前回の続きになります。
国家はどのような手段を使って、租税徴収を行ったのか、ということでした。
ここでは中央から地方に派遣される「国司(こくし)」が重要な意味を持つことになります。
国司は、各国の宗教統制・人民管理・租税徴収・軍事警察など行政の全てをつかさどる存在でした。
この国司のもとで、律令制下における行政区分である「郡」を治めた地方官が、「郡司(ぐんじ)」でした。
私は授業で、国司が管轄する「国」は現在の「県」に、そして郡司が管轄する「郡」は現在の「市」レベルにそれぞれあたると説明しています。
この郡司の役割がとても重要で、税の徴収・運搬や文書の作成などの実務が郡司の担当だったのです。
中央から派遣された貴族である国司も、この郡司に依存する形で、各国の統治を行ったのでした。
しかし、国家は歳入の大幅減という非常事態を受け、各国に派遣される国司に大きな権限と責任を負わせます。
つまり、国司に一定額の税の納入を義務付ける代わりに、一国の支配権を与えたのでした😲
律令制下の各役所は、「四等官制」というシステムが採用されていました。
四等官とは、長官(かみ:事務統轄)・次官(すけ:長官補佐)・判官(じょう:一般事務)・主典(さかん:書記)のことです。
国司の場合は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)と表記されました。
この中で、実務をとる国司の最高責任者(普通は「守」を指す)を受領(ずりょう)といい、この受領が強力な権限のもとで、徴税にあたりました。
郡司は、ヤマト政権が全国各地を治めるために置いた地方官である「国造(くにのみやつこ)」の系譜で、「伝統的な地方の支配者」として君臨していました。
律令国家は、伝統的な支配者である国造を郡司に任命することで、租税徴収などの実務を担当させ、これを国司が監督するというシステムを構築しました。
しかし10世紀を迎え、国司は地方官というよりも徴税請負人の性格を強めると、自ら直接租税徴収にあたり、巨利を獲得しようと躍起になります。
こうして郡司の伝統的な支配力・役割は衰退していき、国司に従属する存在へと変化していくことになるのです😨
では、国司はどのような方法で租税徴収を実行したのでしょうか❓
奈良時代から平安時代にかけて、農民間に「貧富の差」が拡大していきます。
土地開発・農業方法などで成功する農民がいる一方で、没落する農民が出るのです。
農業で成功を収めた有力農民は富豪百姓などと呼ばれ、国司はこの富豪百姓に目をつけたのです❢❢
国司は各国の土地を「名(みょう)」という徴税単位にわけ、有力農民に田地の耕作を請け負わせ、租・調・庸や出挙(すいこ)などの系譜を引く「官物(かんもつ)」と、雑徭(ぞうよう)に由来する労働である「臨時雑役(りんじぞうやく)」を課すようになります。
この有力農民は田堵(たと)と呼ばれ、請作地に対する耕作権は1年限りで不安定でしたが、優れた経営能力によって開発地を増やしていく者もありました☻
国司は従来の徴税方法とは異なり、土地を課税単位として、田堵と契約を結んで彼らに税の納入を義務付けたのでした。
国家 →任命→ 国司 →耕作契約→ 田堵
国家 ←納税← 国司 ← 納税 ← 田堵
こうして、戸籍に記載された成年男性を中心に課税する律令体制の原則は崩壊し、土地を基礎に国司(受領)が田堵から徴税する体制が完成したのです。
人は逃げるが、土地は逃げない。
現在のようにスーパーマーケットやコンビニエンスストアがある時代ではありませんから、人々は必ず田地に農作物を植え、収穫しなければ生きてはいけない…。
国家から大きな権限を与えられた国司は、土地自体に税をかけ、その土地を有力農民(田堵)に耕作させる契約を結ぶことで、莫大な利益💸をあげました。
国家としては歳入増が緊急の課題でした。
もともと国司は天皇の代理者として、地方をしっかり治める役割を担っていたのですが、地方から税を徴収することが主目的の存在へと変質してしまいました。
国家へ一定額の税納入さえ行えば、あとは自分の収入になるということもあり、中央政界での出世を諦めた下級貴族には、大変に人気のある官職になってしまいました。
こうして地方政治は徐々に荒れていくことになるのです😓
荒れた地方を鎮める大きな力が必要とされます。
こうして、新しい勢力としての武士が歴史に登場することになるのです。
現代にも通じるような話ですが…。
歴史の大きな転換期は、教師も生徒も共に「なぜ」なのかを考えることが大切である、と私は考えています。