第3回目は、「近世初期の日朝関係」について考えてみたいと思います。
今も昔もそうですが、日本のすぐお隣の朝鮮半島との関係は大変に重要です。
しかし近世初期の段階における日朝関係は、とても険悪(けんあく)なものでした。
その原因が豊臣秀吉の命によって実行された朝鮮侵略でした。
この朝鮮侵略は2度実施され、1度目は1592(文禄元)年に実行に移された文禄の役、2度目は1597年(慶長2)年に実行に移された慶長の役です。
朝鮮ではこの2度の朝鮮侵略を、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)倭乱(わらん)と呼んでいます。
こうして日本と朝鮮との関係は断絶してしまいました。
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍の宣下を受け江戸に幕府を開いた徳川家康は、豊臣秀吉とは異なり、朝鮮との講和を目指しました。
しかし、なぜ徳川家康は朝鮮との講和の必要性を感じたのでしょうか。
日本史の教科書には次のような記述があります。
「家康は朝鮮や琉球王国を介して明(みん)との国交回復を交渉したが、明からは拒否された。」と。
海外との貿易に積極的であった徳川家康は、明との国交を回復し、断絶していた明との貿易の再開を強く望んでいました。ですから明と関係の深い国を通して、国交回復のための交渉を行っていました。
幕府にとって朝鮮は、明との仲介に重要な役割を果たす国だと考えられていました。
しかし豊臣秀吉の朝鮮侵略以来、日朝関係は断絶しています。明との国交回復交渉のためにも、朝鮮との国交回復が重要であるという考え方が生まれます。
こうして日朝関係改善のための交渉がなされることになりました。
ここで高校生に「思考力を高める問い」を投げかけることができます。
「日朝関係改善のための交渉」は簡単に実現可能なものだったと思いますか❔という問いです。
結論から言えば、恐らく、いや相当に難しかったと考えられます。
なぜなら豊臣秀吉によって起こされた朝鮮侵略は、大量殺戮(さつりく)行為や捕虜(ほりょ)連行など、朝鮮民族に計り知れない傷跡を残した、と歴史辞典などには書かれています。
そうであれば、日本の支配者が豊臣秀吉から徳川家康に代わったとは言え、そう簡単に日朝関係の改善はできないと考えるべきです。
しかし徳川家康には秘策がありました。日朝関係改善のための切り札と言える人物がいたのです❢
それが対馬(つしま)藩の宗氏(そうし)でした。
宗氏は、鎌倉時代から江戸時代末の対馬の領主です。
室町時代に入ると、朝鮮半島に「朝鮮」という国が建国されます。このことに関して、教科書には次のような記述があります。
「日朝貿易は、明との貿易と違って、幕府だけではなく初めから守護・国人(こくじん)・商人なども参加してさかんにおこなわれたので、朝鮮側は対馬の宗氏を通して通行についての制度を定め、貿易を統制した。」と。
この記述は何を意味するのでしょうか❓
日朝間における宗氏の立場を明確に示しています。つまり宗氏は日朝間をつなぐパイプ役であり、朝鮮から厚い信頼を得ている、と考えることができます。
朝鮮と宗氏の関係は、中世の室町時代以来厚い信頼関係のもと続いてきたのです。
だからこそ、徳川家康は宗氏の外交能力に期待したのです。
以上が日朝関係改善をはかる幕府側(徳川家康)の思惑(おもわく)です。
次回は、宗氏・朝鮮の国交回復に対するそれぞれの思惑について考えてみたいと思います。