第4回目は、「源頼朝が鎌倉に幕府を設置した理由」について考えてみたいと思います。

 

鎌倉幕府を成立させ、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、なぜ鎌倉という地を幕府の所在地として選んだのかと問われたらどのようにお答えになりますか。

 

大学入試問題とは、あくまで高校生が解くものであり、出題者は解答者として当然高校生を想定しております。

 

高校生は高等学校等で教科書を使用して授業を受けておりますので、やはり教科書の記述が大変に参考になります。

 

教科書には以下のような記述がなされています。

 

鎌倉は源頼義(みなもとのよりよし)以来、源氏とのゆかりが深い地で、三方を小さな丘陵(きゅうりょう)にかこまれ、南は海にのぞむ要害(ようがい)の地であった。頼朝によって、幕府所在地となる。」と。

 

まさにこの記述が解答になるのでしょうが、授業においてはもう少し解説を加えます。

 

ちなみに「要害の地」とは、守りやすく攻めにくい所という意味です。

 

ところで源頼義とは、どのような人物なのでしょうか❓

 

源頼義

源義家(よしいえ)

源義親(よしちか)

源為義(ためよし)

源義朝(よしとも)

源頼朝(よりとも)

 

ご覧いただけるとお分かりのように、頼義からすれば頼朝は5代あとの子孫、つまり来孫(らいそん)にあたります。

 

源頼義前九年合戦と呼ばれた、現在の東北地方にいた豪族安倍氏の反乱を鎮圧した戦いにおいて戦功をあげたことで知られる武将です。

 

冷静沈着にして武略に長(た)けた武将として評価されています。

 

そしてこの源頼義の武士としての能力を高く評価した人物がいました。

平直方(たいらのなおかた)という人物です。

 

平直方は自らの娘の婿(むこ)として源頼義を迎えます。

そして源頼義平直方の娘との間に生まれた子である源義家に、平直方鎌倉に持っていた所領を譲ります。

 

これ以来、鎌倉は源氏の所領となり、教科書の記述にある通り、鎌倉は源氏とのゆかりが深い地となるのです。

 

源頼義石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)をこの鎌倉の地に勧請(かんじょう:神仏の分身、分霊を他の地に移してまつること)し、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を創建します。

 

鎌倉の地形は教科書の図にもあるように、北・東・西の三方を標高100m前後の丘陵に囲まれており、南は相模湾に面しています

 

 

し細かい説明になりますが、この相模湾に面した海岸が、海水浴場としても有名な由比ケ浜(ゆいがはま)です。そしてこの由比ケ浜に作られた人工の島が、和賀江島(わがえじま)になります。

 

和賀江島は現存する唯一の鎌倉時代築港跡として、国史跡に指定されています。

 

源頼朝鎌倉を根拠地とした時は、平氏との戦闘中でしたので、源頼朝は平氏に攻め込まれた場合を想定して防御を整える必要性がありました。

 

防御という観点から考えた場合、この鎌倉の地形は大変に役立ちました。

攻め込みづらいこの都市は、まさに天然の要塞(ようさい:軍事的な防備施設のこと)都市として存在したのです。

 

源頼朝は、先祖である源頼義以来のゆかりの地である鎌倉を重んじ、それと同時に鎌倉が持つ特殊な地形を利用することで武家政権の根拠地としたのです。

 

また鎌倉という地は、東海道の要衝(ようしょう:交通・商業・軍事などの面からみて、最も大切な地点)の地でもありました。

 

 

倉幕府の開設により、京都と関東の交通が頻繁(ひんぱん)になり、国内第一の幹線となります。

 

現在、ほぼこれに沿った形で国道1号線が通っています

 

 

以上のように、大学受験レベルの考え方をお示ししてまいりましたが、歴史は思考力を高めるるのに実に役立つ学問です。

 

なぜなのか❓という問いを常に持つことが大切です。

 

これは決して大学受験を目指す高校生ばかりでなく、中学受験を目指す小学生や高校受験を目指す中学生にも必要とされる姿勢である、と私は考えております。