『渇き』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『渇き』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2009年/韓国映画/133分
監督:パク・チャヌク
出演:ソン・ガンホ/キム・オクビン/シン・ハギュン/キム・ヘスク/オ・ダルス/パク・イナン/ソン・ヨンチャン

2010年 第26回 やりすぎ限界映画祭
2010年 ベスト10 第5位:『渇き』
やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『渇き』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界女優賞:キム・オクビン


やりすぎ限界男優賞:ソン・ガンホ


■第4稿 2018年 10月15日 版

[「もし真面目な神父がバンパイアになったら?」]



「バンパイア映画」の「不老不死」や「超能力」に僕は “本気” で憧れる。「本当は僕もバンパイアになりたい」。『トワイライト』シリーズの「エドワード」に、「俺もこうなりたい」とものすごく憧れた。



「もし真面目な神父がバンパイアになったら?」 「他人のことを考える人間」だった神父サンヒョン(ソン・ガンホ)の「苦悩」と「葛藤」。「血が飲みたい」のに「人が殺せない」「苦しみ」が、パク・チャヌク監督の「バンパイア映画」を「本当にそう見える」極限のくそリアリズムに到達させた。

[「他人のことを考えるバンパイア」]



もし「他人のことを考える人間」が、そのまま「他人のことを考えるバンパイア」になったら? この極限のくそリアリズムがすごい。極限のくそリアリズムを追究すれば、「他人のことを考えないバンパイア」に「豹変」する人間だっているはず。だが神父サンヒョンのように「変わらない」人間もいるだろう。



『トワイライト』シリーズと違うパク・チャヌク監督の面白さは、「バンパイア」と「人間」が「そのままセックスできる設定」。僕はここに一番魂を撃たれた。バンパイアになっても「性欲」がそのまま人間であること。一番「感情移入」してしまった部分だった。

[「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」]






「もし僕がサンヒョンだったら?」 テジュ(キム・オクビン)の「限界悩殺ダイナマイト美脚」を「あれほど」「見せつけられ」、「愛撫」までさせてもらって、「理性を抑える」ことなどできるだろうか? 僕には「絶対できない」。バンパイアに生まれ変わっても、そのまま人間の感情が残り「セックスできる」なら、「テジュの言いなり」になるしか選択肢などない。サンヒョンを追いつめた「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」の極限のくそリアリズムに震撼した。






「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」が、サンヒョンの人生を「破滅させた」。もしサンヒョンが「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」を「愛撫」してなかったら、「死なずに済んだかもしれない」。「絶対大袈裟ではない」。男にとって、いや、「僕だけなのかもしれない」が、「好きな女の限界悩殺ダイナマイト美脚」は、「男の人生を破滅させるほどの破壊力」がある。その極限のくそリアリズムを、「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」の「極限の美」を、パク・チャヌク監督は『渇き』で見せた。

[「キツネが鶏を食べるのが罪?」]



■「まあ
  神父様 怒ったのね
  人間じゃないから
  人間らしく考えないで」
 「じゃあ何だ?」
 「人間を食べるケダモノよ
  キツネが鶏を食べるのが罪?」


僕もテジュの言葉に逆らえなくなってきた。「バンパイアに生まれ変わってからのテジュ」は、「正しいかもしれない」。



「夫を殺した罪」は「絶対許されない」。だがこの倫理観は「人間」の倫理観。「もし自分が」本当に「人間を食べるケダモノ」と化したら、僕はサンヒョンのような「きれい事」を貫けるだろうか? 『トワイライト』シリーズや『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のように、「不老不死」で何百年も生きるなら、「信念」「価値観」「倫理観」は変化するだろう。僕もテジュと同じことを考えるかもしれない。どこまでも突きつめて考えたら、もうどうなるかは解らない。だが正体がバレて大騒ぎになれば生きれなくなるから、「カレン家」のように静かに生きる道を選ぶだろう。テジュほどの暴走はしないと思うが、「人間を食べるケダモノ」である「自覚」は考えると思った。

[「ガンウは 一度も殴らなかったわ」]



■「ガンウは 一度も殴らなかったわ」

「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」に「だまされた」。この「苦しみ」が「他人事に見えなかった」。「ガンウは 一度も殴らなかったわ」。




テジュにだまされガンウを殺してしまった原因は、テジュの「極限の美」、「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」に「翻弄」され「理性」を失ったから。「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」に「絶対逆らえない」「テジュの言いなり」になるしかない、「男」の極限のくそリアリズムに「自分を重ねた」。『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]『恋愛映画における女優の私見』において、サンヒョンを「死」に追い込んだテジュの「極限の美」、「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」の極限のくそリアリズムに、「震撼」「驚愕」「圧倒」されるしかもはや僕になす術はなかった。

[「下僕」と化す以外「選択肢はない」]



■「ガンウの所に行く
  私を殺して お願い」


テジュをバンパイアに生まれ変わらせる「血の儀式」。サンヒョンが「どれほどテジュを愛したか」の “本気” に涙が出た。






「愛した女」に裏切られた「絶望」「怒り」「哀しみ」に「完全共感」。僕も同じ感情になるだろう。だがもっと壮絶なのは、本当に殺そうとしたが「できなかった」こと。サンヒョンの「涙」の「痛み」が伝わった。「本当に女を好きになったら」、男は「下僕」と化す以外「選択肢はない」。「キム・オクビン限界悩殺ダイナマイト美脚」に「絶対逆らえない」「苦しみ」。恐るべきやりすぎ限界映画に震撼した。

[「バンパイアが自殺」]



「実話」を基にした『仁義なき戦い 広島死闘篇』で、ヤクザの「山中正治」が自殺する。「ヤクザが自殺」。冷静に考えるととても理不尽だ。「欲望のままに暴れたい」=「自殺したくない」からヤクザはヤクザになったように思える。「バンパイアが自殺」。「不老不死」と「超能力」を手に入れてまで自殺する「苦悩」と「葛藤」におしっこを漏らした。



「もし僕なら」、自殺しないで「離婚」だろう。妻を殺しはしない。『ダイ・ハード』のように「大ゲンカ」して「別居」になっても、妻には生きててほしいと思う。「100年後」に再会して「どうしてた?」と聞く方が僕にはいい。「何も死ななくてもいいだろう」と思った。



だが「死んで償う」道を選んだ。「他人のことを考えるバンパイア」の真面目さが、「パク・チャヌク監督の真面目さ」に見えた。テジュとの「心中」が、サンヒョンの「生涯添い遂げる」決意に見えた。「どれほどテジュを愛したか」。「俺にはお前しかいない」と言うサンヒョンの “本気” が、最期はテジュに伝わったように見えた。




画像 2018年 10月