夜中に何度かもそもそ起き出してダルイ足をもんだり伸ばしたり屈伸してみたり。
そんなふうなことだけで、あとは韓国ドラマにドはまりして終わっていく。
「すいか」の録画を見直して、やっぱり素晴らしいとうなる。
市川実日子は素晴らしい。もちろん木皿泉の脚本がいっちゃんすごいんだが。
日本のドラマでは「ひらやすみ」もよかったが、「僕たちん家」がよかった。
ひさしぶりに脚本が欲しくなるようなドラマだった。
松本優紀さんという新しい脚本家だそうだ。
↓「すいか」
↓韓ドラ「悪魔がお前の名前を呼ぶ時」
ビール3杯で1800円。それが今年の夏の思い出である。思い出なんてものができたのは何年ぶりだ?
9月14日,定禅寺ストリートジャズ・フェスティバル2日目。一番町で見つけた女性は記憶にあったその人よりかなり瘦せていた。
別人か?と思うほど。いや絶対に彼女だ。すぐに頭を切り替え、踵を返した。
彼女は丙午生まれの牡牛座で、俺より七つ下。昔、ルシアというバンドをやっていて、あの「ロックンロール・オリンピック」に出たこともあった(その麗姿はYouTubeでも見ることができる)。
彼女の店、「SMOKE」は文化横丁にある。もう25年も続いている。そこでビールを飲ませてもらえることになった。
調子にのって3杯もらった。そんなに飲んだからいろいろ話した。ほとんど俺が一方的に。
SMOKEの店主はどんなことをしゃべっても嫌な顔はしない。いわゆるこれが聞き上手ってやつなんだろう。だから年も続いてるんだ。その間にけっこうな病気にもやられたってことだし、あのコロナってやつにも見舞われたのに。
ショーイチやキムラや峯岸さんや羽川氏や松本こーじや北川潤や遠藤ミチローさんやマキちゃんやミッちゃんやエリちゃんやあいつの話、次から次に出てくる顔や言葉や音楽、とっくに話しつくされた話、全然知らなかった話。いったい俺は何十年分の話をしたんだろう。とにかく好きなだけ吐き出した。ぞろぞろボロボロと。
「映え」を残そうとする今の世の中。思い出ってのはどこに行ったんやら。なんてことをたまに思う中、久しぶりにできた思い出。Akiちゃんに感謝だ。
J:COMのプレゼントでいただいたムビチケで山田洋次監督作の「TOKYOタクシー」を見てきた(2025.11.24)。
原作の「パリ・タクシー」を何か月か前に見ていたので、それほど話的な面白さは期待していなかったが、フランス語の脚本をただ日本語に置き換えただけの展開には驚いた。「パリ・タクシー」を見た人ははっきり言って見なくてもいいくらいのもの。
山田洋次という監督、「さくら」を演じ続けてきた倍賞千恵子、というあたりに思い入れのある人のみの「お楽しみ」的な映画だった。だから一応の満足感はあったけれど、やはり仏版よりも先に見ていればもっと面白く見られただろうことは間違いない。
久しぶりに映画館に行ったけれど、空調の風にはまたしてもやられた。足元の寒いのなんの。尿意をこらえにこらえ、ついには「乗り越える」という経験を初めてした。映画館に行く前のコーヒーはやはり我慢しよう。
夏のしっぽ、という言葉があって、夏の本体からほんのちょっとはみ出した、夏はついに終わり、という一日のことです。
となったら今日しかない、とバス停に向かった俺。荒井駅行のバスに乗って行きました。降りたのは新浜バス停。
歩き出してすぐにポチがおりました。ポチとは我が家的には柴犬全般を指します。
そのあたりを綺麗に保っている方たちのポチらしく、そばにいたおねえさんが「こんにちわ」と挨拶してくれました。
そこから5分くらい歩いて、
小さな橋を渡ると波の音が聞こえてきた。
貞山堀の向こうの海からグオグオと聞こえてきた。いい音だ。
左手、海の反対側に初めて見る丘が。震災後に盛られたのだろう。
堀沿いをどんどん北へ。あるのは下水処理場ばかりなり。
歩き始めてから30分も経ったろうか、やっと七北田川、そして海。
そしてあとはもうひたすら帰途のバス停を目指す。
遠いぞぉ。
見覚えのある松の木が一本。
かつて自転車で走った道、そして所々に残る過去の景色。
満足の一時間だった。
Rocket☆Hopperは終わっちまったし、今年はスーさんとドライブもないし、2日目はどこ行ったらいいんじゃ!とか思いつつ俺は、そうね、そういう時はまずはうめえもんでも食おう、と歩き回っていた、ら、実に見たことのあるおんにゃが!
↑ここの主じゃった。それからビール3杯分、ここにいさせてもらった。
そして散々愚痴垂れてみたり、思い出の中の人物をこれまた散々言ってみたりと胸ん中ぜんぶ吐き出した。
ありがとう、Smokin’ Lady!いろいろ聞かせてくれたことは何かの形で残しておきたいような気もするが、残さないほうがいいんだろうか。わからん。
今日の予定はホントに一個しかなくて、それがSinnerman。
一曲「Imagine」をやった以外はすべてBeatles!
「Twist and Shout」(I Saw Her Standing Thereだっけ?)
「Let It Be」
「Something」
「Can’t Buy Me Love」(リハだけだっけ?)
「Don’t Let Me Down」
のっけから「In My Life」なのには参った。
それからぶらぶら色々見たが、きのうのVan HalenやKansasみたいなのには出会えなかったけど、
Rocket☆Hopperの二人に会えて、しかもこっちの顔を覚えてくれていて、ちらっと話させてもらって感動。
来年もほんとにほんとにほんとに来てや!頼むで!ああ、明日にでも会いたいくらいだ。
最後に県庁の裏に行って見上げた空はすっかり秋だった。
来年はもちっと体力取り戻しておかんとなぁ。
いきなりRocket☆Hopperかよ!ってのが正直なところ。もったいないったらない。後が続かねぇじゃん、とか言っても大雑把なJazzFes.本部さんには通じまい。とか言う我が雑念が画像に残っちまった。朝5時半から出張ってくれったっつうに、Rocket☆Hopperさんごめんなさい、俺のカメラは芋でした。
「Honky Tonk Woman」
「Tiki Torches At Twilight」(David Lindleyもやってるハワイアンチューン)
以下、写真はYouTubeから。
「Love The One You’re With」,
「Shake Your Moneymaker(Includes 「Smokin’Boogie」)」、
ラストはしみじみと「Take Me Home Counry Road」。
最高なお二人、もじゃこさんとペンギン氏のRocket☆Hopperなのでした。
来年もお会いできたら、そう、すべてのギターの名称を教えてもらおう。
昔はいつもこの足ふきのうえにシェットランドシープドッグの何とかちゃんが寝そべっとったのだ。
もう30年も前のことかもしれない。こっちも30は年をとったのであろう。
さてやはりのっけにRocket☆Hopperちゃんなど見てしまうともう終わったような感じの僕だけども、
何とか雨の中、HeavyなFeetを引きずって歩ったのだ。そして令和のDave Lee Roth, そしてEddie!に出会った。
カーネルサンダース風のおっさん率いる(?)Mean Streetさんである。
ErruptionもYou Really Got MeもAin’t Talkin' 'Bout LoveもPanamaも完璧で泣いた。
そして第一日目、最後に我が目に入ったのは、前々から他のバンドと重なって見られないでいた
御達者俱楽部!
シンセのおっちゃんの左手に注目!
いやはやこんなことが実はあってはならないのではないだろうか。俺はそう思う。しかし実在するのである。
なんとあのKansasの完コピバンドが!
Carry on Wayward Sonほか数曲、とにかくKansas, Kansas, Kansas!笑っちまうくらいカンサス!
私は呆れました。泣きました。
凄すぎだっちゅーの!
大学2年で中退。在学中に学生相談所で紹介された焼き肉レストランで数年アルバイトし、その後2・3か所でアルバイトしてから写植という職種に魅力を感じて10年働いた。そしてタクシー運転手に。
タクシーは忙しいようで暇で、そしてとにかく頭を使うということとは縁遠かった。写植屋にいたころと比べたら、働いていないに等しかった。それくらい自分というものを使わずに済む職種だった。
こうして結局、俺は「働かない人生」を選んだのだった。
18歳で初めてロック評論を書き、ハタチでロッキングオンというロック雑誌を刊行した渋谷陽一さんはその後、一度も立ち止まらなかった。数種類のジャンルの違う雑誌を刊行して大きなロックフェスも作り上げた。
自分にしかできないことをやり続けた、渋谷陽一さんはとにもかくにも「働いた人」だった。
何かを為そうとか、何かを残そうとか、そんなことよりもとにかく目の前にやるべきことがあればやった人だった。
そんな人の魂のど真ん中にあったのが常に「Rock」という音楽だった。
Rockのために働き、俺たちにRockを植え付けて、育ませた人だった。
ありがとうとしか言えない。
楽天イーグルスができた時、俺はかの巨人軍のファンをやっていて、自分が新しくできた地元のチームのファンになろうとは考えもしなかったが、仙台のラジオやテレビはイーグルスの試合ばかりやるようになり、自然な流れで俺も2005年の五月か六月頃にはしっかりイーグルスのファンになっていたんだが、どうだろう。やめときゃよかったんだろうか。というのも楽天イーグルスという球団がまったくファンのほうを向いていないことが明々白々だからだ。
それは全く勝てそうもないチームの監督になってくれた田尾安志氏を一年で解雇した時に早くも明らかになっていた。
さらに四年目にして初めてクライマックスシリーズにチームを出場させた野村監督の解雇。
デーブ大久保やブラウンはともかく、平石や今江の一年での解約はファンの想いとは完全に一線を画すものだった。
まともに扱われた監督はなんと星野仙一氏ひとりだけ。
そしてとどめは石井一久との関係確立。
法外ともいうべき額でのFA浅村との契約。チーム史上最大の功労者、田中将大とのあまりにもお粗末な関係性。
外れ続きの助っ人たち。ろくでもない采配しかできない三木の監督再登用。
彼のどんなところにチームを任せられるような信用性を感じることができるんだろうか。いつまで付き合い続けるんだろうか。
その昔、かの巨人軍のファンだった頃、他のチームの4番バッターをどんどん引っ張ってくる球団のやり方に憤っていたもんだが、それと同じような「球団のやり方は大嫌いだが、チームはやはり嫌いになれない」というやるせなさを今は毎日毎日感じさせられている。
こんな気分になるんならプロ野球チームのファンになんてなるんじゃなかった、とまで思っちまうのであります。
その人の第一印象はなんとなくヌメッとしていた。
変に言葉を交わすとこっちがヌメッとした嫌な感じになりそうな気がしたのだ。
そしてその印象は最後の最後まで変わることはなかった。
こっちはタクシーの運転手、あっちは乗客という関係で、たまに何かお褒めの言葉をもらった時でも、彼の口から出た言葉はこっちに心地よく響くことはなかった。
いつもどこか冷たく湿った、不用意に爬虫類に触ってしまったような不愉快さを感じさせた。
言い換えると「胡散臭い人」、そんな感じだった。
彼は見た目にも妙な雰囲気を漂わせていた。
人間の着ぐるみを着ているようだったのだ。太っているのに油っ気がなかった。
ぶかぶかとした体形で、表面が妙に乾いた印象で、だからまるで真ん丸な顔をした、人間の着ぐるみをまとっているように見えたのだ。
しかし常連の客として接し続けて何年か経った頃、その風貌は一変した。何か特別な(あの「ライザップ」とかいうような)鍛え方をしたんだろうが、ビシッと引き締まって乗ってきたのだ。
あ、着ぐるみを脱いだんだ、と思った。
どこまで胡散臭い人なんだ。そうも思ったものだ。
こっちは運転手であっちは客だから話し方は当然、常に「上から」だった。
鷹揚に構えた懐の広い上からではなく、人を人とも思わぬ傲慢な上からでもなく、どこか無理をしての「上からぶった」上からだった。隙だらけの上から、とでもいうような。
そんな上から言い放つ感じもやはり胡散臭い印象だった。
何か子供を相手にしたイベントの仕事をしているようだったけれど、大きな会社を切り盛りしているわけじゃなく、女性を一人、若い男の子を一人だけ雇って、ほとんどの交渉事を一人で取り仕切っている感じだった。ほとんど個人しか相手にしていないような電話での受け答えだったけれど、いったいこの人は子供を相手にどんなイベントを開催してるのか、まったく見当もつかないところがまた胡散臭かった。
とにかく何から何までが胡散臭さの塊みたいな人だったのだ。
だからある日ニュースで、見慣れたビルがテレビ画面に映し出された時、ああ、とすぐに俺にはわかりました。ああ、あの人だ。
そのニュースで言っていたことが「犯罪」という範疇に入れられることなのか、たんなる「大きな失態」なのかは俺にはわからないけれど、ニュースから伝わってくる不快さとあの「胡散臭さ」はストレートに結びついたのだ。
11:14 最初の電車に乗車
11:40 泉中央までの地下鉄に乗車
12:00 泉中央駅到着。一回に上がるとすぐ、
12:25の松森ニュータウン行バスの5-2番乗り場を発見。
しかし長蛇の列+25分も並んで待つのは苦痛、なので歩き出す。
バス乗り場の先の階段からペデストリアンデッキに上がる。
東へ、「13:00の予約には間に合うべ」と優雅な歩行者専用道を歩く。
12:40頃、運転免許センターへ。
でっかく赤で「A」と書かれた、パイプ椅子の並ぶコーナーに座るべきと思われたのでそこに座る。
間もなく更新者係のようなおっさん登場、「前のほうに詰めて座りなはれ」と言うんで、位置移動。
「マイナ免許証にしたい人はあっちのPCで登録しなさい」とのことで、並ヴ。
13:00更新手続き開始。2600円払う。視力検査、写真撮影、そして講義(?)室へ。
などなど、いろいろ以前とは違ったが、無事にマイナ免許証にできたよ。
帰りはバスに乗りたかったが、なんと一時間に一本のバスが14:49なのに対し、
すべて終了時14:15。結局また歩く。
天気が良くてよかったよ。