「アメリカン・グラフィティ」について。 | …

i am so disapointed.

夏になるとなんとなく見返したくなる映画の1本として「アメリカン・グラフィティ」がある訳だが、いわゆるオールディーズのヒットソングが全編にわたってかかりまくる青春映画である。アメリカで公開されたのが1973年8月11日ということで、やはり真夏だったようである。そして、舞台はそれから11年前にあたる1962年の夏ということで、公開時の時点ですでにノスタルジーを誘う作品だったようである。

 

この映画が日本で公開されたのはこの翌年の冬だったようで、私は小学2年だったことになる。当時のこの映画についての記憶はほとんどないのだが、次第になんとなく認知していったという感じだったと思う。というのも、50年代アメリカのポップ・カルチャーに対する憧れの気分のようなものがなんとなくあり、「アメリカン・グラフィティ」もその文脈で取り上げられがちだったような印象があるからである。

 

実際に「アメリカン・グラフィティ」では50年代のロックンロールやドゥー・ワップの名曲がいくつも使われているわけだが、先ほども言及したように舞台は1962年である。これがとても重要なように思える。実際には監督であるジョージ・ルーカスの若かりし日の記憶に基づいたストーリーということで、この時代が取り上げられているようなのだが、結果的にこの1982年という設定が絶妙に効いているのではないかと感じたりもする。

 

たとえば60年代のアメリカといわれてまずイメージするのは個人的にはカウンター・カルチャー的なものであったり、ヒッピーやサイケデリックに関連するようなものなのだが、それらはジョン・F・ケネディの暗殺やベトナム戦争といったアメリカ史における暗さのようなものの影響を受けていると思われる。「アメリカン・グラフィティ」が舞台にしている時代というのはそれらの少し前ということになり、ある種の無邪気さのようなものが眩しく輝いていられたという印象が強い。あとはサウンドトラックを聴いて感じるのは、やはりビートルズや第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン以前ということである。

 

この映画ではビーチ・ボーイズの音楽は流れるのだが、ビートルズや第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン、あるいはボブ・ディランやバーズなどの音楽はけして流れない。まだヒットしていなかったからである。

 

ビーチ・ボーイズはDJのウルフマン・ジャックによって新人バンドのような紹介をされ、「サーフィン・サファリ」がかかるのだが、それを聴いていたすでに高校を卒業した男はサーフロックは好きではない、ロックンロールはバディ・ホリーで終わったというようなことをいう。

 

私がこの映画の存在を本格的に意識しはじめたのは1970年代の終わりぐらいだったと思うのだが、当時は50年代アメリカのポップ・カルチャーがリバイバルしているようなところもあり、それが原宿のロックンローラー族であったり、いわゆるツッパリカルチャー的なものにも影響をあたえていたような印象がある。オールディーズの名曲が全編に流れる青春映画といえば「グローイング・アップ」シリーズがあり、これなどは明らかに「アメリカン・グラフィティ」の影響下にあると思えるのだが、当時はおそらく同じようなものなのだろうぐらいにしか思っていなかったというか、新作がリアルタイムで公開されたりもしていた分、「グローイング・アップ」の方が親しみやすかったりもした。「ゴーイング・ステディ」とか「恋のチューインガム」とかいうサブタイトルもまた良かった。

 

テレビの洋画劇場で放送される時には、田原俊彦が吹き替えをやったことでも話題になっていた。そして、1982年新春に放送されたスターかくし芸大会的な番組では、田原俊彦や岩崎良美などが出演した「グローイング・アップ」のパロディー的なドラマが企画されたりもしていた。エンディングではボビー・ヴィントン「ミスター・ロンリー」が流れていたと思うのだが、これを見て本気で良いと思った私はお年玉の残りで「グローイング・アップ」のサウンドトラック盤を買ったりもしていた。

 

「アメリカン・グラフィティ」のサウンドトラックはジャケットがオレンジ色のポップなやつで、その時点ですでにとても良いのだが、内容もひじょうに充実していて、オールディーズ入門盤としてもかなり良いのではないかと感じる。記憶が定かではないのだが、おそらくこれは大学生の頃に横浜のタワーレコードで買ったのではなかったかと思う。当時、何かのテレビCMに使われていて気に入っていたザ・フラミンゴス「瞳は君ゆえに」が入っていて、得をした気分になったことは覚えている。実際に映画を見たのがいつだったのかはよく覚えていないのだが、ローラースケートをはいたウェイトレスとドライブインのイメージにはよく分からない既視感があり、1981年に佐野元春「悲しきRADIO」を初めて聴いた時に、なぜかそれを思い浮かべていたのはひじょうに謎である。

 

また、日本のシンガーソングライター、CHARAは私とほぼ同年代なのだが、「アメリカン・グラフィティ」に影響されてローラースケートをはじめたのみならず、六本木のバーでローラースケートをはいたウェイトレスとしてアルバイトもしていたのだという。

 

「アメリカン・グラフィティ」は高校を卒業し、新しい進路に旅立っていく若者やその周囲の人々にとっての一夜の出来事をテーマにした作品である。過剰にドラマティックな展開などは特になく、どちらかとういうとありがちな日常を描いているように思える。舞台となっているのはカリフォルニアの田舎町ということだが、彼らの生活にとって車とポップ・ミュージックがとても重要な役割を果たしているような印象をあたえる。

 

ウルフマン・ジャックのDJは80年代初め頃の時点でもアメリカンポップカルチャーの象徴的なものとして人気があり、FENで聴くことができたり、サザンオールスターズの1982年のアルバム「NUDE MAN」に収録された「DJ・コービーの伝説」では小林克也がものまねのようなことをしていたりする。

 

やはり、ジョン・F・ケネディ暗殺だとかベトナム戦争以前というのはアメリカにとっていろいろな意味で無邪気で豊かな時代であり、オールディーズ音楽というのはそれを象徴するものだったのかもしれない。たとえば日本における80年代がそのような時代にあたるのだとすれば、シティ・ポップや昭和歌謡のリバイバルというのもそういうことなのかもしれない、と思えたりもする。

 

サウンドトラックアルバムについてはApple Musicなどのストリーミングサービスにもタイトルとしてはあるのだが、ごく一部の曲しか聴けない状態になっている。収録曲そのものはメジャーなものが多いので聴くことが難しくはないように思えるが、ウルフマン・ジャックのDJが入ったこのサウンドトラックならではの収録のされ方がされている曲などもある。

 

ノスタルジートリップといってしまえばそれまでなのだが、ここにはある時代のポップ・カルチャーが持っていたかもしれないイノセンスのようなものが時間の経過によってある程度は美化されながら記録されているようなところもあり、抗えない魅力を感じてしまうのである。