何人部屋の病室かなんて憶えていないけれど、わらわらと入院患者のおばちゃんたちがいたような気がする。
僕にたくさん話しかけてきたはずだけど、人見知りで、かつ年端も行かない僕は、ろくな受け答えさえできなかったに違いない。
ひとり、大げさな動きをするパジャマ姿のおばちゃんが、今、目に浮かんだ。ショートヘアをクリンクリンに巻いているようだ。
昔の人って、ヘアカーラーを使って自分で巻いてる人が多かったかな。
母の入院していた病院は海を隔てていた。だから、会いたいと思ったって、簡単に行けるわけもなかった。そして、行く行かないは、僕の意志ではどうにもならないことだった。
久しぶりに会う母に、僕は照れた。いいたいことはたくさんあったはずなのに、たぶん僕は何も言えなかった。
嬉しくて、それ以上に何だか恥ずかしくて、母のそばにただ黙って座っていた。
けれどそれだけで、僕は満ち足りていた。

入退院を繰り返す母と、僕はずいぶんと長い間離れていた。通常の子供が母親を必要とする時期の多くを、僕は母無しで過ごした。
母が何か支度を始めると、また入院だろうかと思った。けれど僕は何も言えなかった。心は千々に乱れても、何も言えなかった。
訊くことが怖かった。肯定されることが、離れることが怖かったから。
僕を気遣ってのことだろうが、誰も何も言わなかった。それがかえって僕を疑心暗鬼にさせた。
僕は毎日時間を気にした。母を連れ去る船が港を出る時間が過ぎることを、ただ祈った。
そして、その時間が去るとホッとした。ああ、今日はいるって。
もう少し大きくなって小学生になると、杖をつく足の不自由な母の手を引き出かけることになる。けれどその頃の僕は何もできないぐらいに幼かった。
杖をつく足の不自由な母、と書くと老婆を思い浮かべたりするが、その頃の母はまだ、30代だった。
ああ、家を出た。今日こそいなくなる。
それでも僕は、声を発することなく、後を追うこともなく、ただ黙って、じっとしていた。
けれど、それがちょっとした用で出かけただけで、母が帰ってきたときは嬉しかった。飛び上がるほどに嬉しかった。
でも母は、やはり、ある日突然いなくなった。
胸に手を当てれば、虚ろな顔をして立ちすくむ僕が見える。

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