日本史の考え方21「なぜ徳政一揆が起こるのか」
でも触れましたが、今回改めて「徳政令」を扱いたいと思います。
高等学校で使用する日本史の教科書には、実に興味深い記述があります。
「土一揆(つちいっき)はしばしば徳政(とくせい)のスローガンを掲げて各地で蜂起(ほうき)し、室町幕府も徳政令を乱発するようになった。」
土一揆とは、
当時の一般庶民層は、支配者側から土民(どみん)と呼ばれており、その土民が徳政などを要求して起こす反権力闘争のことです。
徳政とは、
もともとは、儒学の理念に基づく徳のある政治、つまり「仁政(じんせい)」のことでしたが、のちには「借金の帳消し」の意味合いが強くなっていきます。
ここで中・高校生に注目させたいのは、
なぜ、幕府は徳政令を「乱発する」ようになるのか❓
ということです。
鎌倉時代後期、文永の役・弘安の役(いわゆる元寇)などによる社会情勢の変化や、所領の細分化により、窮乏化していく御家人(ごけにん:将軍と主従関係を結んだ武士のこと)を救うため、支配者である鎌倉幕府は仁政を行う必要から、「永仁の徳政令」〔1297(永仁5)年〕を発令しました。
この「永仁の徳政令」の内容を見ると、
御家人の所領の質入れや売買を禁止して、それまで質入れ・売却した御家人領を「無償で」取り戻させています。
果たしてこの徳政令は、御家人にとって徳政(=仁政)になったのでしょうか☻❓❓
教科書には、次のように記述されています。
「効果は一時的であった。」と。
なぜでしょうか😅❓❓
この問いは生徒に考えさせてよいのではないかと思います。
鎌倉時代は、現代と同様に貨幣経済💰でした。
御家人たちは貨幣の必要性に迫られた場合、自らの土地を質に入れてお金を借りたり、または売却したりして、現金を得ていました。
ではどのような階層の人々が、御家人にお金を貸したり、御家人の土地を買ってくれていたのでしょうか❓
大きく分けて以下の3つに分類することが可能です。
①御家人
②非御家人(将軍と主従関係を結んでいない武士)
③借上(かしあげ:高利貸金融業者のこと)
いずれも大学入試には必須の重要歴史用語になります😊
この①~③の中で、特に③に注目させたいところです。
現代もそうですが、貨幣経済の世界では、何といってもお金💸が必要不可欠です。
当時、借上と呼ばれた金融業者は、現在の銀行のようになくてはならない存在であったことは容易に推測することができます。
その金融業者である借上は、御家人に対して、土地を担保にお金を貸したり、土地を買い取ったりして、御家人に現金をもたらしていたのです。
借上にとって、鎌倉幕府の仁政(=ここでは永仁の徳政令のこと)は、本当に仁政だったのでしょうか😓❓
御家人にとっては、手放した土地の所有権が戻ってくる仁政であっても、借上にとっては悪政以外の何物でもありませんでした😲
借上が御家人に渡したお金💰が戻ってこないばかりか、契約に基づいて手に入れた土地を鎌倉幕府の独善的な命令で奪われてしまうことになります。
このようなことがあって以降、もしまた御家人が土地を担保にお金を貸して下さい…
と言われたら、借上は御家人にお金を貸すでしょうか❓❓
生徒に質問すると必ずこう返ってきます😅
「もう絶対お金を貸すことはありません❢❢❢」
ですから、永仁の徳政令の効果は「一時的」、だったのです。
御家人は、永仁の徳政令によって、一度手放したはずの土地の所有権を取り戻すことはできましたが、借上からの金融を受けることが著しく難しくなってしまったからです。
仁政のように見えた鎌倉幕府の政策は、結果として悪政になってしまったのです。
そして上記のことと同じようなことが、室町時代にも起こったのです。
つまり❢❢
土一揆が要求したのは、借金の帳消しです。
土民は、酒屋(さかや)・土倉(どそう)などと呼ばれた高利貸金融業者からお金を借りていました。
室町幕府が土一揆の要求を受け入れて、借金帳消しとしての徳政令を出せば、酒屋・土倉が泣きを見ることになります。
にもかかわらず、室町幕府は徳政令を乱発するようになるのです。
では室町幕府は、酒屋・土倉については何の配慮もなかったのでしょうか❓
「何の配慮もない」、などあるはずがありません。
室町幕府と酒屋・土倉は密接なつながりがありました。
徳政令を出すという行為は、室町幕府にとって「もろはの剣」であり、幕府自体も大きなダメージを被る政策でした。
室町幕府にとっての徳政令とは、どのような意味を持つのか…。
なぜ室町幕府は、徳政令を乱発するのか…。
この続きは、次回にしたいと思います。