深い悲しみや失意、無力感といったものに支配されている精神から、いかにして希望を抽出するかというのが、今回のメインテーマではあるのだが、これは失われた希望を一旦忘れるのではなく、ふたたびそこに向かうということでしかないため、やはり生々しいうちはまだ過酷ではある。
バスの乗客は、大学生ぐらいの女性が普段よりも多く、わりと華やいだ感じであった。数ヶ月ぶりではあるが、今回はこれまでとは違い、ひじょうに重い事実を背負っているということもあり、それほど楽しい気分ではない。というか、最近、その感覚をすっかり忘れてしまった。
ローカル線の電車が来るまで時間があったので、旅先の駅ビルにある書店に行ってみた。東京で買うことができなかった「ユリイカ」の大森靖子特集号があったので、もちろん買った。その前に道重さゆみの直筆メッセージのページを立ち読みしようとしたのだが、少し読んだだけで泣きそうになったので、急いでレジに持って行った。
下車すべき駅で降り、そこからおそらく徒歩30分ほどの場所にある目的地をGoogleマップdr設定したのだが、どうやら定休日らしいということが分かった。不覚である。電車はあと1時間ぐらい来ない。夜に行こうと思っていた場所に先に行くことにした。電車で2駅だが、歩くと約1時間である。どうせ電車はしばらく来ないので、歩くことにした。
昨年末、まだクリスマスソングが流れていた頃以来である。
Negiccoの「カナールの窓辺」は、おそらくもう会えなくなってしまったのであろう「あなた」が好きだった街に、辛くなるだけだと分かっていながらも来てしまうという曲だったと思う。
その街には一緒にいたことがあり、ゆえに「あなた」の笑い声が聞こえるような気がしたり、いるはずのない後姿を何度も探したり見失ったりするのであろう。
歌い出しの「透き通る空は高く どこまでも遠く見えた」という部分は、私がつい数週間前まで何の疑いもなく信じ込んでいた希望のことをいっているようで、心地よい心の痛みを感じることができる。
昨年、私がNegiccoの現場に何度か足を運んでいた頃にこの曲を好きになったが、こんなにも深刻なリアリティーをもって聴くことができる日が来ようとは、少し前までまったく思ってはいなかった。
しかし、「失った過去に戻れないのなら」という部分についてはまだ共感したくはないという気持ちが、強くある。困ったものである。
ホテルにチェックインして、風呂につかりながら「ユリイカ」を読んだ。ものすごいボリュームと内容の濃さである。
前日、仕事場で大森靖子の音楽をずっと流していて、これは救いの音楽だと思った。「ユリイカ」の特集を読んでいて知ったのだが、かつて大森靖子は「私は人を救うための音楽にしか、いままでもこれからも永遠に興味がありません」とブログに書いていたようである。
地元のおいしいものを食べに行ったり、ご当地のいろいろなものをスーパーマーケットやコンビニエンスストアで買ってホテルに持ち込んだり、夜にまた散歩をしたりする中で、これからのことについて考えている。
やはり希望を捨てるわけにはいかない。そのためには一体、何をどうすればいいのだろうか。少しずつビジョンは明確になりかけてはいると思う。明日の朝はまた散歩をするかもしれないが、しないかもしれない。
やはり大切なものは何なのかということは、はっきりと分かった。そして、やはりそれを目指していくしかない。そのための力が回復するのを、いまはただ待つばかりなのか。希望はやはりそこにしか無く、他にはまったく考えることができない。まだ、絶望が足りない。まったくもって性懲りが無い。それがはっきりと分かっただけでも、収穫があった。
