昨日は久しぶりにちゃんと夜に寝て朝に起きるという、当たり前のことができてよかった。
とにかく旅先でものすごく歩いていて、脚の筋肉が痛くなるぐらいだったのと、自宅ではいつもシャワーを浴びるだけなのだが、ゆっくり風呂につかったことも影響したのかもしれない。
朝起きても脚の筋肉痛はまだ残っていたのだが、カーテンを開けると快晴だったし、また今度いつ来ることができるかも分からないので、やはり行くべき場所には全部行っておきたかった。
ところで、次にまた来る機会があるとするならば、その時はいまよりも軽い気分でいられればいいと思う。
たくさん歩いたり適度に食べたり、明日以降にやるべきことも具体的にまとめられたので、これでじゅうぶんである。
そして、とにかく歩いている時間が長かったので、いまの状況について少し客観的に考えることができた。
現在の私には何も無い、無であるという認識を得ることができ、これはとても重要で、かつ辻褄が合うと思えた。
少し前ならばある程度の価値があるのではないかと思っていた自分自身の存在が、いまや無なわけである。心や体がうまくいかなくなるのも無理はない。しかし、絶望して死ぬに至ってはいないということは、まだこれから再び価値をつけていこうという思いがまだあるということである。
それはたった1つの希望につながっていて、さすがにどうかしているのではないかと思うのだが、深刻かつ真剣なので仕方がない。
要するに私にとって、絶対的に美しく正しい人からの評価だけがすべてであり、たとえその評価そのものは最低レベルであったにせよ、ただ見てもらえている、認識されているということだけでも、生きる意味のすべてであった。それがまったく無くなってしまったかのようなので、つまりもはや私にとってすべての意味というか、存在理由が消え失せたわけである。
それに取って代わる何かが見つけられればいいのだが、もちろんそう簡単には見つからないし、見つけたいともじつは思ってはいない。
何かを見つけたふりをしてみたところで、それを目標にして心の底から全力で生きられるかというと、けしてそうはいかないだろう。なぜなら、私は一度その心の底から全力で生きるという時期を経験してしまったわけであり、ゆえに本物と偽物との区別ぐらいは容易についてしまうのである。
ではどうするかというと、やはりそれだけの価値を自分自身が身につけるという以外にないのであろう。もはや直接的な関係性が失われてしまった以上、ふたたび見つけられて評価していただける可能性はひじょうに低いのかもしれない。
しかし、おそらく社交辞令的に言っていただけたと思われる言葉については全力で真に受けるし、断る余裕もあたえないぐらいの勢いと熱量で一方的に話した約束の件もあるので、結果的に断られることにはなるとしても、それまではそれに向けて全力でやっていきたいと思う。
たとえそれが二度とはかなわないとしても、それに対して何の疑いもなく必死かつ全力でやっている状態で死にたい。そういう人生にしたい。
一昨日、地獄のような気分だったがそれはなるべく表には出さないようにして仕事をしていたのだが、大森靖子の音楽をずっと流していた。そして、これは救いの音楽だな、と思った。
昨日、旅先の書店で「ユリイカ」の大森靖子特集号を購入し、ホテルで風呂につかりながら読んだ。かつて大森靖子は「私は人を救うための音楽にしか、いままでもこれからも永遠に興味がありません」とブログで書いていたことを知った。
救いの音楽だと思ったその瞬間は、最新アルバム「kitixxxgaia」に収録された「非国民的ヒーロー」の、「愛する気持ちだけでは報われなかった全てを ああ 抱きしめる」という部分が耳に入ってきた時であった。
「非国民的ヒーロー」は昨年、シングルでリリースされ、もうすでに何度も聴いていた。曲調が大森靖子にしてはかなりポップだなと思っていたのと、大森靖子以外の男性ヴォーカルが入っていることもあり、それほど気に入っているというわけでもなかった。
この曲は神聖かまってちゃんのの子とのコラボレーションであり、作詞を大森靖子、作曲をの子が担当しているようだ。曲調があまり大森靖子っぽくないというのは、これで納得がいった。
改めて歌詞をインターネットで検索して読んでみたのだが、素晴らしすぎて頭がクラクラしてきた。
「夜も昼もうまく来ない 君を太陽にして無理矢理起きてる」という部分など、いまの私にはリアルすぎる状況がきわめてポップに切り取られているようで、戦慄をおぼえた。
あと、「すぐにはゆるせない だけど引きずられたくない どっちもハズレの『どーっちだ』みたいだ」という部分も、つい数週間前に私に訪れた状況に対する複雑な思いをヴィヴィッドに描写しているようで泣けてくる。天才である。そして、これはいわゆるハイパーメンヘラモードへの対処法について書かれたあの素晴らしいブログ記事と合わせて感じることにより、ありがたさが増大するような気がする。
「夢で君の声を聞いた 僕に何かできないかな」に至っては、いまの私が女の腐った奴のケツ拭く紙のようにイジイジと書き連ねているこのブログにこめた思いを簡潔にまとめてくれているようでもある。しかし、やはり恥ずかしすぎてこんなふうには言えないのだが、本当はそうである。弱ったものだ。どうしようもない。
そして、「愛する気持ちだけでも 折れずに生きてりゃ充分さ」とか、これはもう本当に救いの言葉以外の何物でもない。
いまは東京に戻ってきていて、もちろんアルコールに依存しながらこのブログを書いているのだが、本当にこの曲に救われる思いがする。そして、やはり必死で頑張っていこうと思う。
「君の声が きこえる」と思えるぐらいまで。なぜなら、それだけが私にはすべてなので。
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