頑固だからじゃない。
がっかりしたくねんだ。
「不確かなメロディー」みたいな清志郎自身が関わってる映画ならともかく、
死んじまってるんだから、清志郎自身はまったく口出しできない。
そんな状態で作られたものは、要するに「作ったもん勝ち」。
お前の頭の中にいる清志郎を見せられたくないんだ。
俺には俺の中に残ってる清志郎だけで一杯いっぱいなんだ。
まだまだ溢れてるんだ。
RCサクセションを、いや、忌野清志郎を俺は誤解していた。「ラプソディ」に収められた「よォ~こそ」「エネルギーOHエネルギー」「ボスしけてるぜ」「ブンブンブン」「雨上がりの夜空に」「上を向いて歩こう」「キモちE」が悪かった。全部、おれにはパンクに聞こえてしまったのだ。もちろん「僕の好きな先生」を中学生の時に聞いていたし、「スローバラード」という名曲があることも知っていた。しかしチャボという運命的な戦友を得て、RCはしっかり生まれ変わり、攻撃性ギンギンのロックンロールバンドになったのだ。そう俺は信じ込んだ。
ところが「PLEASE」である。モロR&B。センシティヴな歌詞世界 on R&B。たぶん「ラバー・ソウル」を初めて聞いたビートルマニアたちは同じ気分だったんだろうと思う。どこかすかされた感じ。ただ単に俺が自分の勘違いに気づけなかっただけなんだが。
でもなんだかんだいって、RCから俺は離れられなかった。どうしてかはわからなかった。言葉になんてまったくできなかった。
いつまでもぬぐい切れない違和感を抱きながらも、俺はずっとRCを、清志郎の歌を、聞き続けた。ずっとかすかな隙間を感じながら。
その隙間が一気に埋まる時が来た。「カバーズ」の登場だ。素直で正直で率直で全然間違ってない人がそこには立っていた。
忌野清志郎。
RCを結果的には消滅させることになる「カバーズ」。スッポンポン、裸体の音楽家の作った最高傑作、それが「カバーズ」だった。それから2009年まで、俺と清志郎の間には紙一枚の隙も生まれなかった。ずっとずっと大好きな清志郎だけがそこにいてくれた。
すべてのロックファンのお父さんでお兄さんで恋人でKINGでGODな忌野清志郎。
俺の中には清志郎以外、そんな音楽家はいない。
ジョン・レノンは空。
忌野清志郎は人。
Rockを聞き始めた中二が1973年で、高校卒業が1978年。
ラジオからは毎日何かが溢れ出していた。
ジャンジャガジャンジャンとかき鳴らされた生ギターストロークの代表は
「カリフォルニアの青い空」(Albert Hammond)。
その絶望的な明るさを無意識に受け入れた14才。
あいきゃんり~~~~~~~~~と引き延ばされたあとにドンドン!メンバーザデイ!ときたもんだ、
の「君にすべてを」(Geordie)の実直にして完璧な受け狙い。
タラララララルルララララとスナップフィンガーのごとき調べで俺を誘惑した「忘れじのグローリア」(Michel Polnareff)の
溺れそうなくらいの耽美さ。
「私はシャンソン」(Daniel Vidal)のぐいぐい引っ張っていくキュートさ。
ジャガジャーーーーーン!エレキギタースロトロ-クの破壊力を無暗に振り回した
ドすけべエリック炸裂の「君に首ったけ」(Raspberries)の固く屹立した情熱。
トントカトントンと歩み寄る「アローン・アゲイン」(Gilbert O’Sullivan)の整頓された感情。
ドンガドンガと迫り来た「キャン・ザ・キャン」(Suzi Quatro)の麗しきド迫力。
語り始めたらなんぼでも出まっせ!70年代ロックは永遠に枯れません!
中学2年の頃(1973年)だったと思うが、日曜の朝9時からビートルズの曲をすべて流す番組が始まった。
その番組を全部録音すればいっぺんにビートルズの曲を手元に置くことができたはずだが、我が家にはまだラジオしかなかったからか、もしくはラジカセはあったがカセットテープを買う金がなかったからか、それとも毎週30分番組を録音する根性がなかったか、その番組を録音した記憶はない。もしかしたらその頃にはビートルズのLPを全部買い揃える気持ちが出来上がっていて、録音なんて頭ははなからなかったのかもしれない。
「There’s A Place」みたいなLPの中の目立たない曲や「This Boy」みたいなシングルのB面にしか収められていない曲まですべて聞かせてくれたこの番組が、俺の中にビートルズという存在をしっかり固定させたに違いない。
時代はビートルズが解散してからまだ2,3年で、ビートルズにとって初めての本格的なベストアルバム、いわゆる赤盤・青盤なんてのも発売されていた。清志郎や松村雄策のように「ビートルズの時代」の真っ只中にはいられなかったけれど、まだビートルズの温もりはすぐそばにあった。
初めて手に入れたアルバムは「イエロー・サブマリン」だった。当時おふくろが付き合っていたおじさんがなぜかは知らないが買ってくれたのである。おふくろは俺が知ってる範囲では結婚していた時期はない。相手のおじさんが独身者かどうかはまったく知らない。
「イエロー・サブマリン」はビートルズのファンならだれでも知ってることだが、片面はジョージ・マーティンのしきするオーケストラの曲で占められていて、ビートルズの演奏はA面のみで、ビートルズのアルバムを初めて買う人間の選ぶアルバムじゃない。じゃあなぜ「何が欲しい?」と聞かれて「イエロー・サブマリン」のLPと言ったのか。自分のこづかいで買いたくなかったからだ。だって片面はビートルズの演奏が入ってないんだもん。そんなものは人の財布に頼ったほうがいいに決まっている。
あきれた中2といやあ中2である。
けれどもちろんそれがいいと言ったのはそんな計算からだけじゃない。「Yellow Submarine」という曲がやたら頭に引っ付いていたのだ。ういおーりーびんないぇーろさぶまり~ん、の繰り返しが。
しかし買ってもらったLPを聞いて、俺はそのタイトル曲以上にそのアルバムそのものを好きになることになった。
「Hey Bulldog」「It’s All Too Much」「Only A Northern Song」「All Together Now」「All You Need Is Love」
どれもこれも素晴らしい曲だったからだ。
なかでも「Hey Bulldog」「It’s All Too Much」「Only A Northern Song」の分厚さと言ったら、中2の耳にはまさにハードロックそのものだった。カッコよかった。
次が「The Beatles: 1966~1970」、青盤。これはおふくろに誕生日に買ってもらった。
なぜこれになったかは、2枚組だったから。
当時の1か月のこづかいがいくらだったかはまったく覚えていないが、少なくとも2枚組のLPはそう簡単には自分では買えなかったのだ。
「Strawberry Fields Forever」に始まり「The Long And Winding Road」で幕を下ろすこの2枚組に俺がもらったものは、とんでもなく重い。ある意味、重すぎたくらいだ。もし初めて買ったロックのLPがストーンズの初期のアルバムだったら、もしかしたらもっとバンドってものを楽しめる人間になっていたかもしれない。でもそうじゃなかった。これ(青盤)が感覚の中心にどんと居座ったのである。バンドなんてできるわけがない。(そのあといろいろあってやったけど)
青盤の次は「ラバー・ソウル」だった。
コーラス・ワークの塊である。
今でも、「ラバー・ソウル」の、
Drive My Car→Nowegian Wood→You Won’t See Me→Nowhere Man
という4曲の流れはどんな人のどんなアルバムのどんな曲よりも好きだ。
それと「In My Life」という世界一の曲。
Deep Purpleの「紫の炎」という曲に出会うまで、俺はひたすらビートルズのレコードだけを買い続けた。
「AMO東北ヒットパレード」は安田立和(りゅうか)と高荒葵というコンビで始まった番組だった。
やがて立和さんが鈴木俊光と交代した頃に俺は聞き始め、それも一年ほどで終わり、当時名取から出てきてヤマハポピュラーソングコンテスト(YAMAHA主催の音楽コンテスト。通称「ポプコン」)で名を挙げた吉川団十郎がパーソナリティの座を得て、番組名も「ジャンボリクエストAMO」になってしまった。
「なってしまった」というのは一応は音楽の順位をつけるけれども、それは番組の最後の10分程度のところで洋邦それぞれ10位までを発表するだけになってしまったからだ。それぞれ20位までを発表して音楽そのものを大きくフィーチャーしていた「東北ヒットパレード」とはまったく違った、「吉川団十郎がリスナーを笑わせるだけの番組」になったしまったのだ。
なんて書き方をすると、俺が「ジャンボリクエストAMO」なんて大嫌いで、まったく聞かなくなってしまったようだが、実は高校になっても番組は聞いていた。それも積極的に「吉川団十郎に呼んでもらえるようなハガキ」を送り続けていたのだ。
今でいう「ハガキ職人」というやつになっていたのである。
「ハガキ職人」としての俺は実に熱心だった。
バカみたいに熱心だった。
中学校では「〇〇、読まれたなあ」などと言われてニタついたりもしていた。
高校まで熱心さは衰えず、たまたま入った新聞部では新村功と二人で「サンタマリア団」とか名乗って、二人ではがきを出し続け、吉川団十郎からみなみらんぼう、麻世れいらとパーソナリティがかわってもハガキを出し続けた。
高校の同級生からは「何やってんだ、お前」と蔑まれながら。
関連リンク
ラジオで新曲を聞いていた。
中学校の頃である。
RCの「スローバラード」やボウイの「ジーン・ジニー」のCM。
真っ暗な部屋、ラジオカセットからイヤホンで聞いていた。
「AMO東北ヒットパレード」というのを日曜深夜0時から聞いていた。
「東芝ヒットパレード」というのは月曜の夜7時からだったような気がする。
AMOではカーペンターズやアバやミッシェル・ポルナレフの新曲を聞いた。
東芝ヒットパレードではグランドファンクやT・レックス、エルトン・ジョン、
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、
スリー・ドッグ・ナイト、CCR、ベンチャーズ、エレクトリック・ライト・オーケストラ、
スージー・クアトロやスティーブ・ミラー・バンドなんかの新曲を聞いた。
ツェッペリンやディープ・パープルなんかを知ったのは高校になってからである。
クイーンやエアロスミスは友達の荒谷恭司からレコードを借りて知った。
荒谷には「エレキギターというものは俺たちにでも弾けるものなのだ」ということも教わった。
小学一年の音楽の時間に吹かされたハーモニカで「楽器と俺の間には越えがたい壁しかない」と叩き込また俺にはちょっとした出来事だった。
持つべきものは友達なのだった。
でも当時の俺には友達はただの友達だった。
空気のような存在だったのだ。
というふうに、俺とロックの間にはラジオと友達しかなかった。
関連リンク
ジョーディー Geordie / All Because of You 君にすべてを (EOR-10476) : 東芝ヒットヒットパレード
2日目。
昨日も行ったそばの神田でまずは腹ごしらえ。カレーそば。やっぱうどんにすべきだった。
ちなみに昨日はかき揚げそば。あれは正解だった。
いつかきっと鴨南蛮そばをいただきたい。冬に来る機会があるかはわからないが。
さて。
昨日はロケット☆ホッパーという最終目的があったからよかった。
2日目は特にない。目玉が。
これなのだ、ジャズフェスの大問題はーーどれを見たらいいのか問題。
とりあえず歩き出す。さすらいである。Wanderだ。放浪。HORO。小坂忠だ。
一番町を行く。ただ、周囲に耳をそばだてつつ、行く。
するといずれ聞こえてくる音がある。あるはずだ。
あった。
ドガドガ派手なドラムの音。and 絡みつくベースの音。
これは聞くべきである、と脳が告げる。脳に告げる。
疾走する蝶々
9/13 12:45 シンボルロード夏の思い出像
Fox Capture Planというグループのカヴァーらしい。
で、それはJazzというジャンルの奴ららしい。が、俺にはどうしてもーーYES!
「こわれもの」で「危機」で「リレイヤー」のYESにしか聞こえない。つまり、ビシバシ決まるプログレ。
この俺にはYESにしか聞こえない三人の若者の演奏を老若男女バシバシ受け止めてる。
1990年以前にはおそらく見られなかったに違いない、いい風景です。
そして再びのさすらい。HORO。今回は長かった。途中で缶ビールを飲んだ。錦町公園に座れる場所があったから。
その場所を見て、休みたい。できれば一本頂きながらと思ったのだ。
キリン秋味。SAPPOROの黒がなかったのだ。一番搾りにすればよかった。
そばではおいちゃんブルースバンドとやらが何かやっていた。おお、おいちゃんたちのブルースロックだなあと思った。
クラプトンの「ブルース・パワー」とかやっていた。
また一番町をさすらおうと思った。何か耳にくるだろう。脳にもくるかもしれない。
歩き出す前にパンフレットを見た。Frustrationという名前が目についた。
10数年前に見たことがあるバンドだ。女の人が歌っていた。それほどいいとは思わなかった。
しかし一応はブルースだ。心休まるに違いない。休まらせてほしい。
Frustration
9/13 14:45 一番町4丁目三越仙台本館前
女性ヴォーカルはもういないようでひと安心。
レスポールのあんちゃん(還暦を過ぎると年下に見える男はすべて「あんちゃん」である)が歌っていた。
その金のレスポールがバシバシとキマる!
ガッチガッチにピッキピキ!とでも言えばわかる?
とにかくばっちり感動的にキマる!
歌声もスッキリしてていい。
はっきり言って大好きです。
Magic Samもやっていた「San-Ho-Zay」以外はよくわからなかったが、
B.B. King系の曲が中心。
ばあちゃんもゆったりうっとりと手拍子でした。
ああ、終わりかあ。
PS.
来年見たほうがよさそうなバンド(パンフレット&YouTubeから)
U The Boogie、あいりっしゅ、うすけね~ズ、OASOBI
おわり
1991年に始まった時、なんやこんなん、と見向きもしなかったのは俺だ。
ハンパなシロートのハンパにお上手な演奏聞かされるくらいならウチで憂歌団でも聞いとるわい、とかって。
ところが三年後、人に誘われたらスッと出てんだから、その気になって歌ってんだから。
ただのへそ曲がりだっただけやん。
そしてタクシーの運転手になってからだね、毎年必ず行くようになったんは。
だって車走らせてるそばでガンガンドンドンやられたら気になってしょうがねえ。
友人知人も出るようになっちゃった。
それでも始めは出番でない日に一日見に行くだけだった。
それがいつの間にか二日とも行くようになっちゃって、初めの気持ちなんてどこへやら。
すなわち、すっかり中毒。
これを見に行くのが一年で一番の楽しみになっちゃった。
つうわけで行くんだけど、わかんないんだわ、どっから見たらいいのか。
これが、これだけがジャズフェスの問題なんだわ。
「どれを見に行ったらいいの問題」。
しかし俺達にはその問題を解決する手段がいくつかある。
その一つが「公式サイトに頼ってみる」。
で、そこで見かけたのが「アコースティックなクラプトンやります」というHARAさん。
Blues’Z(HARA)
9/12 13:15 enspace
「Nobody Loves You When You’re Down and Out」, 「Layla」, 「Tears in Heaven」, 「Change the World」
などなどをきっちりした演奏でしっかり聞かせてくれた。すごいです。
来年はバンドで出たいって言ってたんで、この人がエレキを持ったらと思うと楽しみです。
Waterfall Blues Band
9/12 14:00 錦町公園
で、そのBlues'Z (HARA)氏が推してるってんで次はこの方たちを見に行きました。
Vocalのお姉ちゃん(還暦すぎると女性はみんな「お姉ちゃん」です)のキャラがなんつってもよかった。
けれど国分町一丁目のenspaceからぐだぐだ歩いてきた俺、おまけに狭い所にぎゅぎゅう詰めで、
ああ、シュープリームスか何かやってんなあ、と集中できず。
また歩き出す俺、またenplaceを目指す。
もう30年もなるのかなぁ。友人と中央通りの藤崎近辺でスライダーズの「帰り道のブルー」とかU2 & BBの「Love Comes to Town」なんかを生ギターでがなり倒してた時、一人でえらい真面目にオリジナルを歌い上げてた人がいた。
苫米地サトロさん。
その人がずっとジャズフェスに出てたことは知ってた。でもちゃんと聞いたことは一度もなかった。
その人がenspaceでやるというのだ。
しかし。
あふれかえっている。
すごいったらない。ジャズフェスでこんなに人を集める人になってるとは。
お見逸れしました苫米地サトロ。
どんなメッセージが込められた歌なのかまでは聞き取ることはできんかったですが、
ひたすら熱い、ことは伝わってきた。
さて次は同じ場所、enspaceでHOROさんとやら、と思ったけどやめた。もうあっち行っとこ、と思って。
1日目のメインイベント!16:15からの壱弐参(いろは)横丁!
Rocket☆Hopper
9/12 16:15 壱弐参横丁前
Janisの「Mercedes Benz」!から始まって、2曲目は初めて聞く曲で、
CSN&Yの曲も「愛への讃歌」じゃなくて「青い目のジュディ」に替わってて、
2年目に突入の「Tiki Torches at Twilight」も未だに初々しく、
一曲ごとにギターを変えていくペンギンさんの膝小僧の穴はさらに大きく、
アーケード街に吹き込む風のなんと清々しいことよ。
YouTube↓
【Rocket☆Hopper】 第35回 定禅寺ストリートジャズフェスティバル サンモール壱弐参横丁前ステージ(2026.9.12)
あとはもうSmokeで一杯いただいて帰るだけ、なのでした。
つづく
「最後の乗客」という一時間の映画を見た。
とても残念だった。たった一言ですべてを台無しにしていた。
あんなセリフいらなかった。まったくいらなかった。なければとりあえずは話として成り立っていたのに、全部ぶち壊してしまった。
見た人ならわかると思う。主人公が最後に娘に向かって言う、悔恨に満ちたあのセリフです。
脚本も自ら書いていた監督が、あんなセリフを入れたとは到底思えない、そんな不必要なセリフでした。
ので、思いました。現場に、どうしても無視できないスポンサーか誰かがいて、
「もうひと押し欲しいなあ。絶対必要だなあ」とか馬鹿なことを言って、ごり押しの「感動的なセリフ」をどうしても足さなくちゃならなくなったんじゃないか、と。
もしそうだとしても完成品の責任者は監督。ダメになった作品、で終わりだ。
ラストシーンがやけによかったのは救いです。後味だけ はどうにか残った。
46年前、我が家は崩壊してひとりで引越しする羽目に陥った。
恋人はいたが、ふたりでやるにしても母、妹と三人で暮らしていた家の家財は手に余った。
おまけに俺ときたら、生まれてきてやっと二つ目のバイトを始めたばかりってな調子の完璧な世間知らずだった。
当然、免許なんてものもない。さらにはまったく金がない。
親が残していった未払い家賃を払い続けるだけでバイト代のほとんどは消えていたし、
引越す先の最初の払いも恋人の家族に借りていたくらいだったのだ。
そんな俺に全面的に力になってくれたのが大学の友人たちだった。
東北学院大学放送会。
その同級(二年)生、上級(三年)生、そして下級(一年)生のみんな。
とにかく人数がいるクラブだったから助かった。自分で何をしたかも覚えてないくらいだった。
その中に、庄司徳男くん(技術部の一年生)はいた。
何から手を付けていいかもわからずに当日を迎えた俺の前で、「なんだよ、何にもやってねえんじゃねえかよ」と言いつつどんどんことを進めてくれた放送会の奴等。そして荷造りされていったモノたち。運び込まれたトラック。
何tトラックだったんだろう、免許も持たない俺にはまったくわからなかった。
その見覚えのないトラックの運転席にいたのが庄司徳男(あえて呼び捨てにさせてほしい)だった。
ちなみに俺は制作部の二年で、徳男とはそれほど接点はなかった。そんな彼が自分でレンタカーを借りてきてくれたのだった。
こんなのを借りたらいくらかかるんだろう、いくら払えばいいんだろう。そんなことを思いながら、もう荷物も運び終えた、トラックも返しに行く、という段階に至った時、「徳男!いくら払えばいいんだ?」みたいなことを俺は恐るおそる聞いたと思う。
その時の徳男の返事と表情を俺は覚えている。
「いいっすよ!」
明るくそう言って三分目くらいの笑みだけを俺に向けて、とっととトラックを走らせて去ったのだ。
一生かかってもかなわない顔が、はっきりとそこにあった。
明日、そんな男にさよならを言いにかねばならない。
Only the good die young.....世話になった年下に先に逝かれるって、やりきれない。