■『シンデレラ』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]
2015年/アメリカ映画/105分
監督:ケネス・ブラナー
出演:リリー・ジェームズ/ケイト・ブランシェット/リチャード・マッデン/ヘレナ・ボナム=カーター/ノンソー・アノジー/ステラン・スカルスガルド/ソフィー・マクシェラ/ホリデイ・グレインジャー/デレク・ジャコビ/アレックス・マックイーン/ベン・チャップリン/ヘイリー・アトウェル/エロイーズ・ウェブ/ポール・ハンター/ロブ・ブライドン/ケイティ・ウェスト/トム・エデン/ギャレス・メイソン/ジャナ・ペレス/リチャード・マッケーブ/マイケル・ジェン
2015年 第31回 やりすぎ限界映画祭
■2015年 ベスト10 第1位:『シンデレラ』
■やりすぎ限界パルムドール/やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『シンデレラ』
[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。
■やりすぎ限界女優賞:リリー・ジェームズ
■やりすぎ限界男優賞:リチャード・マッデン
■やりすぎ限界男優賞:デレク・ジャコビ
■やりすぎ限界女優賞:ヘレナ・ボナム=カーター
■やりすぎ限界女優賞:ケイト・ブランシェット
■やりすぎ限界女優賞:ソフィー・マクシェラ
■やりすぎ限界女優賞:ホリデイ・グレインジャー
■やりすぎ限界男優賞:ノンソー・アノジー
■やりすぎ限界女優賞:ジャナ・ペレス
■第2稿 2022年 5月30日 版
[「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」]
「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」と、「シンデレラを信じないでバカにする人間」には、「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」にしか思えず、「シンデレラを信じて憧れる人間」など「言語道断」「クソして寝ろ」なのかもしれない。
悔しいがいくら憧れても、「シンデレラ」のような「妄想」「幻覚」「白昼夢」なことを「現実」として「体験」できる人間は、実際この世に「0.00000000…………………… %」「くらい」「しか」いない。
だが何で、「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」な『シンデレラ』を、遥か「紀元前1世紀」も昔に「創作」した人間がいたのか?
[「そもそも誰が創作したのか?」]
実は「最近」まで、「2015年」実写版『シンデレラ』が「1950年」「アニメーション映画」『シンデレラ』(『シンデレラ姫』)の「リメイク映画」だったと「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」。
さらに完全 “本物” 「アル中」+「超てきとう」「超不真面目」「超いい加減」+「酔っ払ってた」「寝ぼけてた」「体調が悪かった」程度の「鶏」だから、『シンデレラ』の原作は「グリム童話」『灰かぶり姫』だと「先入観」「思い込み」で勝手に信じてた。だが「とんでもない」「大間違い」。
「そもそも誰が創作したのか?」 調べたら「グリム兄弟」「シャルル・ペロー」「ジャンバティスタ・バジーレ」版の他、どうやって日本に伝わったか「全く知らない」『落窪物語』や、「一番」「世界最古」らしい「紀元前1世紀」頃のギリシャ「地理学者」「歴史家」「ストラボン」の『地理誌』に記される「ロドピス」まで、実は「世紀」を経て「大昔」からあった童話だったと「今頃」「初めて」思い知り「反省」「懺悔」「償い」。
だが何で創作した人間は、「紀元前1世紀」の「大昔」から、「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」な童話を後世に語り継ごうとしたのか?
[「マンデラ大統領」「絶望」「希望」]
「マンデラ大統領」は何で大統領になれたのか? 何より「まず」1番目の答えは、「死ななかった」から「生きてた」から。
「反アパルトヘイト活動」で「27年間」刑務所に投獄された「マンデラ大統領」が、「もしも」「絶望」に負けて「自殺」してたら、また「絶望」に負けて生きる気力を失い「大病」を患ってしまってたら、生きて大統領にはなれなかった。
だが軍のクーデターで政権が覆り、「拘束」されるような「悲惨な現実」が起きてる今の世界では、たとえ「27年間」経っても、「助からない」まま「獄中死」となる可能性の方が実際は高い。軍のクーデターに限らず「悲惨な現実」は今この瞬間も「全世界」で起きてる。
実際「悲惨な現実」を体験した人間には、『シンデレラ』の「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」など、「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」としか思えないかもしれない。だが「紀元前一世紀」から語り継がねばならなかった「理由」「真実」が、実はここにあると思う。
この世には「絶望」だけじゃなく「希望」があること「知ってないと」、「助かるものも助からなくなる」から。
[「可能性があるって 知っておくこっとって すごく大事なの」]
■『ビリギャル 学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』より
■「けど それを 君は知らないから
丸いという先入観だけで諦めた
クララだって
ハイジが立つって信じてなきゃ
一生 立てなかった
かもしれない
だからね
可能性があるって
知っておくこっとって
すごく大事なの」
「可能性があるって 知っておくこっとって すごく大事なの」。まさに「坪田先生」の「教え」「そのもの」。「可能性」=「希望」があること「知ってれば」、「絶望」に負けず「27年間」「待った」「耐えた」ことで、生きて大統領になれた人間がいた「現実」「史実」を「絶対忘れてはならない」。
「助かる可能性があること」「絶対助からないとは言い切れないこと」を「知ってれば」、生きて大統領になれる「可能性」=「希望」が、たとえ「希少」でも、「現実」に起きうることがあると伝えるため、『シンデレラ』はこの世に生まれた、「創作」されたように思える。
「シンデレラを信じないでバカにする人間」の思想とは、「希望」の存在を「完全否定」する思想だと思う。
「シンデレラを信じないでバカにする人間」に問いたい。「希望」の存在を「完全否定」し「絶望」しか信じないなら、「もしも」自分が「悲惨な現実」に追い込まれた時、「即決自殺」を「決断」「実行」できるのか? 「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」に「見えたかもしれない」『シンデレラ』こそ、「真実」は、「可能性」=「希望」が恐るべき極限のくそリアリズムで「実在」することを伝えるための創作だったのだと「今」思い知る。
[「可能性」=「希望」を「信じたい」]
「フェアリー・ゴッドマザー」カボチャの「馬車」「4頭の白馬」「従者」「御者」「母のドレス」「ガラスの靴」………… 「こんなこと絶対起きる訳がない」「絶対ありえない」「超非現実」「妄想」「幻覚」「白昼夢」「超バカバカしい」「激嘘」「クソして寝ろ」に「見えたかもしれない」が、「絶対ないとは言い切れない」。「王子」ではなくとも「近いこと」、「お金持ち」と「結婚」できる「可能性」=「希望」が、「絶対ないとは言い切れない」。
斯く言う僕も「可能性」=「希望」を「信じたい」。「助かる可能性があること」「絶対助からないとは言い切れないこと」。「フェアリー・ゴッドマザー」ではなくとも「誰かが見てる」こと。「50年間」以上「待った」「耐えた」ことで、「苦労が報われる」ことを「信じたい」。
[「やりすぎ」「改訂部分」]
「2015年」実写版『シンデレラ』の、「これでも泣かないか」な恐るべき「泣かし」に追い込む「理由」「真実」を「もっと」確かめたい。「1950年」「アニメーション映画」『シンデレラ』と「どこがどう違うか」「比較」。
「ケネス・ブラナー監督」は「ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー」出身。淀川先生が『愛と死の間で』を「ベタ褒め」だったが当時「鶏」はサボって「逃げた」。しばらくして「滝に撃たれる」「荒行」に挑む覚悟で見た『フランケンシュタイン』『ハムレット』『オリエント急行殺人事件』………… で、恐るべき極限のくそリアリズム作風を思い知らされた。
「脚本家クリス・ワイツ」を調べて「はうあ!!!」 『Mr.&Mrs. スミス』の脚本家で『ニュームーン トワイライト・サーガ』の「監督」だった。
恐るべき極限のくそリアリズム派「監督」「脚本家」が生み出した「こんなシーンなかった」の中でも「特に」、ビールにベロンベロンに酔っ払い「泣きながら」「100回以上」見てしまった、「俺もこうなりたい」「やりすぎ」「改訂部分」を見つめる。
[「俺もこうなりたい」「出会う」]
■「まま母の娘が意地悪なせいで-
エラが森で王子に
出会うことになるのです」
「悪いこと」があれば「良いこと」だってあるのが「人生」。「絶対ないとは言い切れない」。これ「絶望」で「自殺」しちゃってたら「出会えなかった」。
[「俺もこうなりたい」「他人のことを考える人間」]
■「彼を怖がらせたわね」
「彼?」
「シカよ
シカに何の恨みが?」
「狩りをしてただけだ
君の友達?」
「そうよ 今 出会ったの
見つめ合って-
彼を死なせては
いけないと感じたわ」
人間「普段からしてないことするとボロが出る」。「もしも」僕が、「好きな女にだけ挨拶する」が「それ以外の人に全く挨拶しない」としたら、「自分が興味ない人には全く気を遣わない」ボロが、いずれ「好きな女」の前で「本性剝き出し」となる日がくる。自分以外の人にどう接するかで、「好きな女」は僕の「真実」を「確認」する。
「好きな女」に「だけ」「しか」見せない「気遣い」「やさしさ」など “偽物”。だが「本性剝き出し」を隠そうと、「好きな女」の前で「普段してない」のにその場限りで興味のない人に挨拶しても、「1人目」「2人目」………… 「何人目」まで誤魔化し切れるか?
「やりすぎ」「改訂部分」「他人のことを考える人間」。シンデレラ(リリー・ジェームズ)が、キット王子(リチャード・マッデン)と「初対面」で「初めて」した話が「シカ」。動物は正確には人間じゃないけど、シカにまで見せた「気遣い」「やさしさ」「全開」。
■「お城の人たちは親切?」
「必要以上にね
君は?」
「何とか耐えてるわ」
「気の毒に」
「気にしないで」
■「でも辛いんだろ」
「でもないわ
もっと不幸な人がいるし
だから…
勇気と優しさを
忘れたくないの」
「さらに」、「もっと不幸な人がいるし だから… 勇気と優しさを 忘れたくないの」と、自分の不幸を一切語らず「他人のことを考える人間」。人間「普段からしてないことするとボロが出る」が、「普段からしてる」ことは逆に「全面に溢れ出る」。
「キット王子がシンデレラに惹かれる理由」。「ケネス・ブラナー監督」の「演出」か「脚本家クリス・ワイツ」の「脚本」か、どっちが「激ヤバ」か解からないが「震撼」「驚愕」「圧倒」「尊敬」「絶句」+「敬意」「賞賛」「崇拝」で恐るべき「泣かし」に追い込まれ、大きい方を漏らしたあげく「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」。
[「俺もこうなりたい」「誰かが見てる」]
■「許して お母様
ごめんなさい
勇気を持つと誓ったけど
もうムリ
何も信じられない」
たとえ「希少」でも、「可能性」=「希望」は「実在」する。「助かる可能性があること」「絶対助からないとは言い切れないこと」。「フェアリー・ゴッドマザー」ではなくとも「誰かが見てる」こと。「27年間」の戦いに勝った、「マンデラ大統領」のような「現実」「史実」を「絶対忘れてはならない」。
[「俺もこうなりたい」「逆転人生」]
■「母のドレスなの
これを着て王宮へ
母と一緒のつもりで」
「分かるわ
ちょっぴり変えていい?
ブルーは嫌い?」
「ステキ」
何でここまで恐るべき「泣かし」に追い込まれるのか? 「悲惨な現実」、「悪」によって地獄に「陥れられた」「虐げられた」「善」の、「苦しさ」「辛さ」「苦労が報われる」から。「もうここまで堕とされたら」「絶対幸せにならなきゃ許せない」。「やられればやられただけ」「逆転人生」が「熾烈を極める」。
…………「俺もこうなりたい」。……「もの凄く」「うらやましい」。「俺もシンデレラになりたい」と「死ぬほど」「今」、「心から憧れる」。
[「時間が止まった」恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「リリー・ジェームズ」「女優生命限界点」恐るべき「極限の美」]
■「誰を捜してる?
「誰も」
「森で会った娘だな
だから国中の娘を招いた」
「国民のためです」
「国民思いだな
そしてお前は
その娘に夢中だ
たった一度
森で会っただけの娘に」
■「今夜 初めて会う女性と
結婚しろと?」
「ふさわしいのは王女だけ
他は認めん」
「舞踏会」恐るべき「極限の美」。「逆転人生」によって、シンデレラの「今まで見てた世界」が「豹変」。「絢爛豪華」「もうこれ以上美しく舞踏会を撮れない」恐るべき「極限の美」。
■「失礼」
「殿下の無礼を
どうぞお許し下さい」
だが「さらに」、「舞踏会」恐るべき「極限の美」を、恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「リリー・ジェームズ」「もうこれ以上美しくリリー・ジェームズを撮れない」「女優生命限界点」 “棲息速度域” 恐るべき「極限の美」が「超える」。
■「キットさん」
「君だね
そうだろ」
「そうよ」
■「姫君
もしよければ-
ぜひお願いしたい
あなたの手を取って
踊る名誉を
最初の…」
「ダンスを?」
「そう ダンスだ
いいかな?」
「時間が止まった」。……………………「南斗水鳥拳」を見て「双節棍を落とした」「ユダ」。「ここまで」恐るべき「極限の美」の「怖さ」にビビって震え上がり「泣きながら」、「震撼」「驚愕」「圧倒」「尊敬」「絶句」+「敬意」「賞賛」「崇拝」で大きい方を漏らしたあげく「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」。
[「俺もこうなりたい」「みんな あなたを見てる」「そうじゃない 君に見とれてるんだ」]
■「みんな あなたを見てる」
「そうじゃない
君に見とれてるんだ」
これが「やりすぎ限界映画」だ。
[「俺もこうなりたい」「捜し出すのだ ナゾの美しい娘を そそっかしい… 靴を落とした娘を」]
■「ご命令には従えません
王国強化のために-
他国の王女と
結婚する気はありません
私たちがそれぞれ-
勇気と優しさを持てば
この王国を守れます」
■「打算のための結婚は忘れろ
愛する人を選べ
あの娘を捜せ
捜し出すのだ
ナゾの美しい娘を
そそっかしい…
靴を落とした娘を」
…………国王(デレク・ジャコビ)「やりすぎ」。「童話」なのに「政略結婚」。「国王」「王子」って「天皇」「皇太子」とかと同じ。国政を左右する「皇族結婚」で「皇后」に「一般人」を選ぶ理由の “本気” に「泣きながら」「大きい方垂れ流し」。「他人のことを考える人間」が、国王の「信念」「価値観」「倫理観」を撃ち砕く。
[「俺もこうなりたい」「勇気と優しさを忘れずに」]
『シンデレラ』のテーマ「勇気と優しさ」を、僕は「可能性」=「希望」=「プラス思考」を持ち続けることだと解釈した。「可能性」を否定し「絶望」=「マイナス思考」に堕ちたら、「助かるものも助からなくなる」。
■「果たして自分は
王子にふさわしいのか
魔法には頼れません
最大の難関が
待ち受けていました
ありのまま自分を
見せるのです」
「勇気と優しさを忘れずに」
■「陛下
私は王女でもなく
馬車も持ってません
両親も失い
持参金もありません
靴が合うかどうか
分かりませんが-
もし合えば-
愛して下さる?
あなたを愛する娘を」
「ストラボン」なのか? もっと前に誰かいたのか? 『シンデレラ』を創作した人間は「きっと」、人間の「生」「死」にまで影響を与える「プラス思考」を持ち続けることの「重要性」「教え」を伝えたかったような気がする。
■「許すわ」
「可能性」=「希望」を「信じたい」。ビールにベロンベロンに酔っ払い「泣きながら」『シンデレラ』を「100回以上」見てしまった「理由」「自分が知らない自分」を「また」思い知った。
画像 2022年 5月