに行くというのでお伴をした。

というか行きたかったので運転手でいった。

この日は、近年では珍しく雪がちらつき、道に雪が残る天候で、ちょっと寒かった。

大保木(おおふき)の山の駅を通り過ぎ、石鎚登山ロープウェイ乗り場がある西之川へと。

 

ロープウェイ下谷駅前を通り抜けてから10分たらずで着いた。

ここまで来ると、また雪が降り始めた。

車から出ると、瓶ヶ森山から下りてくる冷気が、谷川を伝いゆっくりと下りて来て、ほっぺたをなぜていくので急に寒く感じる。

雪が降っていて視界はちょっとよくないが、目前の山向こうにはうっすらと小森山が見える。

あのあたりには、昔住友が経営する鉱山があり、その関係の仕事に就く人は多かった。

また森林軌道や索道を利用しての木材産出や造林の仕事も多く、西之川は多くの人たちが暮らし、賑わったという。

住友の社宅や病院、映画館、公衆浴場などもあり、幼い頃はここに住んでいても「山中の田舎」ということは、感じなかったという。

 

名古瀬谷。

この谷を少し上って行くと、急峻で岩肌むき出しのV字谷が続く。

戦争が始まった年の12月に、民俗学者の宮本常一が、この谷に沿ってあった道を通って行き、県境のシラサ峠を越え、高知の寺川へ行っているようだ。

 

 

車庫がある場所に、昔は住友鉱山の社宅が並んで建っていたという。

 

帰る頃になって雪はやんだ。

道は凍ってはいないけど、雪が数㌢ほどだが降り積もっているので、狭い谷川沿いの道ゆえ、滑ると大変。

慎重に運転して帰った。

 

 

昨日まで生きていたという猪肉を帰るときにいただいた。

 

何年か前、郷土誌に紹介されていた大野霊神社のモノクロ写真を見て、人里離れた山深い森中なのに大きな社があるな、と思っていた。

行って見てみたいと思いながらも、、。

やっと昨年末、保井野へ行った帰り、道を逸れ橋を渡って行った。

 

保井野に行ったときは、雲行きが怪しく今にもみぞれ交じりの雨が降りだしそうだったが、相名峠から青滝山続く稜線はくっきりと見えた。

あの相名峠を越えた山向こうに、昔、木地師が多く住んだ梅ヶ市があるのだなと思いながら稜線を眺めた。

梅ヶ市には以前に何度か撮影で訪れたが、今どんな様子なのか、また行ってみたい。 

 

稜線下方は落葉樹林帯が続いている。

山肌は、近年の師走にしては珍しく、雪で薄化粧。

 

鞍瀬川に架かる橋を渡り、なだらかな道を上がる。

 

れき岩層が走る山を切り崩して、車が通れる道を作っているようだ。

 

林道のようだ。

林道 御所線は鞍瀬川から大野例神社までで、約1.2KMの長さ.

 

御所林道というみたい。

林道を行く途中、道脇に鳥居が立っている。

石柱に昭和三十年の文字がある。

 

 

せいぜい荷馬が通れる位の道幅だろうか、道跡が鳥居から下方に続いている。

昔、せっせと歩いて行き来した旧道のようだ。

 

 

 

境内入り口に「村社 大野霊神社」と深く彫った大きくて重そうな社号標が立っている。

裏側に御大典記念とあり、昭和三年の文字も彫られている。

昭和天皇の即位を記念し建てている。

神社に行くと、昭和三年と御大典記念の文字を刻む石碑をよく目にする。

この年、全国の石工たちは多忙だったに違いない。

 

 

 

境内に安政3年と刻まれた石灯籠がある。

また、文政と文久時代の狛犬も3対ある。

 

 

境内に手水舎が座っている。

 

手水舎に「ミツヤ(三津屋)砂田喜助」の文字がある。

三津屋という地に、私は住んでいる。

私の家のすぐ横を大曲川が流れている。

家から200㍍ほど川下に厳島神社がある。

今は埋め立ててしまいないが、厳島神社に隣接するように、川から入り込ん船着き場(港)があった。

この港の入り口周りを囲むようにして、石材屋が砂田石材も含め3軒あったのをかすかだが覚えている。

砂田喜助氏が据えた狛犬が三津屋の厳島神社境内にも残っている。

3軒あった石材屋は現在2軒が廃業、一軒は移転して営んでいる。 

昔、このあたりで使う石材は、瀬戸内海の大島から舟で運んできていた。

このあたりにある港の周辺には、石材屋が多くあったみたいだ。

 

大野霊神社拝殿

 

本殿を後ろから見る

 

かつて神社境内に杉の大木が並んで3本あったが、今は一本になっている。

軍手を杉の大木に横にして引っ掛けてみた。

直径1m50cm位はあるだろうか。まれに見る杉の大木だ。

杉の大木3本のうち2本を切り倒し、売ったお金で拝殿を新築したという。

境内に立つ石碑に「拝殿建築記念 平成6年」と記している。

 

切り倒した2本の杉を運び出すために御所林道は作られた、と鞍瀬の住人から聞いた。

大きくて立派な社は完成したが、氏子は昔から多くなく、十数軒とも聞いた。

悠久の刻の中を、代々受け継がれてきた数々の伝説が残る大野霊神社。

氏子一人一人の大野霊神社に対する思い入れは、相当なものがあったのだろうと想像する。

 

亀形の石台に乗る昭和14年に立てた百度石。

お参りの回数を数えたプレートもきれいなままで今もある。

 

ここから史跡 赤滝城跡に行く道が続いているようだが、降り積もった落ち葉が一面を覆っていてわからない。

近年、城跡を訪ねていく人は、少ないのかも。

 

神社があるあたりを御所と呼ぶらしいが、さらにそこから尾根伝いに上って行き、峠を越え下りていくと、滑川地区の九騎という集落に行くようだ。

明治末期頃までは、御所に人家が点在してあったらしい。

歴史を感じさせる名がつく地がいくつかあるようだが。

 

山間集落や山間集落跡に行き歩きながら、遠い過去の暮らしを想像してみる。

そして、いつも思うことは、「人はいつごろ、なぜここに来て暮らしはじめたのだろうか」ということ。

 

 

年末、朝起きてからコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると

1面の下方にある地軸欄に「大川」、「早明浦ダム」、「詩人の男性」の文字が見えた。

吸い込まれるように5~6行まで読むと

「詩人の男性」とは○○さんのことだとわかった。

4年前に自費出版した 写真集「石鎚山に抱かれて」がたまたま○○さんの目に触れ

ひょんなことから知り合い、交流が始まった。

4~5歳ほど年上だったが

あまり気兼ねせずに話せる人だった。 

石鎚山系の山々をはじめ、大川村や西条市加茂川上流にある大保木などへも

何度か一緒に訪ねたりもした。

 

 

ところが、 

5月6日に心臓の病で急に倒れ亡くなった、と

奥様から連絡をうけた。

連絡を受けたのは、亡くなってから一週間ほど経ってからのことだった。

 

 

○○さんが亡くなった日は

○○さんがブログに下記の詩を書き残した

三日後のこと。

 

夢に見たことを記したのだろう。

なんか因縁のようなものを感じた。

 

父と母

 

木花村高野の坂を

上り詰めると

父と母が立っている

 枯れ草を

 纏い

半身を重ねている

陽だまりで

真っ直ぐ

前を向いている

無口に

閉ざした二人の

記憶が佇んでいる

舞い戻った子らの

足音を束ねて

微笑んでいる

その顔に

降りかかる桜に

風が舞っている

 

 

○○氏と延命寺 手前に植樹したばかりの桜の木が見える

                  於 大川村 延命寺

 

まだまだ話したいことは、いっぱいあった。

話を聞いたり、話したりしながら

まだまだ山間を一緒に訪ねたいとも思っていた。

 

ご冥福をおいのりいたします。

           

           合掌