■『この世界に残されて』
☆☆☆☆★★[90]
2019年/ハンガリー映画/88分
監督:バルナバーシュ・トート
出演:カーロイ・ハイデュク/アビゲール・セーケ/マリ・ナジ/カタリン・シムコー/バルナバーシュ・ホルカイ
■2020年 劇場公開作品 32本目
見た「理由」は、映画雑誌『SCREEN』の『SCREEN映画評論家が選んだ 最も優れた映画 2020』の「44位」だったから。
「ナチス・ドイツによって約56万人ものユダヤ人が殺害されたと言われるハンガリー」。
「終戦後の1948年、ホロコーストを生き延びたものの、家族を喪い孤独の身となった16歳の少女クララは、
ある日寡黙な医師アルドと出会う。言葉をかわすうちに、
彼の心に自分と同じ欠落を感じ取ったクララは父を慕うようにアルドになつき、
アルドはクララを保護することで人生を再び取り戻そうとする」。
「だが、スターリン率いるソ連がハンガリーで権力を掌握すると、再び世の中は不穏な空気に包まれ、二人の関係は、スキャンダラスな誤解を孕んでゆく」。
「この映画は、自分自身が悲しみに打ちひしがれながらも、壊れかけたもう一つの魂を救うために最後にもう一度立ち上がる人びとへの讃歌です」と、「バルナバーシュ・トート監督」が仰るように、「ホロコースト」の犠牲者を見せる「反戦映画」なのだと「鶏」は思う。
なので「家族を喪い孤独の身となった16歳の少女クララ」と、同じく家族を喪った「寡黙な医師アルド」が出逢い、まさに「最後にもう一度立ち上がる」「讃歌」なので、「二人の関係は、スキャンダラスな誤解を孕んでゆく」ことが「悲劇」、「絶対許されない」「苦しさ」「哀しさ」「辛さ」のように描かれた。
「ハンガリーアカデミー賞」「ハンガリー映画批評家賞」で「最優秀男優賞受賞」なくらいだから、ただの「ホロコースト映画」「じゃない」、「年齢差限界禁断恋愛映画」にして「誰も見たことがない」「新しいもの」にしたのかもしれないが、「映画の見方」って「人それぞれ」。「絶対こう解釈しなければならない」なんてことは「絶対ない」。
「鶏」には、「終戦後の1948年、ホロコーストを生き延びた」話「より」、「家族を喪い孤独の身となった16歳の少女クララ」と「寡黙な医師アルド」の、「16歳」と「42歳」、「年齢差限界禁断恋愛映画」「部分」で「完全共感」、「ガン見」「しか」できなかった。
「終戦後の1948年、ホロコーストを生き延びた」「背景実話系映画」だろうから、「戦争」「時代」に翻弄され、本来なら愛し合うべき「真実の愛」が、ただ引き裂かれる「だけ」じゃない、「スターリン率いるソ連がハンガリーで権力を掌握すると、再び世の中は不穏な空気に包まれ、二人の関係は、スキャンダラスな誤解を孕んでゆく」ように、「殺される」「死」の「恐怖」「怖さ」「ショック」「衝撃」まで追い込まれ、「現代」「今」じゃ「絶対許されない」級「残虐」「非道」「無慈悲」な「苦しさ」「哀しさ」「辛さ」を見せた、「ナチス」を批判する「反戦映画」として大きな意味を持つことは理解できた。
まさに「絶対本来はここを見なきゃいけない」……
……んだろうけど、「今」、「独り者」「孤独」の「苦しさ」「哀しさ」「辛さ」の「これでもか」級 “棲息速度域” まで追い込まれてる「鶏」は、「絶対他人の心配なんかして余裕ぶっこいてる場合じゃない」。
「終戦後の1948年、ホロコーストを生き延びた」話なんかもはや「完全無意識スルー」。「今」「鶏」には、「16歳」と「42歳」、「二人の関係は、スキャンダラスな誤解を孕んでゆく」ことが、自分のことのように「旨くいくこと」を見てて祈ってしまう以外なす術がなかった。
「最期」、「人間の生き方の教科書」的「当り前の結末」に「絶対納得できない」。
「絶対人間こんなもんじゃない」。
「今」の「鶏」は、こんな「きれい事」に「共感」してる場合じゃ「絶対ない」。
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