日記「今日見た映画 2015」49『裁かれるは善人のみ』 | やりすぎ限界映画入門

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ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『裁かれるは善人のみ』
☆☆☆☆★★[90]

2014年/ロシア映画/140分
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:アレクセイ・セレブリャコフ/エレナ・リャドワ/ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ/ロマン・マディアノフ/セルゲイ・ポホダーエフ/アンナ・ウコロワ/アレクセイ・ロズィン/イーゴリ・セルゲイエフ

■2015年 劇場公開作品 49本目

■第2稿 2021年 4月20日 版

調べたら実話ではなかったが、アメリカで実際に起きた土地の再開発をめぐる悲劇的な事件を基にしたらしい。「アンドレイ・ズビャギンツェフ監督」が、『ミヒャエル・コールハースの運命 -或る古記録より』や『旧約聖書』「ヨブ記」や「トマス・ホッブズ」の『リヴァイアサン』などから着想を得た「創作」だったとは、「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」。「今」も、『ミヒャエル・コールハースの運命 -或る古記録より』『旧約聖書』『リヴァイアサン』を読んでない。

「ロシア映画」だったことも「今頃」「自覚」。ロシアのことは「ドストエフスキー」を「少し」知ってる程度。「また」『雪の轍』のように、「人間」の姿を見つめ、僕でも共感できる部分を探すことでしか『裁かれるは善人のみ』を見れなかった。

「善人」「アレクセイ・セレブリャコフ」が、先祖の土地を市長から「二束三文」の値で奪われたあげく、恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「エレナ・リャドワ」「妻」を殺した殺人犯の濡れ衣で「有罪」。この世にこれ以上「残酷」「悲惨」なことはないまでの仕打ちを受ける。「この世に救世主 なぞ おらんの じゃあ!!」 この世に仏様などいないとしか思えない「絶望」に追い込まれる。

だが少しおかしい。「アレクセイ・セレブリャコフ」が “本物” 「善人」なら、恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「エレナ・リャドワ」「妻」は、何で親友の弁護士と浮気したのか? さらに恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「エレナ・リャドワ」「妻」は、「アレクセイ・セレブリャコフ」が浮気を「許した」のに「自殺」を選んだのか? 何で息子は恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「エレナ・リャドワ」「妻」に「あんたが全部 ぶち壊したんだ 大嫌いだ」だったのか? 息子は何で父「アレクセイ・セレブリャコフ」の「再婚」を祝福できなかったのか?

だが「かなり」「悪い」市長に「全部」「奪われた」、これ以上「かわいそう」なことはないまでの最期が、「本当にそう見える」「本当にこういう人いる」、創作に見えないまで「残酷」「残虐」「悲惨」な恐るべき極限のくそリアリズムで、「怖さ」にビビって震え上がるしかなかった。

“本物” の「善人」がここまで「奪われた」ことも、仏様のお導きなのか? それとも「善人」ではなかったのか? どちらにも見える。判断は観客の想像に委ねられる。僕は答えが解らない。

この世には「2種類」映画が必要だと思う。「ハッピーエンド」と「バッドエンド」の映画。「明」「暗」表裏一体で人間を描くのだと思う。現実は「ハッピーエンド」だけじゃない。「バッドエンド」も人間の「現実」であることを思い知らされた。海辺の風景「化石」の「極限の美」が印象に残った。

■初稿 2018年 6月22日


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画像 2018年 6月