その発言に責任を取れるのか? | メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

「飲み会って必要?」とか「挨拶って必要?」といった意見を言う若者がいますが、そのような意見に同調するコメンテーターやら知識人を見ていて、不思議に思う事がある。

どのような点が不思議なのかと言えば、そのようなコメンテーターや知識人ほど、日頃なにかにつけ「アメリカでは○○」とか言ってたりするのですが、アメリカってパーティー大好きな社会なのでは?と思う訳で、そこら辺についてはシカトするのかと不思議に思うのだ。





どのような国や社会であれ、コミュニケーションを大切にしていますし、そこから派生するコミュニティを大切にしている。

日本の企業では、飲み会といった形かも知れませんが、形は違えど、同じようなコミュニケーションを取る場を持とうとするのが、人間という動物が本能的に持つ欲求だと思う訳で、コミュニケーションのスタート地点として「挨拶」があり、コミュニケーションを取る場の設定として、飲み会やパーティーが存在するのだろう。

そのような存在に対して、「飲み会って必要?」「挨拶って必要?」と主張するのは自由ですが、それを聞かれた人からすれば、「この人はコミュニケーションを取りたくないのね」としか受け取れないだろうし、そのように受け取る事もまた、受け取る側の自由である。





SNS全盛の現在、そして自身が弱者側だと名乗ると共感されやすい現在において、このような発言や主張をする事について、社会のハードルを感じられなくなってきている人が増えた。

それを承認欲求と呼ぶのかも知れないけど、必ずしも承認されるとは限らないという現実について、あまりにも無防備なまま、発言や主張をする人が増えているし、そして無防備なまま叩かれている人も増えている。

そして、自分に知識が無い事を気づかないまま、その人の発言や主張を利用して、政治批判に結びつけようとしている風潮も増えている訳で、例えばアメリカではパーティーが重視されてるという現実や、パーティーに誘われない人は、コミュニケーションに問題のある人と見做されているという現実を無視して、自分の思い描く「アメリカ」を例とするような人達が存在している。





「沈黙は金」という言葉が、古くから存在してますけど、何故そのような言葉が生まれてきたのか、現代に生きる我々は考えてみた方が良い。

思いつくまま発言する事より、その発言が妥当かどうか、一瞬でも考えてみる事の大切さを、この言葉は伝えているように私は思うのであって、言わなければならない事を黙っているというのではなく、言わなくても良い事を考える事や、正しく伝える為の言葉選びを考える時間について、「沈黙」という言葉を使っているのだと私は思う。





中世の時代であれば、その発言によって物理的に斬り掛かられたのでしょうが、それと同じような流れで、現代社会においては「炎上」という攻撃にさらされる。

いつの時代においても、考え無しの発言というのは、我が身に降り掛かってくるのであって、文明が進歩しようが、人の感情は昔から変わらない。





自分の発言に責任を持てないのであれば、思いつくまま発言しない方が良いと思う。