映画『(仮)不思議の村のアリシア』(1990年)の騒動・背景・余波 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

「キューバを震撼させた10本の映画」。これは、私の尊敬するキューバの映画研究家が構想している未刊本のタイトル。

この中の1本が、先日拙ブログで紹介した『(仮)不思議の村のアリシア』(1991年公開)で、キューバ公開時のスキャンダルじみた噂は、日本にも届いたくらいです。

        

 

もう30年も前のことですが、① 騒動の内容 ②当時の社会的背景・文化的動向 ③余波=90年代のICAIC、について、主に彼のブログ記事を基にまとめてみました。

 

①  映画の評判と騒動

『不思議の村のアリシア』は、キューバで公開される前(1991年2月)に「ベルリン国際映画祭」で上映され、2つの賞を獲得するなど成功を収めていた。社会主義建設における欠陥を遠慮なく咎めるユーモラスな批判が評価された。

 

キューバでの封切りは、6月13日。すでにその前から本作に対する〈辛辣な映画評〉が複数の新聞紙面に掲載されていた。そして迎えた封切り日には、何百人もの共産党青年同盟の活動家が招集され、映画館の中で拒絶反応を示すという使命を負わされた。この過度の集団性こそ、本作が糾弾する欠陥のひとつだった。

 

一方、映画批評家や観客からは、そうした非難は起きなかった。

「現状を批判しているが、反革命ではない」。それがICAICの見解だった。

 

しかしメディアは違った。《アリシア、臆病者たちの祝宴》など、グランマ(キューバ共産党機関紙)に掲載された見出しを見れば、その暴言ぶりは明らかだった。

 

映画は、公開4日で打ち切られた。

 

追加ビデオ(7月7日) 30年後、当時の騒動(検閲)について語るタイス・バルデス(アリシア役)  

 開始から38分~

 
タイス:『アリシア~』は忘れられない体験になった。映画は検閲を逃れてベルリン映画祭に行った。
ベルリン映画祭では、「初めての開かれたキューバ映画」「キューバのペレストロイカ」などと言われたが、帰国すると検閲が待ち構えていた。映画館で公開されたのは3日だけ。それもこの映画を見たがっていた一般の観客のためではなく、本作を攻撃するために動員された人のためだった。「出演者をやっつけろ」「革命万歳」などの声があがり、検閲がかかった。
私としては、体制に揺さぶりをかけ、登場人物が実在の人間と一致する部分もあるとは思ったが、まさかこのような行為が行われるとは想像だにしなかった。学校の先生や工場労働者が、映画を攻撃するために、仕事を休んで映画館に行かされた。実際、私の知り合いや友人、親族の中にも証言者はおり、あたかも私たちが国の基本原則に反対しているかのように言わされた。

最も悲しむべきはキューバのメディアの役割だ。当時のキューバの報道は一方的だった。公式見解と違う報道はなかった。私たちは外国に銀行口座をもっているとか、政府や革命に反対しているなどと非難された。メディアが誠実ではないとき、反論の機会を与えられない私たちは不利な立場に置かれる。表現の自由という当然の権利がないせいだ。表現の自由は、共同体にとって、そして教育にとって重要だ。

自分を表現すること、個人の表現は決して抑圧されてはならない。
意見の違いはあるべきだし、それを反対者と見なしてはならない。
国家は市民たちの声を聴き、連帯せねばならない。

 

②  80年代のICAIC(映画芸術産業庁)とその他の新しい動き

『セシリア』(ウンベルト・ソラス監督・1981年)の不評が、アルフレド・ゲバラの左遷(ユネスコ大使としてパリに赴任)をもたらし、‘82年からは、フリオ・ガルシア・エスピノサ監督がゲバラの後を継いだ。

エスピノサ指揮下(80年代)のキューバ映画は、一般に分かり易く、ポピュリズム的傾向が指摘される。

 

ファン・カルロス・タビオ、ロランド・ディアス、オルランド・ロハス、フェルナンド・ペレスらが長編フィクション・デビューする一方で、グティエレス・アレアの『Hasta cierto punto』、ヘスス・ディアスの『Lejanía』、ウンベルト・ソラスの『Un hombre de éxito(邦題:成功した男)』、ピネーダ・バルネットの『La Bella del Alhambra(アルハンブラ劇場の花形)』なども撮られた。

 

ところで、美術の分野では、80年代中頃から、それまで支配的だった前提を揺さぶるようなクリエーターが出てきた。

映画でも、軍やシネ・クラブ、映画学校(エルマノス・サイス、国際テレビ映画学校)などICAIC外で、〈新しい表現への欲求〉が生まれた。

 

*80年代末に(エルマノス・サインス校で)実験的短編を撮ったマルコス・アントニオ・アバッドの宣言:

「我々はプロフェッショナルであり、初長編を撮るのに10年も待つ必要のない世代だ。20代で撮る作品が、40代の作品と違うのは当然で、我々は今、自分たちの願望と夢の跡を刻み付けておきたいのだ。80年代の我々はこうだったと。自分たちを裏切るのはやめよう。キューバ映画の芸術における真正のために闘おう。我々は個人の感覚に訴える映画を撮りたいのだ。同時代の問題や社会の問題に対峙したいのだ。我々はグループとして、モラル等の図式と妥協するつもりはない。各監督それぞれに人生の見方があり、それを表現するまでだ」。

 

この非難声明は、明らかにICAIC製作映画に向けられていた。

そして、余りにも古くなったモデルを壊したいという願望がICAICに届くのに時間はかからなかった。

長編フィクションデビューした監督たちの2作目―『Plaff』(カルロス・タビオ/1988年)、『La vida en rosa』(ロランド・ディアス/1988年)、とりわけ『Pepeles secundarios』(オルランド・ロハス/1989年)では、映画話法がより複雑になっている。

 

折しも〈ペレストロイカ〉同様、キューバは〈誤りの修正〉プロセスにあった。

よって、あらゆる芸術表現において、批判的な態度が見られるのは極めて当然の成り行きだった。

 

実際、『不思議の村のアリシア』が企画されたのも89年だった。

*脚本に参加したエドゥアルド・デル・リャノの証言:

「映画の企画は89年末には始動していた。物議を醸すことは予想されたが、現実は予想を超えていた。87年、88年、89年までの世界と、91年では何かが大きく変わっていたとしか考えようがない」。

 

③余波:  ICAIC長官の交代と90年代ICAIC

公開時期を誤った『アリシア~』は、ICAICを危機に陥れた。

折しも(予算の合理化を理由に)テレビ局との組織的合併計画がもちあがっていた。

これは、ICAICの消滅を意味していた。

国の文化政策とICAIC幹部との間に大きな緊張が生じていた。

この危機を乗り切れるのは、アルフレド・ゲバラしかいなかった。

10年のブランクを経て、A.ゲバラは急きょパリから本国に呼び戻された。

“フィデルの特別ミッション”で帰国した A.ゲバラを映画人たちは(アレアでさえも)歓迎した。

再びICAIC長官に返り咲いたゲバラのミッション。それは、映画人たちの政治的信頼を回復することだった。

 

同年12月9日、『アリシア~』は、ハバナ映画祭で再上映された。

*A.ゲバラの挨拶:

「ダニエル・ディアス・トーレス監督は、最もキューバ的なキューバ人であり、いかなるマニピュレーションも許さない革命家です。そして、今我々と共に、皆さん方の前にいます。この映画、私たちの映画を紹介するために。私たちはこの映画を敵の手に渡したりはしません」。

 

しかしながら、『アリシア~』は、未だに通常の上映サイクルから外れたままだ。

これまで上映されたのは、ほんの数回。もちろんテレビで放映されたことは一度もない。

 

*ダニエル・ディアス・トーレス監督のことば

「残念ながら『アリシア~』事件は、キューバ文化史の暗い1ページになった。だが映画は、冷静で、芸術論的で、偏見のない批評(それらは当時は無理だった)を未だに待ちわびている。討論、論争、意見の相違こそ有効だと私は思う。禁止は正当化できない」。

 

補足:

「A.ゲバラは反乱を制圧するために戻った」と中傷する声がある。

だが、90年代の最も論議を呼ぶ5本の映画―『苺とチョコレート』『マダガスカル』『Pon tu pensamiento en mí』『グアンタナメラ』『口笛高らかに』―が、彼の下で製作されたことを忘れてはならない。

 

追加ビデオ

昨夜のうちに上の記事を用意し、その内容について、今日また友人とお喋りしていたら、彼女が「それについて監督が喋っているのをYoutubeで見たことがある!」と言い、早速送ってくれました。

すごい! 迫力があるし、背景がさらに見えてきた…。

 

  

 

※ 追記(7月2日)

 上のビデオを理解するためにも、ICAICの組織的変遷について、概略のみまとめてみました。

 ICAICの組織的変遷 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)