風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -96ページ目

思い出なんて置き去りにするように、変わりゆく町並み。
壊されて更地になった場所に、何が建っていたのかさえ思い出せない。

そんな風にして、時代も人も変わる。

僕は、変わらずにいることができるだろうか。それとも、もう変わってしまったのだろうか。
君は、どうだろう。

変わるのであれば、どうか、よりよく変わっていきますように。
明日は、みんなが笑顔でありますように。



熊本方面、心配した雨風は通り過ぎたようですね。不幸中の幸いでした。

「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを賭(み)ざるなり」
 ─孫子の兵法─

多少足らざるところはあったとしても、早く解決に動くことですよ安倍さん。だらだらと長引かせてはいけません。

どうですか? 東日本大震災の後始末さえ、あなたはできていないではないですか?

それでも一国の宰相として胸を張れますか? 恥ずかしくはないのですか?

消防に、地元の消防団に、警察に、自衛隊に、そして国民に顔向けできるのでしょうか。

これ以上国民を失望させてはいけません。


シングル・アゲイン


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僕は神を探しました。探し求めました。

〝神〟その響きは遠く遠く、そして、甘美でした。
それは、聖書の中にいると信じていました。



旧約聖書の神は「怒りの神」などと称されたりします。
もう、しょっちゅう怒っています。

アダムとエヴァを楽園から追放したり、天まで届きそうなバベルの塔に怒って、言葉を分けて(通じなくして)作業を中止に追い込んだり。

そうだ、そうだ。海を割ったモーセが目的の地にたどり着けなかったのも、神のせいだったのでは?

こんな神が本当の神なのだろうか?
僕が聖書を離れ、本物の神を探す旅に出た出発点はそこにあった気がします。

結論としては、旧約聖書に出てくる神は絶対に本物ではない!
というものでした。

新約聖書には、大工ヨセフと処女マリアの子、ナザレのイエスが登場します。
処女懐胎……何でそんなことが必要だったのだ。そんなもの後付に違いない。僕はそう感じました。

ヨセフとマリアが愛し合い、イエスが生まれたことにケチをつけたのは、イエスの崇高さを保とうとした人間の仕業に違いない。

天地を創造した神が、神の愛(アガペーの愛)だけが崇高で、人のエロスの愛は下等と決めつけるわけがない。

僕はクリスチャンではありません。
何かを盲信するのではなく、ただ、ありのままの神を求めたのです。10代の頃から……。
だからこそ僕は、何はばかることなく神を語ります。

─続く─
と思われます。

僕は三度(みたび)、宗教に闘いを挑みます。
地上でもっとも命を奪った、まやかしの宗教に挑んでみます。

君が惑わされないように、君がありのままの神を知ることができるように。

神は何も要求しない。
何も禁止しない。
何も押しつけない。
賞賛さえ求めない。

そして、助けを求めても直接手を貸してなどくれません。
そのために、宇宙に法則を打ち立てたのです。

これが、僕の探し当てた神です。
これは、ほぼ正しいと思っています。


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木曜は夜勤明けの10時退勤だったので、ブックオフに行こうと思って歩いていて、あ! 眼鏡を持ってきていない……ということに気づいて、駅へと進路を変えて。(本とパソコンは眼鏡がないと無理なのです)

あ……ヤマダ電機だ、と思ってくるんと引き返してポイント残高を確認してもらったら5600円ぐらい残ってた。

もう死んでると思っていたポイントだったので、ウキウキでキーボード売り場に行きました。
差額の466円を払っただけで新しいのが買えました。

とあるキーが打てなくなって苦労していることは書いたけど、それは「P」でした。
それまで、ネットからコピペしたりATOKの文字パレットから引いたりして苦労しました。

買ったのはこれです。
Natural Ergonomic Keyboard 4000


何のことはない、昔から使っているキーボードです。付属の足を噛ませてあるので、手前が高くて、もっとうんと前のめりになっています。もう、つんのめってます(笑)

少し進化してると嬉しいなと思って見比べてみたけど、変わっていたのはMicrosoftの書体と、変換とか無変換とかAltとかの文字位置ぐらいでした。

でもこのキーボード、搭載している機能が多彩なのです。
片手で画面のズーム・アウトができるし、スピーカーの音量調整もできるし、一発で消音もできるのです。

ディスプレー画面左上に出る←戻ると進む→もキー押すだけでできるのです。

他のキーを押すといろんな事ができます。ただ者ではないのです。でも、そのサイズ故、本体を引き出さないと指が届かないので、ほとんど使いませんけど(笑)

もう少しの進化とコンパクト化を期待していたんだけどなあ。

そう、このキーボードはとにかくでかいのです。
普通のイメージでキーボードを思い浮かべてネットなんかで買うと、届いたブツの大きさに途方に暮れるはずです。置く場所に困るぐらいです。

ん、キーを叩いたときの音が少し静かな気もするかな。
でも、長年使って疲れ果てたものと比べるのは正しい判定ではないな。

タイトルのおふざけ……。
何人が分かったでしょうか(笑)


ヒロシ&キーボー 3年目の浮気


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水・金・地・火・木・土・天……。

人類がまだ調べ尽くせない広大な太陽系の中に、大きな太陽と小さな地球がある。

ちっちゃいのが地球です。比べてみると、太陽って、なんて大きいんだろうね!↓↓↓↓


その太陽系が属しているのが、僕らの天の川銀河だ。その端っこの方に太陽系はある。

天の川銀河って、どれほど大きいのだろう。

どれぐらいだと思う?

北は北海道から南は鹿児島まで、日本列島自転車の旅をしている君がいたとする。そしてある日、夕食の牛丼を食べるつもりでポケットに入れておいた500円硬貨を落としてしまったことに気づいたとする。

さあ大変だ。なけなしの金なのに!
落としたのは朝だろうか昼だろうか、ついさっきだろうか。急いで引き返したとして、どこに落としたかも分からないコインを、はたして見つけられるだろうか。

う~ん、難しいかもね。

イメージだけをつかんで欲しいので、寸尺はかなりおおざっぱなのは許してもらいたいのだけど、天の川銀河の大きさを日本列島とするなら、太陽系は500円硬貨ぐらいにしかならない。



宇宙には、そんな銀河が蜂の巣状に連なって、どこまでもどこまでも広がっている。

石けんを泡立てるとブクブクと大きくなるよね。あの形状なんだね。摂理にかなった形なんだろうね。

宇宙の中では芥子粒のように小さな銀河の中の、さらに点にさえならない太陽系さえ、人類はまだ調べ尽くせないでいるんだ。



そしてここに行き着くんだね。

〝宇宙人はいるのか〟
〝君はUFOを信じるか〟

こんな問いは、宇宙の広さを理解して発してるのかなあって。

世田谷辺りの公園を歩いているアリが、ブランコの次には滑り台を見つけたぞ! とか喜んで、やっぱり僕たちが一番賢いと思っているに等しいのかなあって。


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君は憶えているかな。神を語らせて僕の右に出る人はそうそういないって、僕が言ったのを。

人類を創造したのは神ではなく、宇宙人である。

これはずいぶん以前のブログにも書いたけれど、どう調べても事実に間違いない。

ただ、ひとこと言っておきたい。人類の創造主がアヌンナキだろうがエロヒムだろうが、そんなことはどうでもいいのである。

〝人類は宇宙人が創造した!〟
そんな、一見荒唐無稽とも思える話に飛びつき舞い上がっている人たちがいる。

馬鹿らしい。そんなもの、君たちだけが知っている重大な秘密ではないのだ。

そもそも、僕たちの本質は肉体ではない。そう、僕たちは車ではなく、それを操るドライバーなのだから。

だからこそ、車体がホンダであろうが、マツダであろうが、BMBであろうが関係ないのだ。操るのは僕たちの本質なのだから。

僕たちの肉体を作ったのが隣町の飴細工職人でも、川向こうの大工でも、粘土細工が得意な幼稚園仲間のえりちゃんでもいいのである。

魂は、神から来ている。僕たちは神の欠片なのだ。肉体を作ったのが宇宙人であるかどうかなんて、どうでもいいのである。

では、天地を創造したのはその宇宙人なのかと問いかけたい。
であるはずはない。宇宙人はあくまで宇宙〝人〟なのだ。そんな僕たちだって紛れもなく、宇宙人なのであり、まかり間違えても神ではないのだ。

天地(宇宙)を創造したものは他にいる。それを人は神と呼ぶ。

けれど、僕たちを救うのは神ではない。ましてや怪しげな宇宙人でもない。
僕たち自身である。

そのために神は、宇宙に法則を打ち立てたのだ。

神は恐れるものでも、崇め立てるものでもない。
慈愛に満ちた親に向けるように、愛するものである。





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長きにわたった母の入退院の繰り返しは、やがてピリオドを迎えることになる。
退院してきた母を僕は自宅で迎えたのだろう。僕の隣に正座して、母は言った。

「○○(僕の名前)はかわいそうだったねえ。もうどこにも行かないからね。ずっと○○のそばにいるからね」

僕はその言葉を、母を見ることなく、爪をいじりながら、うん、うん、と小さく頷きながら受け止めた。

感情を爆発させることのない子供になったのは、今日こそは、母がいなくなってしまうのでは、という恐れを抱いて、台所にいるその背中を何度も何度も振り返っていた幼い頃の影響が大きいのかもしれない。

どうにもできないことがこの身に降りかかる。それは、自分の要望や、要求や、我が儘では覆らない。
僕はこれを幾度も経験した。

大人の時間感覚で行くと、乳飲み子に毛が生えたぐらいの僕と離れているのは、母とて辛いことだっただろう。

後年気がつくことになった母の台詞の意味は、生まれつきではなく、後天的に足が不自由になっていった原因不明の病状を、現代医学では癒しようがない、という宣告を受けたことに他ならないということだった。

そのときの話であったかどうかは定かではないけれど、母はもうひとつの知らせをもたらした。



「○○さんも、死んじゃったんだよ」

それは、柔らかな笑みを浮かべる、あのお姉さんのことだった。

僕がどんな反応をしたのかなんて、憶えてはいない。
けれど、悲しんだ記憶もない。
それは仕方のないことかもしれない。死というものを飲み下せる年齢ではなかったはずだから。

僕が理解したのは、あの眩い光の差す病室から、お姉さんがいなくなったということだけだったに違いない。

僕の書く小説のほとんどに死がつきまとうのは、この辺りに原因があるのだろうか。

愛読書「神との対話」から、突如、未読で未知だった「ホ・オポノポノ」へと繋がる中で、インナーチャイルドを癒すというキーワードにぶつかった。

そんな中で、水底からポカリと湧いた泡が、水面に向かうように、突如湧いてきたのが、完全に忘れていたこの記憶だった。

「I'm sorry」
「Please forgive me」
「I love you」
「Thank you」


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母を見舞う時は、父と二人で旅館に泊まった。海を隔てたその地に到着するのは夕刻だから、母に会えるのは、おそらく翌日だったろう。

夜は街をぶらぶらして、父は行きつけらしき食堂で僕にカレーを食べさせてくれた。それは少し甘くて、美味しいカレーだった。

翌日病院に行くと、母がいた。僕の記憶のどこを探っても、その病室に父の姿は見つけられないから、僕を送り届けて、父は外にでもいたのだろう。

「あそこにいた誰それさんは、死んじゃったんだよ」って、母はベッドを指さした。
その言葉を何度か聞いた気がする。

そんなおばちゃんたちに混じって、お姉さんがひとりいた。幼い僕がお姉さんと認識したということは、若かったはずだ。
20代も後半になると、おばちゃんと感じた可能性が高いからだ。



もちろんはっきりとは浮かんでこないけれど、ぼんやりと浮かぶその顔は、すくなくとも10代ではないだろう。でも、それに近かったのではなかろうか。

その人はベッドに座って、僕に向けて柔らかな笑みを浮かべている。何か積極的に話しかけてくる姿は浮かばないけれど、ちょっとだけ、何か言いたげな顔をしている。

そしてその顔が記憶に残っているということは、僕ははっきりとその人を見ているということに他ならない。

シャイな僕がそこまではっきりと見ているということは、僕がそのお姉さんに好意と信頼を寄せていた証ではないだろうか。

窓際の向かって右手のベッドにいたその人は、手に何かを持っていた。今思うに、それは本だったのかもしれない。

幻かもしれないけれど、僕はそのお姉さんのベッドによじ登って、布団に入って、ゴロゴロと懐いて、何か聞かせてもらったような気もする。


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何人部屋の病室かなんて憶えていないけれど、わらわらと入院患者のおばちゃんたちがいたような気がする。

僕にたくさん話しかけてきたはずだけど、人見知りで、かつ年端も行かない僕は、ろくな受け答えさえできなかったに違いない。

ひとり、大げさな動きをするパジャマ姿のおばちゃんが、今、目に浮かんだ。ショートヘアをクリンクリンに巻いているようだ。
昔の人って、ヘアカーラーを使って自分で巻いてる人が多かったかな。

母の入院していた病院は海を隔てていた。だから、会いたいと思ったって、簡単に行けるわけもなかった。そして、行く行かないは、僕の意志ではどうにもならないことだった。

久しぶりに会う母に、僕は照れた。いいたいことはたくさんあったはずなのに、たぶん僕は何も言えなかった。

嬉しくて、それ以上に何だか恥ずかしくて、母のそばにただ黙って座っていた。
けれどそれだけで、僕は満ち足りていた。



入退院を繰り返す母と、僕はずいぶんと長い間離れていた。通常の子供が母親を必要とする時期の多くを、僕は母無しで過ごした。

母が何か支度を始めると、また入院だろうかと思った。けれど僕は何も言えなかった。心は千々に乱れても、何も言えなかった。
訊くことが怖かった。肯定されることが、離れることが怖かったから。

僕を気遣ってのことだろうが、誰も何も言わなかった。それがかえって僕を疑心暗鬼にさせた。

僕は毎日時間を気にした。母を連れ去る船が港を出る時間が過ぎることを、ただ祈った。
そして、その時間が去るとホッとした。ああ、今日はいるって。

もう少し大きくなって小学生になると、杖をつく足の不自由な母の手を引き出かけることになる。けれどその頃の僕は何もできないぐらいに幼かった。

杖をつく足の不自由な母、と書くと老婆を思い浮かべたりするが、その頃の母はまだ、30代だった。

ああ、家を出た。今日こそいなくなる。
それでも僕は、声を発することなく、後を追うこともなく、ただ黙って、じっとしていた。

けれど、それがちょっとした用で出かけただけで、母が帰ってきたときは嬉しかった。飛び上がるほどに嬉しかった。

でも母は、やはり、ある日突然いなくなった。

胸に手を当てれば、虚ろな顔をして立ちすくむ僕が見える。





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僕は突然、とある風景を思い出していた。そう、昨日の午後のことだ。

その部屋は南に向いていたのかもしれない。
なぜなら、記憶の中の景色が白く飛んでいるから。

僕は生まれつき光に弱い目をしている。それに気づいたのは親でも兄弟でも病院の先生でもなく、自分だった。

屋外で撮られた小学校の遠足写真で、少し高い位置からみんなを撮った写真があった。その中に写る僕だけが、眩しそうに顔をしかめていることに違和感を憶えたのだ。

それは写真に写る僕の普段の顔だった。けれど、他の誰もが普通に目を開けていることに驚いたのだ。

何で?!
僕は何枚も何枚も写真を見た。そしてことごとく、僕だけが眩しそうにカメラを見ているのだ。

後年、僕と同じ症状を持つ人のエッセイを読んだことがある。その人は小学生なのにサングラスを掛けて校庭を走り回っていたそうだ。ああ、これだ。この人と同じだ。

そう、眩しいのだ。運動着の白が涙が出るほどに眩しい。
夏の横断歩道の白が、目を開けていられないほどに眩しくて仕方がない。

だから、思うのだ。母が入院していたあの病室は、南に向いていたのかもしれないと。



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「I'm sorry」
ごめんなさい
「Please forgive me」
許してください
「I love you」
愛しています
「Thank you」
ありがとう

ネイティブハワイアンの伝統的な問題解決法、「ホ・オポノポノ」を現代社会に適応できるようにアレンジしたものが「セルフアイデンティティ ホ・オポノポノ」のようです。

ホ・オポノポノに関する本は読んではいません。ですからすべてネットで調べた物になります。

ネットからの借り物で何でブログを書くかって?
それはね、僕自身のためです。そして君のためにもなるといいなって。

「全ての出来事は100%自分の責任である」

やはり出てきましたねこの言葉。昨日のブログ「宇宙をみつける自分をみつける」で取り上げた「神との対話」の一節と完全にリンクしています。



人生で起きることは100%自分が原因で起きる。なぜならば、すべてはあなたの感覚器官をとおし、あなたが興味を向けたからこそ「起きている」と知ることができるから。
たとえ他人が起こした問題に見えても、あなたの問題なのだ。


問題! って断言されるとちょっと引きますね。まるで自分が悪いかのように取れます。でも、違うんでしょうけど。


─実際の「ホ・オポノポノ」の使い方─

「記憶の中のどの部分が原因で この問題が起きているのか?」

「自分の潜在意識の中の一体どの記憶が原因で この問題を生み出しているのか?」

「潜在意識のどの記憶が この病気を作り出しているのか?」


状況に応じて、潜在意識への質問を変えて、自分の潜在意識に問いかけた後、
「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」 の4つの言葉を心の中で唱えます。 何回も何回も。

心を込めてと書いてあるものもあれば、唱えるだけでいいと書いてあるものもありました。

問いかけただけですぐに答えは出るはずもないので、心を込めようがないかなとも思うし。
まずは、唱えることが大事なんでしょうね。



人間は全ての人や物、宇宙と繋がっているので、「自分自身の目の前に起こる出来事は、あなたの発した言葉や想念、問題意識と必ず繋がっている!」という考え方です。

「自分自身を癒すことで、浄化して愛することで、周りの全てが癒される」といった宇宙の真理です。その方法は自分だけではなく物にも使えます。


「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」
このマントラの順番は自由のようです。

「ありがとう」
「ごめんなさい」
「許してください」
「愛しています」

僕はこの順番がしっくり来るかな。
よし、実践してみようっと。

明日は仕事の都合で帰りが午前様になるので、この時間に強引に更新します。



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