1984年の夏の思い出について。 | …

i am so disapointed.

1984年というと個人的には旭川の実家で暮らしていた最後の年で、大学受験を翌年に控えていたわけだが、相変わらず夏休みには札幌に遊びに行っていた。それで、デパートの屋上で開催された菊池桃子「SUMMER EYES」のキャンペーンに行ったり、タワーレコードでブルース・スプリングスティーン「カヴァー・ミー」の12インチ・シングルや玉光堂でザ・スタイル・カウンシル「スピーク・ライク・ア・チャイルド」を買ったりしていたはずである。

 

この年の夏のオリコン週間シングルランキングを見ると、小林麻美「雨音はショパンの調べ」が1位になったりしていたことが分かる。この曲はガゼボ「アイ・ライク・ショパン」のカバーであり、日本語の歌詞を小林麻美の友人でもある松任谷由実が書いていた。B面にはカヒミ・カリィも歌っていたジェーン・バーキン「ロリータ・ゴー・ホーム」のカバーが収録されていて、日本語詞は小林麻美が書いている。

 

日本におけるポップ・センセーションといえばチェッカーズ、そして、吉川晃司の人気だろうか。チェッカーズは「ギザギザハートの子守唄」「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」の3曲が同時に「ザ・ベストテン」にランクインしたということで話題になっていた。吉川晃司は2作目のシングル「サヨナラは八月のララバイ」が「ザ・ベストテン」にランクインした時に、六本木WAVEの店内から中継された回があるのだが、この時の映像は当時のこの店の雰囲気を知る上でひじょうに貴重な資料なのではないかと思う。ちなみに六本木WAVEのオープンは1983年11月18日なので、この時点ではまだ1年も経っていないということになる。

 

アイドルポップスの勢いは引き続きとどまるところを知らず、「花の82年組」からは中森明菜、小泉今日子だけではなく、堀ちえみ、石川秀美、早見優も新曲を出せばトップ10にランクインするというような状態になっていた。小泉今日子についてはこの年の3月21日にリリースされた「渚のはいから人魚」以降、オリコン週間シングルランキングで1位を記録することも多くなり、アーティストパワー的には松田聖子、中森明菜らと並ぶトップクラスに並んだような印象がある。

 

サザンオールスターズは1982年1月21日発売の「チャコの海岸物語」以降、シングルが4作続けてトップ10入りしていたが、1983年にアルバム「綺麗」からシングル・カットされ、同日に発売された「EMANON」に続き、11月5日発売の「東京シャッフル」も最高位が20位台で終わっていた。7月7日に発売されるアルバム「人気者で行こう」からの先行シングルは当初、AOR/シティ・ポップ的な「海」が予定されていたというが、直前で「ミス・ブランニュー・デイ」に変更されたようだ。「人気者で行こう」は当然のようにアルバムランキングの1位に輝いたが、「ミス・ブランニュー・デイ」も最高6位と久々のトップ10ヒットで、しかも秋まで売れ続けるロングセラーにもなった。

 

RCサクセションはレコード会社を移籍して最初のシングルとなる「不思議」をリリースしたのだが、それ以前によく分からないベストアルバムや企画盤のようなものが勝手にリリースされ、忌野清志郎がファンに買わないようになどと呼びかけていたような気がする。しかし、持っていないシングル曲が入っていたりしたので、ベスト盤の方は買ってしまった。よく分からない紙製のパンツのようなものが封入されていたのだが、あれもバンド側の以降とは一切関係がなかったのであろう。

 

佐野元春は5月21日のアルバム「VISITORS」をリリースしていたのだが、これが当時の日本のロック&ポップスとしてはひじょうに画期的な作品で、それもそのはず、ベストアルバムがオリコンで1位になるという最高のタイミングで単身でアメリカに乗り込み、現地でミュージシャンを探してレコーディングされたのがこのアルバムであり、まだメインストリームにはなっていなく、ひじょうにホットな音楽であったヒップホップを斬新に取り入れていたのであった。

 

いまや佐野元春の作品の中で最も高く評価されているのがこのアルバムという場合すらあるのだが、当時のファンの反応というのはまさに賛否両論という感じであった。それまでの街の景色や若者の心情を描写したようなロック、場合によってはシティ・ポップ的ですらあった音楽性とはかなり変わっているような気がした。私などはこの変化に大興奮し、刺激を受けたりもしていたのだが、佐野元春の音楽をニューミュージックの一種のような感じで聴いていた人達は佐野元春がアメリカに行ってよく分からない音楽をやるようになってしまった、というような反応だった記憶がある。

 

シティ・ポップでいうと、当時、果たしてこう呼ばれていたのかはよく覚えていないのだが、大滝詠一があの大ヒットアルバム「A LONG VACATION」以来、3年ぶりとなるオリジナルアルバム「EACH TIME」をリリースした。かなり話題になっていたような印象があり、オリコンでも1位になったのだが、個人的にはそれほど盛り上がっていなかった。というか、「EACH TIME」のレコードをかってすらいなかったのだが、翌年にこのアルバムからも何曲かを収録したコンピレーション「B-EACH TIME L-ONG」のカセットは買っていた。あと、「ペパーミント・ブルー」は確かNHK-FMの「夕べのひととき」でかかったのを、学習教材のカセットのあらかじめツメがないところにセロテープを貼って録音したものを聴いて、かなり気に入っていた。

 

竹内まりやが休業から復帰し、アルバム「VARIETY」をリリースするとオリコンで1位を記録するのだが、先行シングルの「もう一度」もよくラジオで聴いたような気がする。このアルバムには全体的にオールディーズっぽい雰囲気があり、「プラスティック・ラヴ」などは異色の楽曲という感じであった。とはいえ、浮いていたかというとそういうわけでもなく、これも含めて「VARIRTY」という感じだったような気がする。しかし、何十年も後にこの曲が日本のシティ・ポップスを象徴する楽曲として世界に知られるようになり、竹内まりやの代表曲と見なされることすらあるようになるとはまったく予想できなかった。

 

「VARIETY」をプロデュースしていたのは竹内まりやの夫、山下達郎だったが、自身はサーフィン映画「ビッグ・ウェイブ」のサウンドトラックアルバムをリリースしていた。主題歌の「THE THEME FROM BIG WAVE-ビッグ・ウェイブのテーマ-」はよくラジオで聴いたような気がするし、アルバムは全編が英語詞にもかかわらず、オリコンで最高2位を記録した。「クリスマス・イブ」はこの前の年にリリースされていたが、「夏だ!海だ!タツローだ!」的なイメージはまだまだひじょうに強かったという印象がある。

 

ニュー・ミュージックのシティ・ポップ化は日本経済が成長し、国民の平均的な生活水準が上がったことによるニーズの変化とも関係しているように思えるが、この影響は歌謡ポップスにも及び、アイドルポップスなどもより都会的に洗練された感じのものが増えていったのであった。それと同時に、テクノブームはもうすでに終わっていて、その中心的な存在であったYMOことイエロー・マジック・オーケストラもこの前の年には解散ならぬ散開していたが、その影響は歌謡ポップスに窺うことができ、シンセサイザーやシンセドラムが用いられた楽曲がひじょうに増えていったような印象もある。

 

あとはブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、カーズ「ハートビート・シティ」などを買って気に入って聴いていたのだが、プリンス「パープル・レイン」は当麻町から通っていた友人に借りて聴いていた。彼から借りたものの中ではハワード・ジョーンズのデビュー・アルバム「かくれんぼ」やトレイシー・ウルマンなども良かった。ザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」は買ったのはもう少し早かったが、夏の間じゅうずっと聴いていたような気がする。

 

この当麻町から通っていた友人というのが私にアズテック・カメラ「ハイ・ランド、ハード・レイン」を初めて聴かせてくれた人物なのだが、家にはピアノやドラムセット、シンセサイザーのようなものまであった。一緒に拙い曲をつくって、彼は水準に達していないので応募するべきではないという意見だったのだが、私はこっそりとアマチュアコンテスト的なもののテープ審査に応募していた。もちろん落選したわけだが、特に決めていなかったアーティスト名はYouth Remix(ユース・リミックス)なるユーリズミックスのパクり以外の何物でもないものにして、楽曲そのものは「センセイション!」というタイトルで、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」とポリス「見つめていたい」とヒューマン・リーグ「ファッシネーション」を足して5億で割ったようなものであった。彼とは卒業したら東京に出てポップ・ユニットとして活動していこうというような、夢物語を語り合ったりもしていた。バンドではなく、ポップ・ユニットである。彼は卒業後、地元の自衛隊に入隊した。

 

「センセイション!」の歌詞で描写されていた女性は当時、私が重めな片想いをこじらせていた同じクラスの女性であり、彼女は昼休みでもギャーギャーわめいている他の女子とは違って一人で文庫本を読んでいるタイプだったのだが、その後、警官になって夏休みにはディスコで「今日は仲間たちと来てるの~」などと言っていてすっかり変わってしまったという噂を聞いて、勝手に幻滅した。当時、私が彼女をモチーフにして書いた曲としては他に「金をあつめて」「看護婦ロック」「君の後れ毛がはねてるね」などがある(キモい上に誰が興味あんねん)。あと、この夏休みに旭川で文芸誌を出そうとしているいたいけな女子高校生がいて、「海」というタイトルの純愛中篇小説を投稿したのだが、もちろん彼女のことがモチーフになっていて、「うぬぼれてる人は嫌いよ!」とか言って彼女が私にに張り手を食らわせるのだが、その痛みに恍惚となり、いま死んだとしてもまったくかまわないし、もしもこの先も生きていったとして、これ以上の快感が訪れることを想像するのはひじょうに難しい、というような気持ち悪さ満載の内容だったような気がする。17歳の夏にしてこうなのだから、もうまったく救いようがないなという感じではある。