フランスの歴史8 騎士道と金の卵
フランスの歴史8 騎士道と金の卵
ルイ7世 ヘンリー2世~イングランド王
(在位1137年~1180年) (在位1154年~1189年)
フィリップ2世~尊厳王 リチャード1世~獅子心王
(在位1180年~1223年) (在位1189年~1199年)
ジョン王~失地王
(在位1199年~1216年)
ルイ8世~獅子王 ヘンリー3世
(在位1223年~1226年) (在位1216年~1272年)
ルイ7世は1137年にアキテーヌ女公アリエノールと結婚し、アキテーヌ公領を手に入れますが、1152年に離婚されて妻はイングランドのヘンリー2世と再婚。アキテーム公領は、イングランド支配下に置かれます。
アキテーヌ公領(ボルドーも含まれる。)奪還を狙うフィリップ2世は、12世紀末アキテーヌ公領の諸侯を扇動し、リチャード1世に対して反乱を起こさせ、1199年にリチャード1世は戦死します。
フィリップ2世はイングランド王位を継いだイングランド王ジョンがラ・マルシェ伯ユーグ9世の婚約者と結婚したことに対してクレームを付けて召喚。
ジョンちゃんは無視したため、ジョンちゃんのイングランド支配下の大陸領没収を宣言します。没収した全領地の内ノルマンディー以外はブルターニュ公アルテュールに授けると、イングランド王ジョンと交戦となりアルテュール
は捕えられて殺されます。
この行為に対してイングランド派だったフランス諸侯は一斉に反発。ブルターニュ、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、ポワトゥーは簡単にフィリップ2世のものとなります。
戦に勝ったフィリップ2世ですが、ガスコーニュはジョンちゃんに返してあげます。フィリップ2世はこれらの戦いを通じて主権を強めたと言われています。
騎士道
騎士はもともと、王や封建領主が戦闘専門職として認めた者でした。馬を所有し、武器、武具を備えていなければなりません。
戦闘員ですから戦いに勝てば略奪や強姦等は当然の行為でした。このような状態の騎士達に一定の規範を与える必要から、キリストの教義を取り込み、暴力性を押さえようとしたようです。
騎士の十戒等も登場し、優れた戦闘能力を持つ、勇気、正直・高潔、忠誠心、寛大、信念、礼儀・親切心、崇高な行い等聖人君子と見まごうばかりの陳列。もっとも幾種類もの十戒があったようですので、前記ばかりではないようです。
求められたのはキリスト教の宗教戦士だったのです。この点が、後の十字軍遠征を可能とした最大の理由と思います。
騎士の誓いは神との契約と考えられましたので、騎士は領主とも契約しますが、不合理な領主の命令は神との契約に反するので拒否出来ると考えるようです。神との契約には、『弱者の保護』が含まれていたようです。
前記、イングランド王ジョンは相手方のアルテュールを捕えられて殺してしまいます。実はこれが『弱者の保護』を行わない、騎士道に反する行為とされ、同盟したフランス諸侯の反発をかい敗戦に繋がったものと思われます。
当時の戦は基本的に騎士を殺さないのです。捕まえて身代金を要求するというのが一般的です。戦費を簡単に回収できるからです。
フィリップ2世が、ガスコーニュをジョンちゃんに返した行為も騎士道精神によるものと私は思うのですが。
先代のリチャード1世とジョンちゃんは兄弟仲が悪かったのも、ガスコーニュ公領の帰属を巡るものですが、リチャード1世は勇猛なことから獅子心王と呼ばれた人物であり、騎士の鑑と称えられた人物です。
1199年アキテーヌ公領シュリュのシャールース城包囲戦において、鎧を脱いだ休息時のリチャード1世は敵の矢を受け負傷します(傷が元で壊疽により10日後死亡)。矢を放った射手は捕えられ、リチャード1世の前で「陛下は私の父親と2人の兄弟を殺しました。どうぞ私も処刑なさってください、敵を討ったことを後悔はしていません。」と述べ、話を聞いたリチャード1世は「おまえの命は助けてやる。正当な戦闘行為によるものだから、たとえ自分が死ぬことになっても、この男のことは許すようにと周りに命じ、報奨金まで与えて放免したとされます。
しかーし、リチャード1世死亡後に後継者のジョンちゃんは、この射手を再び捕え皮剥の刑にしたというから騎士道精神などは望むべきもないのかも。
騎士道も、ヘンリー5世(在位1413年~1422年)の時代辺りには廃れたのか、身代金目当ての戦から本格的壊滅戦へと変更されたようで、戦死した敗軍の将は戦場に裸で晒されたと言います。
ブーヴィーヌの戦い
1213年、フランス王フィリップ2世はドルー伯、ブルゴーニュ公を引き連れてフランスとフランドルの境で、神聖ローマ皇帝オットー4世、フランドル伯フェルディナント、ホラント伯、イングランドのソールズベリー伯ウィリアム、ジョン王の異母兄弟ウィリアム・ロングソード、ブローニュ伯の連合軍と会戦し連合軍を打ち破ります。
フランドル伯領(現ベルギー)、ホラント伯領(現オランダ)、ブローニュ伯領(現ドイツ)。
現代に当て嵌めてみると、ドイツ(神聖ローマ帝国、ブローニュ伯)、ベルギー、オランダ、イギリスの連合軍がフランスと対戦したことになります。
イングランドの羊毛はフランドルに運ばれ毛織物に加工されて輸出されるなどヨーロッパの経済の中心地として栄えていました。この点からイングランドとの結びつきも強く、イングランドはブーローニュ伯、ホラント伯等にお金(貨幣知行~国外の君候等の忠誠に対する対価。)を与えて対仏同盟を維持していました。
イングランドとしては、フランドルに連合軍で挑み、他方アキテーヌ領への侵攻を図る南北同時侵攻作戦を企てたようです。
南部侵攻は1214年、イングランド王ジョン直々に行い、対戦相手はフィリップ2世の王太子ルイ(後のルイ8世)でした。ジョン王はギエンヌから出撃しますがポワチエで撃退されます。
これらの戦いの本質は、フランドルとボルドーという金の卵を産む2羽のニワトリを奪い合う戦いだと思われます。
アリエノールが再婚した1152年から100年戦争が終わる1453年までの300年間、フランスとイングランドは金の卵を巡って断続的に戦うことになります。
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