みなさんは、井上馨(いのうえ かおる)という人物を知っていますか❓
井上馨は長州藩(現在の山口県)出身で、幕末に尊王攘夷運動に参加しています。
1863(文久3)年、藩命により伊藤博文らとともにイギリスへ渡航し、開国の必要性を強く認識します。
明治維新後、大久保利通大蔵卿(おおくらきょう:現在の財務大臣)が岩倉遣外使節団の副使として渡欧後は、大蔵卿代理として大蔵省の実権を握り、渋沢栄一らとともに新政府の政治的・財政的基盤の確立に努力しました。
井上馨は1879(明治12)年に外務卿に就任し、内閣制度発足の1885(明治18)年第一次伊藤博文内閣の外務大臣に就任し、幕末以来の不平等条約の改正に尽力しましたが、鹿鳴館時代として知られる極端な欧化政策が激しい非難を浴び、辞職を余儀なくされました。
今回は井上馨の条約改正交渉が、なぜ内外の厳しい批判にさらされたのかについて歴史を深めてみたいと思います😊
日本にとって不平等条約の改正はまさに悲願でした。
開国に際し国際法理解も不十分なまま、武力威嚇下に締結した1858(安政5)年の安政の五ヵ国条約(アメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス)などの条約は、在留外国人は日本の法律や行政規則を守らなくともよいと主張、それを俗に治外法権と称しました。
また輸出入品の関税も協定関税率を強制されていたため、国家の主権を毀損(きそん)したうえに、関税障壁を高くして自国産業を保護するといった関税自主権もありませんでした😨
さらにこういった不平等条約下の国家は、戦時国際法の適用外という理論があり、条約改正は国家の安全保障にかかわる重要な問題だったのです。
戦時国際法とは、戦時における国家間の関係を規定する法のことです。
この法は、戦闘方法や交戦国国民の財産・通商関係、中立国の権利義務などを規定していました。
井上馨は1882(明治15)年、列国の代表を集めて行われた条約改正の予備会議で、日本国内を外国人に開放する(内地雑居)ことを発議しています。
そして、その前提として外国人の日本裁判権への服従と領事裁判権の放棄を求めました。
この内地雑居は、当時の日本人にとって重大な問題でした。
安政の五ヵ国条約の規定では、外国人は居留地・開港場での居住およびその10里(40㎞:1里は4㎞)四方の遊歩のみが認められていましたが、明治維新以後、政府や諸藩によって招かれた教師・技術者また宣教師などが、内地雑居や国内旅行をし、土地を所有するなどの事態が生まれました。
内地雑居の是非をめぐる議論は、文明開化期から展開されていましたが、日本国人の間では安政の五ヵ国条約の内容を励行させることで、外国人に不便を痛感させ、外国人に条約改正の必要性を強く認識させるべきだ❢❢との主張がなされることになりました。
今では外国人が日本国内を自由に旅行したり、土地を購入して家屋を建設したりするのは、当たり前の状況で何ら不思議なことではありません。
しかし当時は、外国人による土地購入が、外国人による日本占領・支配につながると考えられたり、外国人によって日本の伝統文化が破壊されるなどといったことが真剣に危惧されていたのです😓
井上馨を代表とする日本政府は、条約改正交渉を円滑に進めるべく、欧化政策を推進することになります。
日本の文化が西洋の文化に近づいていることをアピールすることで、条約改正交渉を進めやすくしたのです。
このような欧化政策に基づいた外交を、鹿鳴館外交と呼びます。
鹿鳴館外交の内実と日本政府の条約改正交渉とは、一体どのようなものだったのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います😊