メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編 -2ページ目

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

大リーグを目指しているのかどうか知りませんが、最近の佐々木朗希を見ていて、あまり私は良い感情を持ってなかったりする。

佐々木朗希のファンの人からすれば、私のような感情を認めたくないかも知れませんが、それはそれで致し方ない。





大リーグの先発投手に求められている登板数は、約33試合なんだそうで、ここ最近の最大登板数だと36試合。

中4日、約100球というのが、大リーグの先発投手に求められている数字であり、これをこなせるだけの体力と技術が無ければ、先発ローテーションに食い込む事が出来ませんので、大リーグのスカウトからすれば、それがこなせるであろう人材しか誘おうとしない。

そのような大リーグの先発投手の基準からすれば、たとえ素材が一級であっても、中4日のローテーションを守れそうもない人材というのは、興行面や勝ち星について計算出来ませんし、そのような人材に高い契約金を払って、目立った成績を上げられないという結末になれば、スカウトはおろかGMまで職を失う可能性が高まりますので、及び腰となって当然だろう。





さて、私達一般人の会社に置き換えてみますが、物凄い才能があって、なおかつ物凄い成果を出した事のある人材が、週に1回出勤する訳でもなく、リモート出勤する訳でもないとなった場合、その人を才能だけで評価し続けられるだろうか?

頭が痛い、お腹が痛いと、理由をつけて会社を休む人に対して、チームや組織として信用や信頼を与えられるかと言えば、そのようなお人好しは存在しないと私は思ってますが、いくら野球選手が個人事業主だとは言え、チームや組織に在籍している以上、チームや組織に与えられた目的に合わない人として、その人は評価される。

完全な新人であれば、新人だからと最初のうちは目をつぶってもらえるだろうけど、プロ入り4年目ともなれば、そのような生暖かいフィルターは消えていってしまう。




才能や素材という点において、競走馬を例にしますが、どのように才能や素材に優れた競走馬であっても、調教されないまま勝利した競走馬や、ましてやG1に勝利した競走馬というのは存在しない。

馬は人間の言葉を話せませんので、体調や状態を調教師が管理しつつ、こなさなければならない課題の調教を強制しますが、プロスポーツ選手は人間ですので、なんだかんだ理由をつけて、与えられた問題の克服から逃げる事が出来てしまう。

才能や素材が無くても、頭でっかち耳年増になれるのが、人間の良い所でもあり悪い所でもありますが、一流や超一流と呼ばれる人達は、たとえ嫌であっても、自分の課題の克服に対して、愚直に取り組み続けられる人達であり、二流と呼ばれる人達であっても、自分の課題の克服に対して、愚直に取り組み続けられる人であれば、見切りをつけられるまではチャンスを与えられる。

逆に自らを調教しない人達は、たとえ才能や素材に満ち溢れていても、その才能や素材を花開かせる事なく見切りをつけられるのだ。





そのような事を言うと「故障したらどうしてくれる?」と言う人が出てくるだろう。

それに対して「故障するまでやってみたら?」としか、私には言いようがありませんけど、これまたそのような事を言うと、やれ「精神論だ!」と言う人が出てくるに違いない。

しかし故障するかしないかと言うのは、誰かの寿命を問うのと同じであり、いつ亡くなるか誰も知らないのと同じく、練習を増やす事で故障するかしないかというのは、神ならぬ人間には分からない。

ただ1つ言える事は、人がいつかは必ず死ぬのと同じように、プロスポーツ選手もいつかは必ず引退するという事であって、故障が原因で引退するのか、それとも長年プレーし続けた上で引退するのかは、誰にも分からないのである。

故障するのを怖がって練習しなければ、課題の克服が出来ないまま引退に追い込まれるだろうし、故障するのを怖がらずに練習する事によって故障し、引退に追い込まれる事もあるだろうけど、どっちにせよプロスポーツ選手は引退する。

そして、一軍の舞台で活躍しなければ、どのような才能や素材の持ち主であっても、プロの評価は得られないのである。





佐々木朗希を見てると、プロとして自分に与えられた寿命を、まるで永遠であるかのように勘違いしているように見えるので、私は佐々木朗希が好きになれない。

「飲み会って必要?」とか「挨拶って必要?」といった意見を言う若者がいますが、そのような意見に同調するコメンテーターやら知識人を見ていて、不思議に思う事がある。

どのような点が不思議なのかと言えば、そのようなコメンテーターや知識人ほど、日頃なにかにつけ「アメリカでは○○」とか言ってたりするのですが、アメリカってパーティー大好きな社会なのでは?と思う訳で、そこら辺についてはシカトするのかと不思議に思うのだ。





どのような国や社会であれ、コミュニケーションを大切にしていますし、そこから派生するコミュニティを大切にしている。

日本の企業では、飲み会といった形かも知れませんが、形は違えど、同じようなコミュニケーションを取る場を持とうとするのが、人間という動物が本能的に持つ欲求だと思う訳で、コミュニケーションのスタート地点として「挨拶」があり、コミュニケーションを取る場の設定として、飲み会やパーティーが存在するのだろう。

そのような存在に対して、「飲み会って必要?」「挨拶って必要?」と主張するのは自由ですが、それを聞かれた人からすれば、「この人はコミュニケーションを取りたくないのね」としか受け取れないだろうし、そのように受け取る事もまた、受け取る側の自由である。





SNS全盛の現在、そして自身が弱者側だと名乗ると共感されやすい現在において、このような発言や主張をする事について、社会のハードルを感じられなくなってきている人が増えた。

それを承認欲求と呼ぶのかも知れないけど、必ずしも承認されるとは限らないという現実について、あまりにも無防備なまま、発言や主張をする人が増えているし、そして無防備なまま叩かれている人も増えている。

そして、自分に知識が無い事を気づかないまま、その人の発言や主張を利用して、政治批判に結びつけようとしている風潮も増えている訳で、例えばアメリカではパーティーが重視されてるという現実や、パーティーに誘われない人は、コミュニケーションに問題のある人と見做されているという現実を無視して、自分の思い描く「アメリカ」を例とするような人達が存在している。





「沈黙は金」という言葉が、古くから存在してますけど、何故そのような言葉が生まれてきたのか、現代に生きる我々は考えてみた方が良い。

思いつくまま発言する事より、その発言が妥当かどうか、一瞬でも考えてみる事の大切さを、この言葉は伝えているように私は思うのであって、言わなければならない事を黙っているというのではなく、言わなくても良い事を考える事や、正しく伝える為の言葉選びを考える時間について、「沈黙」という言葉を使っているのだと私は思う。





中世の時代であれば、その発言によって物理的に斬り掛かられたのでしょうが、それと同じような流れで、現代社会においては「炎上」という攻撃にさらされる。

いつの時代においても、考え無しの発言というのは、我が身に降り掛かってくるのであって、文明が進歩しようが、人の感情は昔から変わらない。





自分の発言に責任を持てないのであれば、思いつくまま発言しない方が良いと思う。

https://s.japanese.joins.com/jarticle/319945


韓国の現代自動車が、日本に再進出して2年経過したそうなんですが、月に50台程度の販売数で振るわないのだそうな。
なんでも今回は、オンライン販売を中心としているのだそうですけど、それで日本市場に食い込めると考えていたのなら、計画が甘すぎるとしか言いようが無い。




日本において、オンライン販売が成功する為には、それまでのメーカーの実績や信用が必要となるだろう。
ゴルフを例にしますが、テーラーメイドやキャロウェイ等の大手メーカーのように、日本における過去の実績や信用が蓄積されていれば、そこの製品について、日本人はオンライン販売を利用する事を躊躇わないだろうけど、実績や信用の蓄積の無いメーカーに対して、日本人はオンライン販売を利用する事を躊躇う。
安い買い物であれば、実績や信用の無いメーカーのオンライン販売を、ダメ元で利用する可能性も高まりますが、特に自動車のような高い買い物の場合では、日本人がオンライン販売を利用する可能性は低くなる訳で、「暖簾」の持つ価値を重視してきた日本人からすれば、それは当然の行動となる。
これはテスラについても同じで、2023年における、日本市場でのテスラの販売実績は5,500台、月あたり約460台でしかないというのは、テスラに対する日本人の警戒心が影響しているのだろう。




現代自動車は、過去に日本市場進出を失敗していますが、失敗の本質について、深く考える事をしなかったのだろう。
現代自動車の中で、どのような価値観があるのかは知りませんが、「世界で人気の現代自動車」という価値観だけで、日本市場に再進出したのだとしたら、それでは過去の失敗を繰り返すだけである。
どうも韓国の認識の中で、「日本で韓国は人気だ」というのが存在しているようですけど、「安物をダメ元で買ってみる」という、日本人の価値観と照らし合わせてみれば、K−POPや韓流ドラマ等の、単価の安い分野でしか成功していないという現実が見えてくる。



現代自動車は、過去に日本市場進出を失敗しているからこそ、日本人が求める価値観に合わせる努力をすべきだった。
その努力を惜しんだのだから、今回の再進出も失敗に終わるだろうなあと想う。
先日のラウンドは、久しぶりの高麗グリーン。
エアレーションされている事より、バリバリと音をたてる高麗グリーンに対応出来るかが心配でしたが、思った以上に対応出来てたので安心した。




高麗グリーン攻略のコツが何かと言えば、それは手前から攻めて、上りのパットとなるようにする事と、上りのパットであれば、常に強気に打つという事になると思う。
思った以上に止まるし、止まり際に想定外な曲がり方をするというのが、私が高麗グリーンに抱いているイメージですけど、高麗グリーン自体がマイナーとなった現在、芝目が読めるようになるほど、高麗グリーンの経験を積み重ねる事は出来ませんので、手前から攻めて強気に打つという基本しか、高麗グリーンを攻略する術を知りようがない。



久しぶりに高麗グリーンでプレーして、いかにベントグリーンが素直かを実感しましたが、高麗には高麗の面白さがあるし、高麗を体験する事で色々な事が学べる。
でもベントグリーンの方が、人気があるんだろうなあ。


先日のラウンドで、久しぶりに100を切る事が出来た。
渡良瀬遊水地の横にあるゴルフ場ですので、全体的にフラットだったというのが、100切り達成の大きな要因ですけど、練習中に気づいた事を実践出来たのも、要因の1つと言えるだろう。




まあ気づいたというより、諦めたと言うか腹をくくったという方が正確ですが、今まで「150ヤードは6鉄の距離」と信じてきたのを、「150ヤードは5Uの距離」と決めつけるようにした。
これは自分のショットの精度を振り返ってみた際、5Uのクオーターショットで150ヤードを狙った方が、6鉄のフルショットより成功率が高かったからで、願望としては6鉄で150ヤード飛んでもらいたいけど、そこまでの精度が求められないのだから仕方がない。
そのように腹を括ってラウンドしたせいか、久しぶりにボギーオンを目指すゴルフをする事が出来た。







前々回のラウンドで掴んだ、ドライバーの調子の良さは継続中。
10.5度のドローポジションに設定変更し、力まず軽く振り抜くというイメージでスイングしてますが、この感覚が身につきつつあるおかげで、ユーティリティを打つ時の感覚も改善しつつある。
このドライバーはMAXと謳っていますが、極端なドローバイアスになっておらず、ドローポジションにしても少し掴まりが良くなる程度なので、本当に安心感があるし、何よりミスに強い。




前々回のラウンドぐらいから、なんかアイアンが重たく感じるようになってきた。
モーダス105のSが刺さっているけど、今度のボーナスで90g台のRにリシャフトしようか悩み中。





私が学生の頃は、1192年に鎌倉幕府が成立したと習いましたが、今では段階的に鎌倉幕府は成立していったので、成立した年を限定しないというのが主流なんだそうな。

あくまで1192年は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた年であって、鎌倉幕府という政体が成立していく中での、特別な年の1つというのが、今の教え方らしい。





今を生きる私達にとって、西暦は当たり前の存在ですが、西暦が日本に導入される以前は、当然ですが西暦に基づく考え方を、日本人は持った事が無かった。

西暦導入以前の日本人にとって、時代の区切りは元号であり、例えば「応仁の乱」もしくは「応仁・文明の乱」を、「1467年〜1477年の乱」と呼ぶ、当時の日本人は存在しなかった訳で、西暦で言えば何年の出来事であるかというような事は、当時の日本人の頭の中には思い浮かばなかったのである。

更に言えば、何をもって時代を振り返るのかと言えば、今の日本人である私達においても、西暦で考える人は少ないのであって、特徴的な事があるのであれば、それをもって時代を振り返る訳で、代表的な例を挙げるとしたら、「昭和」「戦後」「高度経済成長」「バブル」「バブル崩壊」など、西暦を介さずとも時代を振り返る事が出来る。





西暦導入以前の日本人には、「創立○○周年」なんて考え方は無かったのではないか?

これに代わるものとして、「初代から数えて何代目」という考え方は有りましたけど、西暦のように、何かを基準として、現在まで連綿と年を重ねるという物が無かった以上、「創立○○周年」という考え方を持つ事は無かったのではないかと思う訳で、「寛永元年創業」という開始年を記録する事は出来ても、寛永元年が西暦何年という物差しが無いのだから、「創立○○周年」なんて把握するなんて事は、必要だと思ってもいなかったのではないだろうか?





長々と書いていましたが、連綿と数字を重ねてきた西暦は、年数を数える上で便利な物差しではあるけど、特定の時代を振り返るという点においては、さほど便利な物ではないという事。

そして、西暦という概念が日本に無かったという事を教えるのも、歴史を教えるという点において、結構重要な事なのでは?と思った次第。

https://www.chunichi.co.jp/article/894007


5月頭に見た記事。
アメリカの大学で、イスラエルのガザ地区攻撃に対して、学生が大規模なデモを行なったそうなんですが、それについて元乃木坂46の山崎さんが発した発言について、批判的な声が出たのだそうな。
私個人の感想で言えば、山崎さんの発言や疑問について、別に批判する気も無いですし、そのように感じてもおかしくないと思うのですが、目くじらを立てる人が出てきても不思議ではないとも思う。




ベトナム戦争当時、アメリカ国内で反戦運動が活発に行われ、日本を含めた世界中でも、同様の反戦運動が行われましたが、それらと比較して、山崎さんの発言を批判する人がいるのだろう。
では当時のアメリカの若者と、当時の世界中の若者が、危機感を等しくしていたのかと言われたら、私は等しくなんてなかったと思う訳で、何故そのように思うのかと言えば、アメリカの若者には、徴兵されてベトナムに送られる可能性が有ったのに対し、世界中の若者、特に日本の若者に関して言えば、徴兵されてベトナムに送られる可能性は皆無。
そのように考えてみると、反戦運動に掛ける必死さにおいて、アメリカの若者とそれ以外では、熱量や質に大きな違いがあったとしか言えず、そのような違いがあったにも関わらず、同等・同質の反戦運動であったかの様に考えるのは、無知で無理な考え方だろう。




平和は尊いし人命も尊いですが、反戦運動や平和運動をしている人と、異なる考え方や物の見方をしてはならないと考えるのは、私は間違っていると思う。
アメリカの学生が、どのような考えを持って今回の反戦デモをしているのか、そしてどれくらいの割合で賛同しているのかについて、日本に住む我々が理解しているとは到底思えませんし、山崎さんのように疑問を感じるのも不思議ではない訳で、それを「平和」の名の元に批判するのは、考え方の多様性を否定する事に繋がるだろう。
山崎さんの発言を、「平和ボケ」と位置づける事は容易ですが、1つのイデオロギーに盲従させられる事を防ぐ為には、このような意見にも耳を傾ける事が必要な訳で、価値観にも種類があるからこそ、いざという時のブレーキにもなる。




どこかの党みたいに、「多様性の統一」なんて言葉を当然だと考えてる人には、異なる考え方や物の見方を受け入れるなんて無理でしょうけどね。

「政治家」という言葉は、普通に使われている言葉ですが、では「政治家って何?」と聞かれたら、意外と答えられなかったりする。

ザックリとした感じで言えば、「国会議員」が政治家のイメージとなるのでしょうが、では「政治家だけが政治に携わっているの?」と聞かれたら、なんかシックリ来なくなるのではなかろうか?





日本は三権分立の国で、では三権が何かと言えば、立法権・行政権・司法権の3つになるのですが、我々が「政治家」という言葉からイメージするのは、「行政権に携わる人達」という物だろう。

日本は議員内閣制の国ですから、政権与党となった党の議員を中心に、行政権を司る内閣が作られますので、「政治家=行政権に携わる人達」というイメージになるのは仕方ないですが、そもそも国会議員というのは、立法権に携わる人達ですので、「政治家=行政権に携わる人達」という考え方だけでは、国会議員の持つ役割を中途半端に理解する事になる。

また「政治家=行政権に携わる人達」と理解してしまう事自体が、「行政権に携わる人達」という認識を中途半端にする訳で、実務レベルで行政権に携わっている人達が誰かと言えば、それは「各省庁の役人」なんですけど、では各省庁の役人に対して「政治家」というイメージを我々が持っているかと言えば、持ち合わせていないというのが実情だろう。





いわゆる政治家(国会議員)に能力が足りなくても、日本の行政は回っているのは、各省庁の役人達が、与えられた仕事をこなしているから。

これを会社に例えるなら、経営者がバカでも、現場が機能しているなら、その会社は回っているのと同じ事で、経営者が正しい方向性を示さなくても、そこにルーティンワークが存在するなら、その会社は現場の努力で回ってしまう。

では現場が、ルーティンワークを回す事を優先して、間違った方向性を自ら生み出し始めたら、そこの会社は変な方向に進んでしまう訳で、そのような事が起こらないよう、経営者は常に正しい方向性を示す必要があるし、正しいであろう行き先を見つける為の努力を求められる。

では今の政治家(国会議員)が、正しい方向性を示しているか、そして正しいであろう行き先を見つける為の努力をしているかと問われたら、与野党ともに違うようにしか見えないし、今の政治家(各省庁の役人)が、ルーティンワークを回す事を優先して、間違った方向性を自ら生み出していないかと問われたら、組織の自転だけ考えているようにしか見えない。





与野党の国会議員達が党利党略しか考えず、各省庁の役人達が組織の自転しか考えないのであれば、日本の政治が国民無視になって当然と言えよう。

https://www.tapthepop.net/news/52800?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR0hHKvVWpjjNxVsa6o95gHm5rklMEKsJkbl90aM3jXKhFFYwGVWnwYisJk_aem_AXWSKv9XNbrftH-lQiomoA31gUoPhwh2elDJlEDlsDSju-bwNT1Ac99HkcopznJn3x-6-mordRU9tBBfXg60GMfx


このような記事を見かけて読んだのですが、日本人が奴隷制度を理解するのは難しいのだなと思った。
かく言う私も日本人ですから、奴隷制度を肌感覚で理解出来るはずもなく、知識としての理解も厳しいのですが、この記事を書いた人の中にある認識が、的外れな物だという事は理解出来る。




では、どこら辺が的外れなのかと言うと、「非人道的」という言葉。
この「非人道的」という言葉の中には、奴隷身分の「人」を、「非人道的」に扱ったというニュアンスが込められていると思いますが、これは日本人の勘違いであって、奴隷は「人」ではなく、人間の形をした「家畜」として扱われていたと認識するのが正しい。
そのような認識だったという事を、「風と共に去りぬ」を読んだ時に学んだのですが、「奴隷は人ではない」という認識だった事を理解しない限り、なぜ白人と黒人の出入り口が別だったのか、なぜ白人の席に黒人が座る事が問題だったのかという事を、理解出来ないのである。




日本人の感覚の中に、「奴隷=人の形をした家畜」という認識は無い。
これは日本の歴史の中で、そのような認識を培うだけの実績が無いからですが、そのような実績を培う糧になったのが、肌の色の違いや人種の違いだった訳で、日本は海に囲まれた島国で、同じ肌の色をした日本人という人種によって歴史を育んできたからこそ、奴隷のように人をこき使う事はあっても、奴隷を人の形をした家畜として認識を培う事が出来なかった。
奴隷を人として認識するか、それとも奴隷を人の形をした家畜として認識するかは、その社会が培ってきた歴史に左右されるのであって、ザックリ両者を分ける指標としては、人に去勢を施した歴史の有無が挙げられるように思いますが、日本の歴史上、人に去勢を施す文化が無かったという事は、日本社会というのは、奴隷を人の形をした家畜として認識する文化が存在しなかったのだと言える。




人の形をした家畜として奴隷が扱われた社会において、奴隷を他の物に例えるとしたら、それは「ピノキオ」となるだろう。
ピノキオが人間になる事を追い求めたように、奴隷も「人間」となる事を追い求めた訳で、ピノキオが妖精によって人間になれたように、黒人奴隷も聖者によって「人間」になる事を願ったのではないか?




「非人道的」に奴隷が扱われた事が悲劇ではなく、「家畜道的」に扱われた事が悲劇なのであって、良い奴隷主とは、奴隷を「家畜道的」に見て良好に扱う存在。
「風と共に去りぬ」の中で、主人公が如何に奴隷を大切に扱ってきたのかを嘆くシーンがありますが、これは家畜道から見た良い扱いであって、奴隷を人間として扱っていたという証にはならない。
しかし日本人には、「家畜道」という概念が存在しませんから、結果的にアメリカにおける黒人差別の問題や、人種差別の問題について、日本における常識に基づいて捉えてしまう。




日本には「奴隷=人の形をした家畜」という概念が無いのに、そのまま海外における反差別のの動きを取り入れるのは、行き過ぎた行動になり得るのではないか?
海外における差別の実情に合わせる為に、日本にも海外と同じ差別が存在していると、嘘を言う人がいやしないか?
無知から生まれるレイシズム、例えば「黒人=運動神経の塊」のような見方を、日本人がする事は普通に存在しますが、「奴隷=人の形をした家畜」といった見方が、日本人の中にもあると言う事は、それは嘘つきでしかない。




元ネタの筆者が、そのような事を言っている訳ではありませんが、簡単に黒人差別について、日本人基準で評価するのはいけない気がする。

何がセクシーだったのか未だに分かりませんが、プラスチック製品の使用を制限しようと、レジ袋などが目の敵になった事があり、紙製のストローが出現したりした。

たまに行くマクドナルドも、紙製のストローに切り替えたのですが、なんでストローだけなんだろう?と思ってたりする。





マクドナルドのゴミ箱は、紙とプラスチックを分ける形となっていますが、プラスチックのストローだった時代には、それについて疑問を感じる事は無かった。

なぜ思わなかったのかと言えば、飲み残しや氷を紙コップから捨て、その後に紙コップは紙のゴミ箱、ストローと蓋はプラスチックのゴミ箱に捨てるという流れで、ゴミを捨てる事が出来たから。

これが今では、紙のストローとプラスチックの蓋を分けてから、それぞれのゴミ箱に捨てるという、なんか手間が1つ増えた訳で、たった1つ手間が増えただけとはいえ、一連の流れを邪魔されているように感じる。





そのような私からすると、なんで蓋も紙製にしないのか不思議に思ってしまう。

プラスチック製品が環境に悪いのであれば、そしてそれにマクドナルドが賛同したのであれば、蓋もプラスチックから紙に変えてしまえば良いと思う訳で、蓋とストローを紙製にしてくれたら、私が面倒だと思っている、蓋とストローを分けるという手間も省けるだろう。





と、もっともらしい事を言ってますが、ストローを抜いた後にゴミ箱へ向かえば、そんな手間は省ける事に気がついてしまった。

蓋を紙製に変える事に、マクドナルドは気づかなかったかも知れないけど、ストローを抜いた後にゴミ箱へ向かえば良いという事に、私も気づいていなかった訳で、当たり前になってしまった事を変えるというのは、当たり前であるが故に気づきにくい事だったりする。

世の中や社会を改善するには、社会の変化や時代の変化に合わなくなってきた当たり前に、いかに気づくかに掛かってくるのですが、ここに主義やイデオロギーが関わってくると、主義やイデオロギーの中にある当たり前が干渉してきて、世の中や社会の改善という目的から掛け離れたりする。





結局のところ、バランス感覚というのが大切なんだよなあ。