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ア-ルの写真記

四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
写真を撮ってます。
写真は記録!
旅は人生の肥やし!

(日本写真家協会 会員)

以前、西条市丹原町のヌタ薮方面に行った時、1㍍ほどの長さに切った大木が立っているのを見つけた。

近づいてよく見たら、前方は切り開きかれていて、中は刳りぬかれていた。

木の上には雨よけの幅広の薄い石板が置いてあった。

前方から、中に梵字のような字が書かれた木札が納められているのが見えた。

帰って調べてみたら、あれはどうも地元の人たちが箸蔵宮とよんでいた祠のようだった。

昔、箸藏さんは金比羅宮の奥の院だったという。

金比羅宮も似たような形をして近くにあるらしいので、探しに行った。

 

ヌタ薮の祠に祀る木札は、毎年、新しいものを讃岐の金比羅宮までいただきに行っていたという。

交通手段が徒歩だった時代、日時を要し費用もかさむ金比羅詣では容易ではなかったと思う。

毎年体力ある何人かが交代で、村の代表としていくらかのお金と願い事を託され、行ったのだろう。

桜樹村と呼ばれた時代、桜樹地区内には「金比羅宮」 とよぶ社や祠がいくつかあったみたいだ。

以前行った影無峠にも、長い参道を歩いて行くと金比羅宮跡があった。

桜樹地区内を金比羅街道が走っているから多いのかな、と思った。

 

 

 

 

シカの仕業か、木の根元からちょっと上あたりの周りの皮が剥がれ落ちていた。

このようになった木を目にすることが多くなった。

少し前までは山でシカを見たことなかったが、最近は数が急に増えているのか、

シカが逃げていく姿や糞を山でよく見かけるようになった。

 

 

 

長さ50㌢ほどの狛犬が、不揃いな配置で左右に鎮座していた。

狛犬は文久四年のものという。

狛犬の奥に、長さ1㍍ほどの大木を刳りぬいた祠が、

いくつかの大石を並べた石台の上に建っていた。

中に長さ80㌢幅20㌢ほどの木札が納められていた。

刳りぬかれた大木は榎木だという。

錆びて朽ちかけのトタン屋根が刳りぬいた木の上を覆っていた。

毛筆で何か書いてあったのがすき間から見えたが、読めなかった。

 

正面上に二重丸と金の文字があった。

金比羅さんで間違いないようだ。

裏に回ると、昭和25年、大工は源之助と刻んであった。

金比羅宮から持ち帰った木札を、最後に祀ったのはいつだろう。

 

 

愛媛や高知の山間に行き、人の住む集落など訪れたり、うすくなった古道をたどって上がって行き、集落跡などにも好きで行っている。

人が足を踏み入れない場所に行くと、人間に邪魔されず育つのか珍しい植物や山草、きのこ類と、ふだんあまり見ない種類によく遭遇する。

晴天の日でも、木々に覆われ直射日光が届きにくい林の中は、湿度が高めで生育に適しているようで、初めて見るようなきのこによく出会う。

 

葉っぱのような形状。

これもきのこ?

 

 

 

一見、シイタケのような。

でもよく見ると、違う。

 

  

これも、きのこかと思ったら、どうも違う。

花でもないようだし。

何だろう。  

 

ツタが絡まりあってできた造形美!

 

木にしっかりと巻きついたツタ。

 

古道を遮るように、根元から倒れた古木

 

 

この大きなカズラが目に入ったときは、大蛇がとぐろを巻いているかのように一瞬見え、驚愕。

 

 

落葉した一枚の葉だが、近づいてよく観察していると面白い。

 

 

 

 

マムシ草

 

赤い実がついている。

マムシ草の花が咲いた後、実をつけたのかな。

毒があるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

はじめて見た花。

調べると、ヤマジノホトトギスという山草のようだ。

とても可憐な花だった。

 

昔は、石鎚や堂ヶ森登山中で見たガマガエルとよんだ蛙。

久しぶりに見た。

 

 

 

 

木の管理を怠っていると、植林した木にツタが絡まりはじめる。

 

皮が剥がされている。

鹿の仕業のようだ。

山歩き。

こんなものに出会えるだけでも、けっこう楽しい。

 

蚕の卵を低温で貯蔵して孵化調整するため、明治から大正時代にかけて使用していたという風穴が石鎚村(千足山村)の山懐にありましたが、電気冷蔵庫の普及で利用されなくなったようです。そして、100年ほどが経ち地元出身の人でも風穴があるというのを知る人は、ほとんどいなくなったようです。数年前、学術誌で石鎚村に風穴があることを知った人たちが探し始めました。幸いおおよその場所を知っている人に出会い、その場所を尋ね探し歩きました。その時、同行させてもらい探しまわりましたが、その日は発見に至りませんでした。

その後何回目かの挑戦で発見出来たようです。

その風穴に調査に行くというので同行させてもらいました。

 

周桑郡と呼ばれた地域は道前平野にあり、道前平野は周桑平野ともよんでいます。

周桑郡は明治30年に桑村群と周敷群が合併して出来た新たな群名。

桑村郡と呼ばれた地域は「桑」の文字あることからしてもわかるように、養蚕は盛んだったようです。

かつて、全国各地に存在した風穴は、冷蔵庫が出現するまで、天燃の冷蔵庫として重宝されてました。

石鎚風穴も蚕卵の冷蔵保存場所として利用されていました。

周桑平野からも、山の長い道のりを歩き、天ヶ峠などを越え下りていき、石鎚風穴に蚕の卵を運んで行っていたようです。いったい、どのルートを通って風穴まで行っていたのだろうか、と、古い地図を見ながら思うときがあります。

 

上がっていく途中、アケビの木が見え、果実が垂れ下がってました。

 

石鎚村内では、野灯(やとう)と呼んでいた石灯籠が上がって行く途中あり、見えてきました。

まだまだきれいな状態で残っています。

 

 

かつては穀物などを干した屋根付きのいなきです。

 

 

 

年々、脚力が衰えていく老人の身なので、ヘルメットをかぶり、足下に気をつけながらゆっくり上がって行きました。

大きな岩の間に、人がすこしかがんで入れるくらいの洞穴があり、奥に続いてました。

これが石鎚風穴です。

 

昔は入り口左側に蚕を貯蔵する建屋があったということですが、ありませんでした。

石積みの跡が少しだけあり、風穴の痕跡が残っていました。

 

奥に入っていくと、右側に奥に向かって空洞が数メートル続いてました。

入り口付近や風穴内は少し涼しく感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

黒瀬ダムの建設工事は昭和39年からはじまり、補償交渉などで、工事は一時中断したようだが、昭和48年3月に完成している。

ダム建設中は、これまでどうり加茂川沿いの道をバスや自家用車で通り、石鎚山に行っていた。

行く途中ある、ダムの完成で沈んでしまう集落に、家を壊した跡やダム建設反対の文字が書かれたベニヤ板が立っていた。

車から降りていき、あたりを見まわした光景は、今も頭に焼き付き、覚えている。

 

下のモノクロ写真はダム完成前で、完成すれば湖底となる黒瀬地区。

家は解体され、田畑も建設機械でかき消されているみたいだ。

加茂川に架かる吊り橋が見える。(昭和46年撮影)

 

 

 

黒瀬地区に、吊り橋は三つ架かっていたという。

平成時代の初期ごろ?撮影した写真に、そのうちの一つの橋脚が湖面から顔をだしているのが見える。

 

                        (平成時代の初期ごろ撮影)

 

令和5年10月

黒瀬ダム湖に沿って走る県道から下方に見えるダム湖をのぞいたら、

今年は雨量が少ないためか、ダム湖の水位がかなり下がっていたので湖底まで下りていった。

以前来たとき見えた吊り橋の橋脚は、埋まったのか折れたのか、見えなかった。

 

 

 

濁った水の水位がゆっくりと低下していったのか、このあたりの表面は小石でも砂でもなく、粘土に近い土だった。

 

このあたりは鉄分を含んだ水が流れているのか、赤い模様が見える。

 

 

 

 

 

逃げ場を失ったものすごい数の貝。

写真のようなのがほうぼうにある。

魚の死骸は見なかった。

鷺や鵜のエサとなったようだ。

 

土を掘り返した跡が帯状に長く続いている。

猪が食べ物を探して鼻でつついたようだ。

ミミズがいるのだろうか。

 

 

流木

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年も大保木(おおふき)地方の銀納義民 工藤治兵衛のお盆の法要が中奥の治兵堂でしめやかにおこなわれた。

「米の代わりにお金で納税させてほしい」と願い出て斬首となった治兵衛は村の義民として大切にされ、毎年16日に法要がおこなわれてきた。今年は亡くなってから360年目にあたるという。

 

 

山間にあり、緑に包まれてポツンと佇む治兵衛堂。

治兵衛堂がある中奥という地域は、かつて石鎚へ行く主要な道や尋常小学校があり、村の中心地として栄えた時期もあったというが、今は数人の人が暮らすだけの寂しい地域と化している。

泣き止まないセミの大合唱が、あちこちから暑苦しく聞こえてくるけど、気にはならない。

ここで過ごすつかの間のお盆のひとときは、とても居心地がいいので、今年も行った。

 

300年祭の時に、中奥の婦人会が新調した垂れ幕がかかっている。

今からもう60年も前のことになる。

 

 

法要の後は、お世話人のKさんがつくったおはぎやお茶や酒などなどで。

にぎやかに。

美味!

 

かつて石鎚村(千足山村)戸石と呼ばれた集落跡へ、久しぶりにいった。

といっても、もう三ヶ月以上前のことになる。

画像をアップするのが遅くなってしまいました。

 

石鎚村がまだ千足山村とよばれていた昭和25年、戸石集落には21戸、80人ほどが暮らしていた。

けれども、だんだんと人は減り続けていき、昭和62年、たった一人が暮らすのみとなった。

その後、この集落もとうとう無住になってしまった。

 

谷川に沿って走る道は、道幅はあまり広くなく、おまけにカーブが多い。

そんな道をドンドン車で上がって行き、素掘りのトンネル抜けて進めば、やっと戸石。

 

とうとう崩れてしまった家跡。

前に来たときは、倒れてなかったように思う。

 

村人たちから大切にされていたという六地蔵。

人から目を向けられることもなくなり、倒れかけになったまだが、まだなんとか並んだ状態で残っている。

 

そばに四角形に石積みした跡がある。

上には何かがあったような気がする石台だが、何があったのだろう。

 

山間の住人がだんだんと減っていき、人工林や雑木林は放置されたり、手入れが十分でないころは多い。

蔦類がわが物顔のように占領していき、木に巻きついたり、絡まったりぶら下がったりと、自由気ままに生き延びているところを度々見る。

そんな蔦がつくり出す造形美に惹かれ、レンズを向けることも多くなった。

 

 

 

 

お堂の方へ上がって行ってみた。

扉の上にはぶ厚い板に桐の紋章などが彫られていた。

その部分はきれいなままでまだ残っている。

 

お堂の扉は開いたままで、中に厨子が三つ並んであったが、扉は開いたままになっていた。

お堂の外から中を覗くが、仏像などはなく空っぽのようだった。

 

 

皮のはがれた太鼓がお堂の中に転がっていた。

 

剣道用具の寄付者を記した名板もあった。

「千足山青年団戸石支部」と大正11年の文字も読める。

戸石の若者たちが、剣道をするための防具だろう。

 

 

観音堂の入り口に地蔵が座っている。

地蔵下の石台に安永の元号と、戸石の他に影無の地名も見える。

影無は石鎚村ではなく楠窪村になるが、隣の集落で、影無の人たちはここにも頻繁にお参りに来ていたのだろう。

影無の影無峠付近に、高さ1㍍あまりの石でできた観音像が今も立っている。

ここの観音堂とは、何かでつながりがあったのだろうか。

 

 

自然石をノミなどで加工し造ったのだろうか。

いきな形をした手水舎が残っている。

 

お堂裏の方に、元禄五壬申の文字が刻まれた自然石の碑がたっている。

調べてみると、今から330年ほど前。

人が去って久しい戸石集落跡で、人の目にふれることなく今も立ち続けている。

 

見たところ、重そうで硬そうな石だ。

ここの石も、伊予の青石とよばれる緑色片岩なのだろうか。

 

ぶ厚いお茶わんが石垣の上に置いてあった。

そういえば、今の茶碗は薄くて軽いが、子供のころ使っていた茶碗はちょっとぶ厚かったような。

何とも昭和レトロ。

 

スギ花粉が煙のように舞い上がる季節に行った。

 

 

 

 

 

 

前々から行きたいと思っていたトカラ列島へ、50年ぶりに行くことになった。

列島に浮かぶ7つの有人島、全てを訪れてみたいけど、鹿児島を出港する船が週2便しかないなどの事情もあり無理で 、今回は中之島と悪石島、ふたつの島へ行くことにした。

昼前、西鹿児島駅に到着すると、まずは港に行き乗船手続きをして切符を買った。

これで乗船時間まで自由時間、街まで出かけていってもゆっくりできる。

今日は青空が広がるいい天気。

この天気だと、鹿児島湾を出てからも海上の波は穏やかそう。

船の向こうに桜島が見える。

 

 

2000㌧ほどのフェリーとしま2は、夜遅くの11時に出航し、トカラ列島十島村の7つの島々を順番に寄港しながら航行して行く。

一番最初に行く島が口之島で、翌日の早朝5時ごろに通常は到着する。

次に寄港する島が中之島で、そこで下船し4日間滞在する予定。

中之島は、ほぼ50年ぶりの再訪。

悪石島は今回が初めての島旅になる。

中之島滞在記は、別のブログに書いてあるので、ここでは1泊2日の悪石島滞在記を。

 

 

中之島での4日間の滞在を終え、悪石島へ。

フェリーとしま2で次の寄港地、諏訪瀬島へ、次は平島、目的地の悪石島へと行く。

 

海上から見る中之島西地区の集落。

 

白い建物は中之島小中学校

 

 

 

トカラ列島の口之島、中之島、諏訪瀬島、この3つの島は活火山があり、今も噴煙をあげている。

船は諏訪瀬島へと近づいていく。

諏訪瀬の火口から高く舞い上がった噴煙が、風に乗り飛ぶ様子が、だんだんと大きく見えだした。

ちょっと火山活動が活発なのかな、と思った。

 

諏訪瀬島の港が見えてきた。

1972年に宝島に行った当時、トカラの島々には、船が接岸できる港はどこにもなかった。

宝島に行く途中、諏訪瀬島沖で停泊した船のデッキから、はしけで物資を運び積み降ろしなどする作業を、ずっと眺めていた。

頭髪が肩までかかるロングヘヤーの男性など数人が、はしけの舷に腰をかけ、第三 十島丸に近づいて来ては、物資をはしけに積み込んでいだ。

物資を積んだはしけは港に帰るや、港で待つ人たちと一緒になって陸揚げ作業を人力でしていた。

港とはしけを行き来しながらの作業が何度かくり返された。

荷役作業が終わると、島の人たちは陸に上がるや、ちっぽけな桟橋から左に続く坂道を足早に上がって行き、やがて道脇に林立する木陰に消えて行った。

そして誰一人いなくなった港の情景、半世紀経た今も頭の中で残っている。

記憶にあった、港と集落を結ぶ半世紀前に見たあの坂道を再確認できた。

今は桟橋から右に上がっていく道幅の広い坂道も完成している。

 

昭和42年、長髪や上半身裸姿の若者たちなど30人余りが、東京から諏訪瀬島にやって来た。

集落から1Kmほど離れた竹藪を開墾し、木を切って小屋をつくり、祈りをささげながら線香をたき、断食をしたり、読書にふけったという。そして若者たちは、小屋にバンヤンアシュラマいう看板を掲げ共同生活をはじめた。

そのことを、昔宝島に行ったときは事前に知っていたので、行く途中寄港する諏訪瀬島には特に興味を持っていた。

 

桟橋の向こうに左方向へと上がっていく坂道が見える。

普通の道だが、私には50年前、島の人たちが早々と消えて行ったときの、あの坂道だ。

特別な道。

 

 

多くの車が船で来る物資の到着を待っている。

 

 

島の岸壁に打ち寄せる波

 

 

港内は波は静か。

諏訪瀬港を後にして次は平島へ。

 

 

平島にだんだんと近づいてきた。

 

 

 

平島 港の風景

 

ここでは20人ほどの客が降りた。

単眼境や望遠レンズが付いた高級カメラを持った人たちが降りていく。

どうもバードウオチングを目的に来た団体さんのようだ。

 

 

平島を後にして

 

 

 

 

 

悪石島

 

 

 

集落は、港近くに数件と港からかなり上がった山上にと、2ヶ所にあるようだ。

宿泊設備や学校や郵便局などは全て上のほうの集落にあった。

上の集落は標高がおおよそ160㍍あたりにあるようだ。

歩いてだと40~50分はかかりそう。

年寄りの私の足では1時間はかかるかも。

民宿の人が迎えに来てくれていた。

 

 

テトラポットある向こう側は漁船が停泊する場所のようだ。

 

 

 

 

黒いTシャツの背中に「悪」文字が書かれている。

着ている二人はおそらく学校の先生。

島内にある売店で売っているようだ。

「悪」の文字が大きく入ったTシャツはインパクトありずぎで、買って帰り着て歩くのは、ちょっとはずかしい。

 

乗下船のとき架けるタラップは島の住人たちもお手伝いをする。

 

 

悪石島小中学校正門

この日はあいにく休日だった。

 

悪石島小中学校の広い運動場

 

 

 

神棚のようなものの前に線香と線香立てがある。

神仏習合の慣習が残っているのだろうか。

 

 

来訪神であるボゼが、年に一度悪石島をお訪れて、島や島民の邪気を払ってくれるといういう行事が夏にある。

台風が来ても、コロナ禍でも休むことなく行われたという島の大切な悪石島のボゼ(盆踊り)

もう500年以上も続くという。

 

 

平成29年に悪石島のボセが、日本における代表的な来訪神行事10件の中のひとつとしてユネスコの無形文化遺産に登録された。そのことはメディアを通しておぼろげながら知っていたが、あまり理解はしてなかった。

ここへ来てちょっとだけわかったような気がする。

ユネスコ無形文化遺産登録記念にと、記念碑や展示館を建て、登録証書などが並べられていた。

 

祭りのとき、祭事用料理はこの建物の中で島の人たちによってつくられると、民宿の主人は話してくれたようにおもう。

 

寺の門前に立つ仁王のような石像物が2体、お墓の入り口に左右一体ずつたっていた。

明治時代、寺があり住職もいたというが、この石像物の奥の方にあったのかもしれない。 

 

もうひとつの石像。

こちらは、バサッと刀で真横に切られたように上半身はないが、どうしてないのだろう。

足の筋肉は隆々としているのがわかる。

 

石像の裏側を見ると、寛保元年と刻まれている

1741年の石造物 今から280年ほども前になる。

島内では、このほかにもいくつか石造物を見た。

それらをつくった石工はそれぞれ別人のように思えた。

島外から運び込まれたのだろうか。

琉球文化圏からではなしに、ヤマト文化圏から来たような石像だ。

当時、これらを船で運んできて、島内に運び上げるとしたら、大変なエネルギーを要したと思う。

 

 

 

千手観音像なのだろうか

 

 

島を訪れる前に調べたら、島には民宿が5件あった。

一番最初、この民宿に宿泊予約のTEL連絡を入れたが、「その日はいっぱいです」と断られた。

 

吠えまくる犬

 

玉石のような石を積み上げ造った塀の跡

 

 

島にあったガソリンスタンド。

最近になってできたらしい。

 

その横にある売店。

入ろうとしたら営業時間外だった。

 

悪石島コミュニティセンター

船の切符はここで売っている。

 

郵便局

 

 

 

悪魔祓いの意味があるというノコギリの刃の形をしたギザギザ模様《(鋸歯文(きょしもん)》が刻まれている。

この文様は日本でもここだけ、悪石島の鳥居だけで見られるらしい。

 

 

 

この船で鹿児島まで帰る。

 

船から悪石島の枯れた立木がたくさん見える。

 

中之島でも最近枯れたと思うたくさん木を見た。

中之島の人がいうには、松食い虫が影響しているという。が?

 

岩上に生えた竹林がじゅうたんを敷いたように見える。

めくりあげると簡単にはがれそうに見える。

 

 

諏訪瀬島の噴火

 

 

悪石に行くとき見た噴煙より、勢いがあるようだ。

 

中之島に行くとき、口之島港到着は朝の5時、真っ暗で周りは何も見えなかったが、帰りの便ではよく見える。

 

おおぜいの人が見送りにきている。

 

 

 

 

もう50年あまりも前のことになるが、学生だったころ未発見の鍾乳洞を探して、鹿児島のトカラ列島に浮かぶ7つの有人島のひとつ、宝島へ行った。

修学旅行を除いては、初めての遠出だった。

当時はまだトカラ列島十島村の各島々に、船が接岸できる港はなかった。

本船を海上に停泊させてから、物資も人も艀で運んでいた。

             中之島の艀作業 1972年撮影

 

上陸するにも時間と労力のかかるし、天候によっては、乗下船するのに危険が伴い、観光で行く人はほとんどおらず、秘境といってもいいような地への旅だった。

鹿児島まで船と電車を乗り継ぎして行き、500㌧たらずの第三 十島丸という船に乗って鹿児島港を夜遅く出た。

夜中ごろから海が荒れはじめ、船は上下左右にと大きく揺れはじめて目が覚めた。

寝ていると、船底をたたく波の音が畳の下から聞こて来る。

湖のように穏やかな瀬戸内海の船旅しか今まで経験したことなかったので、荒れ狂う春の東シナ海に驚いた。

一行5名中4人が嘔吐するという大時化で、船は航行の途中で中之島の島影に避難した。

避難すると船の揺れはだいぶ治まった。

避難してから、どのくらい時間が経ったかは覚えてないが、船員からの指示があり、艀に乗り移り上陸することになった。

桟橋もない海岸の浅瀬まで艀で行った。

膝くらいまで海水につかり艀を降り、中之島に上陸した。

荒波が治まり出航できるまでの2日間、その島で過ごした。

 

中之島で写した数枚のモノクロ写真が日程表とともに、アルバムに残っている。

そこで2日間も何をして過ごしたか、多くが忘却の彼方に行ってしまったが、アルバムを見るたびに記憶が、少しずつよみがえっていった。

一緒に行った友人がいうには、島の子供たちと校庭でソフトの試合をしたという。

 

船旅で苦い思い出が残るトカラ列島だが、いつの日かもう一度行ってみたい、とアルバムに貼った写真を見るたびに思っていた。

その願いをやっと実行に移せることになった。

トカラ列島十島村行きの船の出航時間は夜の11時だが、鹿児島市に着いたら市内も散策したいと思い、日の出前に家を出て、朝一番の電車に乗った。

鹿児島に行くまでに途中で乗り換えは1回だけで、5時間余り電車に揺られ昼前に到着。

まずは港まで行き乗船手続きをして切符を買った。

港のロッカーに荷物を預け、十島村庁舎があるところまで歩いた。

街の繁華街からは少しはずれたところのようで、寂寥の感が少し漂う町並みの一角に四階建ての庁舎が建っていた。

 

トカラ列島 十島村の庁舎は、以前は人口が最も多かった中之島にあったが、十島村と鹿児島港を月に数往復ほどの海上交通しかなく、とても不便だった。十島村役場は県や国との調整や利便性を考慮して、今は行政区域外だが十島村行き船舶が発着する鹿児島港近くにあるという。

昼がきたら飯でも食べようと、地図で繁華街がある方向を確かめて行った。

昼飯にありつくと、その後はまたぶらぶらと市内散策。

レトロで重厚感漂う大きな建物が目に入った。

建物の一番上に建つ時計台に岩の文字が見えて、何だろうと思った。

よく見ているとデパートで、昔沖縄にもあった山形屋だった。

 

 

港に行くと、すでに荷物などの積み込み作業は行われていて、出港の準備をしていた。

出港は夜の11時だが乗船は9時からOKのようだ。

 

 

旅の船、部屋は2等室。

今回乗ったフェリーとしま2(1953㌧)は大型で横揺れ防止装置を搭載した大型船で、半世紀前乗った第三 十島丸(497㌧)と比べれば夢のような船だ。

二等室はいくつかの部屋に分かれていて、私が寝る部屋は、他に2人客がいた。

この日の乗船客は全部で70人ほど。

朝が早かったので横になるとすぐに寝入った。

 

1972年にトカラ列島行ったときは、第三 十島丸500㌧ほどの貨物船のような船だった。

 

「まもなく口之島に到着」の船内アナウンスで目が覚めた。

朝の5時だ。

すぐ起きて二階に駆け上がり、デッキに出た。

暗くてまだ港しか見えない。

トカラ列島の十島村の有人島7つの島に順番に寄港しながら行き、最後に奄美大島に着く。

1番目に到着した島は口之島。

まだ暗くて島は見えないが、「トカラに来たぞ」という満足感があった。

 

客の下船や荷の積み降ろしで10分あまりの停泊だった。

その間、ちょっとだけだったが船から桟橋に降ろさせてくれた。

桟橋に降りるだけで口之島に上陸したような気分。

 

島に到着したコンテナに入った荷物はすぐ島の人たちに振り分けられて、それぞれの車に積み運ばれていった。

口之島を出航するころ夜明けが始まりだした。

島の輪郭がうっすらと見えるまでになっていた。

 

夜が明けていくスピードは早い。

中之島が見え始め、船はだんだんと近づき始めた。

 

 

今日から世話になる大喜(おおき)旅館

 

 

トカラ列島の島々には郵便局がある。

中之島にATMはなかったが、ゆうちょカードがあれば、現金は引き出せる。

荷物も送れるが、通常は週2回の船便しかないので送ってから到着までには時間はかかるようだ。

 

男女一人ずつ2人の局員さんがいた。

 

 

朱塗りの鳥居が目立つ。

島内でいくつか見た。

 

鳥居手前に丸い石が二つある。

上に竹の葉?を置き、その上に白い石が三つずつ置いてある。

 

 

パパイヤの実。

 

 

虫に噛まれかゆくなった時、宿の主人に虫のことを聞いた。

中之島には標高979㍍の御岳(みたけ)いう高い山があるので水の流れる川がある。

川があるためかブトという虫がいる、ということだった。

 

島に上陸するなりブトに噛まれてかゆくなった。

かゆいところをかきはじめるとだんだんと腫れていった。

そんな虫が島にいるとは知らず、虫刺されの対策は何もして来なかった。

かゆくてたまらないのでかくが、腫れていくばかり。

どうにかならないか、と思っていると、コロナ対策用に使うアルコール消毒液が部屋にあった。

かゆいところに塗ってみた。

不思議にかゆくてたまらなかったのが、ちょっと治まった。

腫れも治まっていき、ちょっと安心した。

ブトは噛まれると蚊よりも厄介な虫だ。

 

この川には大うなぎも生息しているという。

 

 

お店は島の集落の東地区と西地区にそれぞれ一軒ずつある。

東地区にある土岐商店の外観や店構えは普通の民家とほぼ同じ。

入り口に木製の看板が掛かっているだけだった。

戸を開けて入ると、履き物をぬいで上がり、商品を買うようになっていた。

食料品やビール、生活用品などが棚や冷蔵庫に並んでいた。

 

 

こちらは、西地区の永田商店。

お店の営業時間は東西、どちらの店も長くない。

開店時間は普段は数時間だけみたいだ。

 

島で唯一の?自動販売機  中之島で見たのはここだけ。

 

 

車に乗せてもらいトカラ馬がいる放牧場に行った。

トカラ馬は小型で、明治時代に喜界島から宝島に移入され農耕用に飼われた日本の在来馬だという。

農耕馬としての役目を終えた馬は、だんだんと飼育頭数が減っていった。

減っていく中、残った馬を宝島から中之島に移し、種の保存のために今は飼育しているという。

 

広大な牧場に、茶色で盛りあがった細長く帯状に続くものがある。

馬の糞だという。

帯状に線を引くようにトカラ馬は糞をするようだ。

このまま放置しておくようだが、時間が経てばキノコや牧草が勢いよく生えるという。

 

馬糞にキノコが。

 

十島村には野生の山羊がたくさん住んでいる。

歩いていると数匹から10匹足らずの群をよく見かけた。

近づいていくと、ゆっくいと逃げていく。

 

 

 

海岸から島を見ると、手前の海岸は流れ着いた漁具やペットボトルなどのゴミに占領されている。

 

外観の文字など見ると韓国、中国、台湾など、海外製が多くを占めていた。

 

 

中之島内には大きく分けて3つの地域に集落はあるが、ここはその集落のひとつ、日の出集落。

ここに子供通った小学校跡が残る。

廃校になり久しく門柱だけが名残を惜しむかのようにたっている。

今は、この集落に村が新しく建てた家が何棟かあり、アイターン者たちが住んでいるという。

その集落を訪れてみようと、海に近い西集落から歩いて坂道を上がって行ったが

途中から雨混じりの強風が吹きはじめ、雨具を持ってきてなかったので諦めた。

 

 

 

 

 

令和5年度は小学生10名、中学生が4名 計14名の中之島小、中学校

 

トカラ馬の放牧場に上がっていく途中、中之島小中学校がある地域を俯瞰。

 

1972年撮影3月 中之島に避難したとき撮影

中之島小中学校で野球をする子供たち。

友達がいうには、人数は足らなかったが、島の子供たちと試合をしたという。

 

                      1972年

 

西地区集落

 

 

 

お家の庭に咲いたアマリリスの花が見ごろでした。

 

 

 

バナナの木が島のあちこちに生えていて、小型のあおいバナナがたわわに実っていた。

十島村の島バナナとして季節限定で販売もしているようだ。

食べたことはないが、小型のバナナだけど糖度は高いらしい。

 

 

早苗が育つ水田のような場所で、田芋が育っいるのが目に入り、珍しいなと思いながら見入った。

当地では、田芋は水を張らず畝を作った畑で育てるのがあたりまえで、こんな育て方は初めて見た。

宿に帰り主人に尋ねたら「水芋」だという。

粘り気がちょっと強い品種で台風に強く、沖縄や南西諸島などでは水を貼って作るのが普通という。

水芋の話をすると、宿の奥さんが明日の夕食に水芋料理をしてあげましょう、と言ってくれたが、水芋が手に入らず叶わなかった。残念。

 

中之島で見たかたつむり

 

 

 

トカラカラスアゲハ

 

有人島7島からなる十島村の駐在所は中之島だけにあり、駐在員さんが1人いる。

駐在さんは家族で来て住んでいるという。

他の島へは、定期の船便で往来しながら任務を果たしているようだ。

 

駐在所は昔小学校だった跡地にあり、隣に先生の寄宿舎も数棟ある。

小学校だったときの門柱が残っている。

 

 

島内で見た消防車

 

島の備蓄倉庫

トカラ列島は天候の影響を受けやすい。

台風が接近してくると、食料などの物資を積みやって来る船の欠航が長く続くことがある。

現在は主食の多くを島外に頼っているため、いざという時のために備蓄は必須のようだ。

 

 

西地区集落から港方面を臨む。

 

台風の爪痕

 

フェリーとしま2が中之島へ入港は

 

乗船用タラップの入り口に立ち、乗下船客の安全管理などを行う民宿の主人と警察官。

タラップの後片付けなどは警察官はじめ島の住人たちが担う。

 

中之島はゴミなどの焼却設備があり、そこで処理できる物はするが

ジュースや酒類などの空き缶は再利用のため鹿児島まで船便で送る。

 

中之島の港

 

 

1972年撮影  港

この時代の港湾設備は今と比べると,比べものにならないくらい貧弱だった。

当時の船は500㌧ほどの船で、今よりはかなり小型だが接岸は不可能で、海上に停泊し、そこから艀で人や物資を少しずつ運んだ。

高齢者や子供たちが船から艀に移るときや艀から上陸するときは危険を伴った。

 

乗船切符は十島村役場中之島出張所で販売している。

 

 

東地区にある温泉付近から海岸線を望むと、右下に見える曲線になった堤防が、海から吹いてくる暴風や海水から温泉を守るように囲んでいる。

温泉を堤防で守るため隠すように囲っているが、それでも台風がまともに来ると守り切れず被害は大きいようだ。

数年前も、温泉設備が吹き飛ばされるほどの被害があり、そのときの数枚の被害写真が温泉入り口に張ってあったが、傷まし姿だった。

 

 

 

西地区集落を眺める

 

 

1972年撮影 中之島小中学校方面からのぞむ西地区集落と海岸風景。

海側の堤防脇に東地区の共同の温泉が見える。

屋根は茅葺きで覆われている

                      1972年

 

 

 

温泉建屋の白い屋根部分が見える。

元々温泉は海岸から湧き出ていたので、屋根は低い。

道路から階段を下り降りていき、戸を開け温泉に入るようになっている。

台風などのときなど、荒波や暴風から守るため周りを高い堤防で囲っている。

温泉

 

東地区の 温泉

 

 

西地区集落のある海岸から、山に隠れて見えないが中之島小中学校方面を眺める。                             


                    1972年撮影

 

西地区にある温泉。 

男湯と女湯は東地区と同じく別々にある。

 

 

温泉の清掃は毎日午後7時から村の住人が交代でしている。

清掃後は、お湯が貯まるとまたいつでも入れるという。

清掃当番表があるが、校長先生の名もある。

 

島民は入浴料無料。

島外の一般客に対しても入浴料の金額表示はないが、寄付のお願い文が貼ってある。

名前を記した封筒にお金を入れて、木箱の上に開いたすき間から封筒を投入するようになっている。

台風到来で、温泉施設の被害は度々あると聞いた。

修繕や再建に多額の費用が掛かり、寄付金はその足しにするという。

 

高額寄付者の名前が掲示板にずら~っと並ぶ。

 

 

 

海岸通りは子供たちの通学路。

 

手すりが付いた民家の入り口。

最近空き家になったようなお家。

島内集落内を散策していると、空き家となったお家がいくつも。

 

東地区にある民宿

 

東地区の集落

 

トカラ列島十島村は平家の落人伝説が伝わる村だが、もっと以前から、人が住んだ遺跡が発見されたという。

中之島の西地区は古くから人が住んでいたが、明治時代になって奄美地方から開拓民としてやって来た人たちが、集落を形成し新たに生活しはじめた。

その地域を東地区という、と東地区の人から聞いた。

 

 

新しく出来た防波堤の高さは手前のよりも高くなっている。

少しづつ堤防の高さを上げているという。

温暖化による海面上昇や台風の大型化が原因なのだろうか。

 

昔からあった西地区集落と明治時代に奄美地方から移民としてやって来た人たちが築いた東地区集落の間には、川が流れていて、船寄橋という橋が架かっている。

昔はこの橋を境に、西と東で争いがよくあった、と東地区の人が話してくれた。

今は人口が減り、互いに協力し合わないと島の運営が成りたたないので、昔のことは忘れ、今は仲良く協力し合っているという。

 

 

 

この島は大陸から遠く離れた大海にあり海上交通の便は悪く

食料をはじめとする物資の十分な調達はままならなかった。

島内で食糧生産確保のために畑作や漁業に精を出す自給自足生活は長い間続いた。

集落から少し外れた山の斜面に入っていくと、かつて耕作地だった場所がいたるところに残っている。

耕作放棄地はやがて草木が繁茂し、木々は大きくなり、また竹林に覆われ自然に帰っていくのだろうか。

米をはじめとする食料は、作らなくても船で運ばれてくるようになり、しかも比較的安価で手に入るようになった。

現金収入を求めて働きだし、農業で生計を立てる人は高齢化で減っている。

 

道だとわかる小径が残っている。

のぞき込むと奥に畑だった場所があった。

 

 

 

雨が降りだし怪しい天候になってきたので、部屋で休んでいた。

ツバメが群を成し、鳴き声をあげながら飛んできたと思うや、電線に停まり羽を休めているのが部屋から見えた。

ツバメが中之島で巣作りするのは見たことない、と宿の主人はいう。

本土に行く途中なのだろう。

悪天候でツバメも一休みのようだ。

しかし、ツバメの数は多かった。

 

 

 

室外機をワイヤで固定している。

台風などの強風での転倒防止のためだろう。

 

 

山を見ると、木が立ち枯れしているところをよく見る。

島の人は松食い虫の影響だというが、木を取り囲みながら生息範囲を広げていっている竹林の影響もあるのではないかと思っている。

竹林の繁殖力はすごい。

 

 

防波堤

 

表面が剥がれた防波堤の表面が剥がれた部位に貝殻が見える。

海砂を使っているのだろう。

除塩不足の海砂使用による鋼材腐食による早期劣化が昔問題となった。

 

 

 

 

西地区にある温泉橫で、堤防のかさ上げ工事中。

 

キュウリの種をポットに入れ苗を育てる準備をしていた。

 

 

昔は畑が一面に広がっていたところ

 

 

 

中之島へき地診療所

若い看護師さん2人を見た。

 

 

奥の方に野生の山羊がいる。

島内のあちこちで草木をほおばっているのを見かけた。

 

滞在を終え船上に。

 

中之島に別れをつげ、次は悪石島へ。

 

ヌタ薮バス停横に木製の索道が残ってる。

山上とつながるワイヤも張ったままでまだある。

ワイヤが伸びている方向を目指していってみることに。

そこに集落があったようだ。

昭和の時代、今回行くところの方が多く人がすんでいたようだ。

 

 

バス停橫のコンクリート製の橋を渡り山道に入っていくと、大小たくさんの石が散乱している。

頭上を見上げると絶壁がある。

上から崩れ落ちてきたものだ。

車が通る村道(現在は市道)が出来た後に作られた比較的新しい山道のようだ。

集落に続く幅広の道で、所々は急峻な岩肌を切り崩し作られている。

この場所はこれから先々も崖崩れが起こりそうな場所だな、と頭上を仰いで思った。

 

 

大石が散乱している所を越えると、左下に谷川へ下りていく道があった。その先に鉄製の橋が架かっている。

その橋を渡ると細い道のようだが、山上に向かってあるようだ。

集落まで続いていると思う。

次回はここを歩いてみよう。

今回はまっすぐに。

 

 

鉄製の橋まで下りて行き、その先に道が続いていることを確認して引き返し、地図にある幅広い道を行った。

 

上り始めはつづら折りの道のようで、頭上には石垣や大きな岩が見えた。その上を道は通っているようだ。

 

 

節の間隔がちょっと短いなと思う竹が立っていた。

陽当たりが悪いからだろうか。

かつては生活用具や農具の材料、保存食としても重宝した竹。

今はこの山でも方々に生え、かつて畑だった所も覆い尽くしている。

 

 

 

 

集落に人がいなくなり、邪魔をするものがいなくなると、植物であるツタは頭脳を持っ動物のように、時をかけて動き、絡まり合い、幾何学的な造形を時に造りだす。

山に入ると珍しい植物の花や造形美に心奪われることが多い。

山歩きの醍醐味でもある。

 

 

 

 

 

上って行くと滝があった。

流れ落ちる水音が谷間じゅうに響きわたる。

 

 

 

比較的新し金属製の橋が谷に架かる。

四国電力が鉄塔や送電線の巡視用に架けたのだろう。

手すりの付いた橋を渡っていった。

 

 

平坦な地に植林された木が立ち並んでいる。

集落に人が住んでいた時代、ここら辺り一面は畑だったのだろう。

 

なだらかな傾斜の道が続く。

 

 

 

茶の木

 

 

上って行くと谷川の両岸に生える木々の間から、向こう岸に石垣が見えだした。

山上に向かって幾重にもある。

 

 

 

昔、谷川に沿って護岸のため積んだ石が崩れかけている所があった。

 

 

 

 

さらに上の方には橋のようなのが見えてきた。

集落近くに来たみたい。

 

谷川上を見上げると、石を高く積み上げて造った擁壁が広がっている。

 

 

橋が架かっているが、よく見ると、ところどころ朽ちているようだった。

利用されなくなりかなりの年月が経ち、年寄りには危なそうなので、谷川に下り、水面から顔を出す大きな石の上を歩き、飛び対岸に渡った。

 

 

 

奥の方へと歩いて行くと、上の方にも下の方にも道は分かれてあるようだ。

 

 

 

 

 

 

畑だったような所に鉄製の構造物が転がっていた。

索道のワイヤにぶら下げ荷などを運搬するものだったのだろうか?

 

これは昔よく見ていたので覚えている。

牛にひかせ使っていた代掻(しろかき)。

これで田んぼの土を細かくしていた。

昔はここにで農耕用の牛を飼っていたのだろう。

 

車輪の付いた軸があった。

牛車の車軸ではないか?と思う。

下のコンクリート橋からここまで、馬車での往来は無理だと思っていたが、牛車ならここまでこれると思った。

 

石臼と一升瓶

 

 

 

立ちションをする便器!

昔は人の糞尿は大事な肥料だった。

 

水筒

 

メガホン

 

潰れた家跡

 

パイプに蛇口。

水は谷川からひいた水。

 

ガスボンベが転がっていた。

河野商店の名があった。

 

 

 

 

羽釜

 

もうちょっとあたりを散策したかったけど、ミゾレ交じりの雨が降り始めたので、そろそろ帰ることに。

 

集落跡あたりは木々が生い茂り、日当たりは良くないようでキノコ類が生えているところが多い。

 

皮が剥けている木が立っていた。

鹿がかじった跡なのだろう。

 

畑だったところ一面、今は竹林と化している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヌタ薮」とバス停の標識に書かれているけど、昭和34年発行の古い地図では「饒藪」と普段はあまり見ない難しい漢字で記されていて「ぬたやぶ」と読むようだ。

保井野や明河方面へ行くときは、ヌタ薮のバス停前を通るので、ヌタ薮の古びたバス停や木製の丸太で造った索道があったのは前々から知っていた。そのうちにヌタ薮集落跡を訪ねてみよう、と思いながらも、ずっと行ってなかった。

やっとバス停横にある橋を渡って行ってきた。

饒藪集落は昭和30年ごろは15軒、90人ほどが暮らす集落だったが、昭和60年には2軒に減り、平成20年ごろ、とうとう廃集落となったという。

 

ヌタ薮バス停にある待合室。

ここを利用する人はいなくなり久しく、傾きかけている。

 

 

バス停横に残る索道の支柱は朽ちてきているが、ワイヤはまだ山上に向かって延び、張られたままで残っている。

谷川を隔てた向かい側の山上にある索道の上部とまだ繫がっているようだ。

ワイヤが張られたままで今も残っているのは珍しい。

索道の支柱周りがツタや雑草で覆われていたので取り除いてやると、支柱の姿や形がきれいに見えだした。

 

橋を渡ると、山中の道としては幅広でなだらかな道が集落へと続いている。

周桑平野から谷沿いに山奥に向かって馬車道が完成した。

その後に造られた比較的新しい道だろう。

急峻で岩が覆う山肌を砕いたりしながら作っていった道のようだ。

人だけでなく荷馬や牛も通れるように作ったのだろう。

 

シュロの木が所々に生えている。

シュロの皮で作る縄は丈夫だったという。

ホウキやタワシなどを作ったりと、昔は重宝した植物だった。

山中に行くとシュロの木が自生しているのをよく見かける。

 

 

山の斜面に石積みをして作った道を行く。

 

昔は畑だった平坦地、今は竹林になっている。その向こうに滝が見えてきた。

 

谷に架かる手すりの付いた金属製の橋。

まだ新しそう。

おそらく鉄塔や電線を巡視するために四国電力さんが設置したものだろう。

 

 

 

 

角張った石のようなのが道に転がっていた。

目を近づけると文字が、何と書いてあるか自分には読めない文字が刻まれている。

裏返ししてみると、すこしかけてはいるけど小さな硯のようだ。

 

排水路のような小さな谷に石が架かっていて、その上を渡って行った。

 

丸められた金属製の錆びたワイヤが道の縁にあった。

何に使うものだったのだろうか。

下の索道で見たワイヤと同じくらいの太さだった。

 

ちょっとした谷に沿ってある道を歩いて行く。

途中、道がズレていてちょっと上がりにくいところがあったが、立木をつかみながら上がって行けた。

すると石垣が見えてきた。

 

石垣を通りこすと左側斜面に、たくさんの墓石や自然石などが散乱し、崩れかけの墓地が忽然と現れた。

あたりを見まわし、そして一息つきながらちょっと立ち尽くした。

何度も土砂崩れに見舞われたようだ。

 

天保、文政、文久など、藩政時代の元号が刻まれた石の屋根が載る墓石が並んで立っている。

 

何かを祀った所があった。

 

 

「桜樹村の足跡」によると、饒藪集落に高さ1、3㍍ほどの榎木の大木を刳りぬきお札を納め、扉をつけた金比羅宮と箸蔵宮と呼ぶ社が2ヶ所に祀れている、と書いてある。

尾根あたりでそのような社は一つしか見なかったが、どちらかのひとつだろう。

刳りぬいた木にあった扉は朽ちて外れ手前に倒れていた。

中に梵字のような文字や崩した漢字などが書かれた板がみえた。

これがお札なのだろうか。

ここは箸蔵宮のようだ?

神仏習合時代、箸蔵宮は金比羅宮の奥の院のようだ。

 

 

両社共に昔は年に一回金比羅本社、箸蔵本山に参詣してお札を勧請して帰り、盛大なお祭りをしていたという。

社のあるこのあたりは、饒藪集落やその近くに住むたちが昔から大切にしてきた聖域のようだ。

 

尾根から辺りを見渡してみたが、ここより上のほうは、もう何もないような気配がしたので、下の方へ少し下りて行ってみることに。

 

行くと石垣が見えてきた。

 

うんすけなどが散乱している。

このあたりに家があったようだ。

 

昔使っていた覚えのある「こたつ」と呼んでいた素焼きがあった。

灰が入ったこたつに炭をいれ、灰を上に薄く被せフタをして、寝る前に布団の中に入れると、朝方まで足をあたためてくれた。

寝相が悪く寝てる間にフタを蹴ってフタが外れると、布団がもえたり火傷する危険もあった「こたつ」。

家でも小学校低学年のころは使っていたな、と懐かしいものを見て思い出した。

上に被せるふたも近くにあった。

 

五右衛門風呂の釜がうつ伏せになった状態で林の中にあった。

ここにはかつて屋敷があったのだろう。

 

山腹を切り崩し造った平地。

家屋が並んで何軒かあったようだ。

年季が入った石垣が上の方に向かって並んでいる。 

 

右上方向に道が続いているようだ。

河之瀬集落へ続く古道だろうか。

 

節理で板状に割れた石がこのあたりにはたくさんある。

板状の石を地面と平行に高く積んだ擁壁が広がっている。

山中を歩いていていつも目に入るのが石垣。

積み方や石の種類や硬さ、大きさも所違えばまちまちで、見ていると面白い。

 

この石垣前にも家があったようだ。

 

石垣に窓のようなのが見える。

 

ここに何かを祀っていたのだろうか。

 

風呂跡

 

農機具

 

石垣のすき間から生えて、大きく成長した木。

 

 

台所だったところ?

昭和30~40年代ぐらいまではここで暮らしていたような感じ。

石垣上に立つ木

 

 

降りる途中で見た竹林というか竹藪。

 

ほとんど降りてきた所の谷下に橋が見えた。

下りて行き橋を渡りその先を見ると、道はどこまでかはわからないが残っているようだった。

家に帰ってから古い地図を見直してみると、この橋を渡りどんどん上がっていった所にヌタ薮集落はあるようだ。

 

 

車を駐めコンクリート橋を渡ってから集落に行く道の入り口あたりに、上から転げ落ちてきた大きな石がいくつも残っていた。

ひときは大きな石の上に花が置かれていた。

ヌタ薮に山の神を祀った社があり、住人が少なくなっても毎日交代で拝んでいたという。

集落に住んでいた方かその関係者が置き、そして山に向かって拝んだのだろう。