「ヌタ薮」とバス停の標識に書かれているけど、昭和34年発行の古い地図では「饒藪」と普段はあまり見ない難しい漢字で記されていて「ぬたやぶ」と読むようだ。
保井野や明河方面へ行くときは、ヌタ薮のバス停前を通るので、ヌタ薮の古びたバス停や木製の丸太で造った索道があったのは前々から知っていた。そのうちにヌタ薮集落跡を訪ねてみよう、と思いながらも、ずっと行ってなかった。
やっとバス停横にある橋を渡って行ってきた。
饒藪集落は昭和30年ごろは15軒、90人ほどが暮らす集落だったが、昭和60年には2軒に減り、平成20年ごろ、とうとう廃集落となったという。
ヌタ薮バス停にある待合室。
ここを利用する人はいなくなり久しく、傾きかけている。
バス停横に残る索道の支柱は朽ちてきているが、ワイヤはまだ山上に向かって延び、張られたままで残っている。
谷川を隔てた向かい側の山上にある索道の上部とまだ繫がっているようだ。
ワイヤが張られたままで今も残っているのは珍しい。
索道の支柱周りがツタや雑草で覆われていたので取り除いてやると、支柱の姿や形がきれいに見えだした。
橋を渡ると、山中の道としては幅広でなだらかな道が集落へと続いている。
周桑平野から谷沿いに山奥に向かって馬車道が完成した。
その後に造られた比較的新しい道だろう。
急峻で岩が覆う山肌を砕いたりしながら作っていった道のようだ。
人だけでなく荷馬や牛も通れるように作ったのだろう。
シュロの木が所々に生えている。
シュロの皮で作る縄は丈夫だったという。
ホウキやタワシなどを作ったりと、昔は重宝した植物だった。
山中に行くとシュロの木が自生しているのをよく見かける。
山の斜面に石積みをして作った道を行く。
昔は畑だった平坦地、今は竹林になっている。その向こうに滝が見えてきた。
谷に架かる手すりの付いた金属製の橋。
まだ新しそう。
おそらく鉄塔や電線を巡視するために四国電力さんが設置したものだろう。
角張った石のようなのが道に転がっていた。
目を近づけると文字が、何と書いてあるか自分には読めない文字が刻まれている。
裏返ししてみると、すこしかけてはいるけど小さな硯のようだ。
排水路のような小さな谷に石が架かっていて、その上を渡って行った。
丸められた金属製の錆びたワイヤが道の縁にあった。
何に使うものだったのだろうか。
下の索道で見たワイヤと同じくらいの太さだった。
ちょっとした谷に沿ってある道を歩いて行く。
途中、道がズレていてちょっと上がりにくいところがあったが、立木をつかみながら上がって行けた。
すると石垣が見えてきた。
石垣を通りこすと左側斜面に、たくさんの墓石や自然石などが散乱し、崩れかけの墓地が忽然と現れた。
あたりを見まわし、そして一息つきながらちょっと立ち尽くした。
何度も土砂崩れに見舞われたようだ。
天保、文政、文久など、藩政時代の元号が刻まれた石の屋根が載る墓石が並んで立っている。
何かを祀った所があった。
「桜樹村の足跡」によると、饒藪集落に高さ1、3㍍ほどの榎木の大木を刳りぬきお札を納め、扉をつけた金比羅宮と箸蔵宮と呼ぶ社が2ヶ所に祀れている、と書いてある。
尾根あたりでそのような社は一つしか見なかったが、どちらかのひとつだろう。
刳りぬいた木にあった扉は朽ちて外れ手前に倒れていた。
中に梵字のような文字や崩した漢字などが書かれた板がみえた。
これがお札なのだろうか。
ここは箸蔵宮のようだ?
神仏習合時代、箸蔵宮は金比羅宮の奥の院のようだ。
両社共に昔は年に一回金比羅本社、箸蔵本山に参詣してお札を勧請して帰り、盛大なお祭りをしていたという。
社のあるこのあたりは、饒藪集落やその近くに住むたちが昔から大切にしてきた聖域のようだ。
尾根から辺りを見渡してみたが、ここより上のほうは、もう何もないような気配がしたので、下の方へ少し下りて行ってみることに。
行くと石垣が見えてきた。
うんすけなどが散乱している。
このあたりに家があったようだ。
昔使っていた覚えのある「こたつ」と呼んでいた素焼きがあった。
灰が入ったこたつに炭をいれ、灰を上に薄く被せフタをして、寝る前に布団の中に入れると、朝方まで足をあたためてくれた。
寝相が悪く寝てる間にフタを蹴ってフタが外れると、布団がもえたり火傷する危険もあった「こたつ」。
家でも小学校低学年のころは使っていたな、と懐かしいものを見て思い出した。
上に被せるふたも近くにあった。
五右衛門風呂の釜がうつ伏せになった状態で林の中にあった。
ここにはかつて屋敷があったのだろう。
山腹を切り崩し造った平地。
家屋が並んで何軒かあったようだ。
年季が入った石垣が上の方に向かって並んでいる。
右上方向に道が続いているようだ。
河之瀬集落へ続く古道だろうか。
節理で板状に割れた石がこのあたりにはたくさんある。
板状の石を地面と平行に高く積んだ擁壁が広がっている。
山中を歩いていていつも目に入るのが石垣。
積み方や石の種類や硬さ、大きさも所違えばまちまちで、見ていると面白い。
この石垣前にも家があったようだ。
石垣に窓のようなのが見える。
ここに何かを祀っていたのだろうか。
風呂跡
農機具
石垣のすき間から生えて、大きく成長した木。
台所だったところ?
昭和30~40年代ぐらいまではここで暮らしていたような感じ。
石垣上に立つ木
降りる途中で見た竹林というか竹藪。
ほとんど降りてきた所の谷下に橋が見えた。
下りて行き橋を渡りその先を見ると、道はどこまでかはわからないが残っているようだった。
家に帰ってから古い地図を見直してみると、この橋を渡りどんどん上がっていった所にヌタ薮集落はあるようだ。
車を駐めコンクリート橋を渡ってから集落に行く道の入り口あたりに、上から転げ落ちてきた大きな石がいくつも残っていた。
ひときは大きな石の上に花が置かれていた。
ヌタ薮に山の神を祀った社があり、住人が少なくなっても毎日交代で拝んでいたという。
集落に住んでいた方かその関係者が置き、そして山に向かって拝んだのだろう。