伊勢崎市芭蕉句碑2/2
もろこしの俳諧とはん飛胡てふ 季語胡蝶 春伊勢崎市芭蕉句碑より句碑の表には句の他に干支が彫られていて、「きのと 申」とある。しかし、乙申(きのとさる)は存在しないので、文政八年は乙酉1825「きのととり」の誤り。この句碑には問はんが問わんになったりと細かな誤りが墓碑と同じくケッコーある。設計段階の錯誤か彫りそこないか、知識や言葉力の不足かはわからないけど。句碑の裏には巴山社中の連歌が刻まれているが、発句に芭蕉のこの句を置き脇を巴山が付けて始まった。一般的に発句は主賓が詠み脇は会の主催者が付けるので、芭蕉翁を上座に据えて巴山が亭主だろう。もろこしの俳諧とわん飛胡てふ 芭蕉窓に硯の海のうらゝか 巴山齢迄不足なく春過ぎて 古沢明雄松に太夫の名を残す秋 礒部敬美月清し律の調色ほそく 力丸桂里菊のもよふのみへる小障子 関口一石 長耕舎宇野巴山 社中建之発句 もろこしの俳諧とわん飛胡てふ切れ字はないが、問わんできれる。芭蕉は切れ字四十八文字と言ってるし。脇 窓に硯の海のうらゝか;脇は体言止め(例外もあるが)。硯の海は硯の墨汁を貯める凹んだところだが、赤間関(下関)を訪れた武将や歌人達は歌会に際して、関門海峡を「硯の海」と詠んだ。https://akamagaseki-suzuri.jp/news/archives/13胡てふから、もろこし唐土(たうど)を遥かに望む海峡の雄大な風景を思った。硯の海を知ってるぞみたいなインテリの臭みだが、それを理解し笑い合う楽しみが歌仙連歌の了解でもあった。第三 齢迄不足なく春過ぎて;第三は宗匠が詠むが、古沢明雄は巴山の師匠か?脇の形式的にはこのようにてを末尾に置く。前二句のゆったりとした幸せ気分から、満足な人生だったと納得し、引き取って歳の話へと転じた。下記の句が念頭にあったか。衰ひや歯に喰いあてし海苔の砂 (春)江戸時代に養殖技術が定着しても海苔は高級品であることに変わりはなかったので、それを食えるのは幸せなことだった。また、五七五となるべきところ中五なので、不足なくは元は何不足なくとしたいが、宗匠の句を間違えるとは思えないがしかたない。第三の次からは普通の連衆が次々と詠み、一巡したら出勝ちで作る。平句 松に太夫の名を残す秋;連歌では季節も動いてゆく。春も過ぎて、冒頭に松を据えて松尾芭蕉を連想させながら太夫と念押しし、秋へと転じている。一家に遊女もねたり萩と月 (秋)この景色が次へ持ち越される。平句 月清し律の調色ほそく;雅楽の律旋法だろうと思うが、よくはワカラン。遠くから繊細に聞こえる雅楽の中では、月夜がいっそう澄んで美しい。ほそくは弱々しく、色は風情と言ったところか。月清しはつききよしと読む。律の調は六音なので、ここも彫り師の?誤りで律の調のとしたい。平句 菊のもよふのみへる小障子;月と来れば菊へ。菊柄の小障子(こさうじ)つまりはつい立てが連歌を楽しむ5人の小部屋には置かれていた。それに、いつもこの小障子のある部屋で吟じあったのかも。五七五に七七で応じ、次の五七五へ広がってゆく連歌の醍醐味があり、本連歌が巴山と社中に生涯の傑作と自信もあったことだろう。歌仙形式は36句、今日では胡蝶24句、ソネット14句など短いのもあるが、裏面に刻まれた5句にはさらに続きがあったことでしょう。素敵な仲間たち。(終り)