奈良にある東大寺講堂跡です。


東大寺 講堂跡

 

東大寺は、華厳宗大本山。正式名称は、金光明四天王護国之寺。

講堂は、僧侶たちが集まり説法や講義を行うための堂。

創建当時伽藍配置は、南大門、中門、金堂、講堂が南から北へ一直線に並び、南大門と中門の間に東塔・西塔の2つの塔を並べ、中門から出た回廊がロの字形に金堂に繋がる東大寺式伽藍でした。現在、南大門、中門、金堂は再建を経て創建当時の伽藍配置を踏襲していますが、講堂、東塔、西塔は再建されず現存しません。

かつて存在した東大寺講堂は、大仏殿の真北に位置して回廊で大仏殿と繋がっており、南北幅16メートルの大きな堂でした。講堂は延喜17年(917年)、治承4年(1180年)の南都焼き討ち、永正5年(1508年)の3度焼け、3度目の焼失以降は再建されませんでした。現在は礎石のみが残っています。

創建当時の東大寺には、講堂の東北西に東室、北室、西室の三面僧坊がありました。これも講堂と同時期に類焼し、永正5年以降は再建されませんでした。


東大寺 講堂跡

 

東大寺講堂跡の碑。


東大寺 講堂跡
東大寺 講堂跡

 

講堂跡。

創建当時の講堂は平安時代の延喜17年(917年)に焼失。その後、再建されますが、治承4年(1180年)、平家の南都焼き討ちにより再び焼失しました。鎌倉時代初期の重源の再興により再建されますが、室町時代の永正5年(1508年)に焼け、以降は再建されませんでした。現在は、礎石のみが残っています。

延喜元年、東大寺別当・道義により、東大寺講堂において毎年6月28日、解除会が始まります。解除会では奈良の諸寺より僧約250人、楽人60人が参加、かつて講堂に安置されていた千手菩薩像の前で除役を行う盛大なものでした。室町時代、応仁の乱によって廃絶。江戸時代に復興されますが、講堂が再建されることはなかったため、大仏殿で行われるようになります。現在は、毎年7月28日に大仏殿で行われています。


東大寺 講堂跡

 

手前が講堂跡。

奥に見えるのが大仏殿の屋根。

 

 

 

東大寺;奈良市雑司町406-1